続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

箕作山城

2020年07月09日 | 山城
箕作山城(みつくりやまじょう)は、観音寺城から中山道をはさんで南東側の正面にある清水山山頂に位置す
る。
小脇山・太郎坊宮・箕作山と尾根続きであるが、清水山の隣りの箕作山山頂には城郭遺構は認められないと
されている。

 城の記録では、まず、応仁の乱後の混乱した近江で、六角高頓に対抗するため、
幕府側が擁立した佐々木正克が近江へ攻め入った際に龍城したのが清水城で、これが箕作山城の前身とされるが定かではない。

つぎに六角義賢が永禄五年(1562)に家督を子の義弼に譲り、
 自身は承禎と名乗り箕作城に移ったとあり、これは箕作山城の北側山麓に伝えられる箕作館であると思われる。

そして、明確な記録で登場するのが永禄十一年(1568)に織田信長が近江へ侵攻した際である。
このとき六角氏は観音寺城に加え、和田山城・箕作山城の防御を固め、迎え撃とうとした。
このとき、箕作山城の守りには六角氏家臣の建部源八郎と吉田出雲守が入ったという。戦いは九月十二日午後四時に佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽長秀らが攻め上った。
六時問におよぶ戦闘の末落城し、これを受けて和田山城からも兵が退去し、観音寺城にいた六角承禎・義弼父子も夜陰にまぎれて甲賀郡に逃れた
という(『信長記』『総見記』)。

神宮寺山城 近江国(大津 坂本)

2019年02月23日 | 山城

神宮寺山城(砦)
お城のデータ
所在地:大津市坂本日吉町 map:https://yahoo.jp/p2_vPs
区 分:山城(砦)
築城期:織豐期
築城者:浅井朝倉方
遺 構:土塁、平削地、切り岸 
比 高:477m 比高差:350m
目標地:八王子神社
訪城日:



お城の概要・歴史
元亀年間の志賀の陣において朝倉方が構築した城砦のひとつ。
1570年、朝倉氏による築城。

志賀の陣で朝倉・浅井勢が布陣した八王子山城より北西に450m、神宮寺山(標高447m)の山頂に築かれた山城。
頂部に50m四方の平坦地が見られ、その中央に土塁と思われる土盛りが確認できる。
特に南東側が広く平削され、その先は切岸状の急斜面となる。
斜面には2段の帯曲輪が確認でき、反対の北西方向には約100mに渡って緩やかに尾根が伸びている。
八王子山-三石岳間のトレッキングコースが城域の東側を通り、八王子山との間には土塁や堀切と思われる地形が見られる。
そのことから、八王子山城と連携した城であったことが窺える。



大津市教委は、同市坂本5丁目の山中にある「日吉神宮寺遺跡」から、石垣で囲まれた室町時代の建物跡の礎石などを確認したと発表した。この地は「日吉神宮寺旧跡」と伝承され、室町時代の古図に描かれている建物の位置関係とも一致するため、市教委は「古図に描かれた同寺の遺構である可能性が高い」としている。
 遺跡は「史跡日吉神社境内」の飛び地となっており、八王子山(381メートル)のさらに奥にある。
今回見つかった建物跡は、三方を石垣で囲まれ、広さは南北約20メートル、東西16メートル。その内側に大小の礎石が多数あり、南北12メートル、東西9メートル規模の建物があったと推定される。建物跡の遺物から、室町時代の建物跡と断定した。
 市教委の調査では、室町時代の「日吉山王社古図」(延暦寺蔵)には、織田信長による焼き打ち(1571年)以前の建物が描かれ、遺跡に該当する場所に建物があったことが分かるという。礎石の配置と古図に描かれた建物の形状から、この2つが一致する可能性が高いとみている。
 今回の調査ではまた、建物跡の約20センチ下の地層で平安期の遺構面も確認された。この下層には1メートル以上の土の堆積(たいせき)があり、さらに古い遺構が存在する可能性もあるという。(中日新聞)

参考資料:滋賀県の城(神宮寺山城)(神宮寺砦)、大津市教育委員会
本日の訪問ありがとうございます。

歓喜寺山城 近江国(志賀 大物)

2018年11月26日 | 山城
 

お城のデータ
所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)大物  map:https://yahoo.jp/BrOefb
現 状:山林(山頂)
区 分:山城
築城期:織豊期
築城者:比叡山延暦寺の僧
遺 構:堀切・土塁・平削地(曲輪)・切岸
標高:372m 比高差:122m 
目標地:歓喜寺
駐車場:歓喜寺手前駐車場
訪城日:2016.4.20・2018.11.26


お城・寺院の概要
 百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基したと伝えられている天台宗の古刹「歓喜寺」があり、今は薬師堂だけ」がひっそりとたたずんでいる。幸い、車で歓喜寺まで舗装の参道がついている。
 歓喜寺は、かつての元亀の騒乱に対処しては、僧坊跡が三カ所豪快に堀切で城郭化されている。いずれも僧坊を破壊して砦化した平削地の作事で建物は城砦・曲郭に転用したのであろう。石垣や堀切で3つに区切られた歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。
 歓喜寺城(歓喜寺)は. 志賀町大物所在した歓喜寺は、 山岳寺院の一角に築造された「平地の城館をモデルとしての山岳寺院」で、僧坊をの城館・廓に転用したのである 。 その 築城契機は明確ではないが、背後山頂の 歓喜寺山城城郭遺構や土塁・石垣・堀切・土橋が残存する。
歓喜山城は、北の遺構はシダの海で確認できず、南の遺構は廓・土塁や竪堀は確認できたが、砦や見張り台の感じで、歓喜山城の城郭遺構とは作事の大きく違う。
しかし、南廓からの眺望は、素晴らしい・・・歓喜寺・歓喜寺城は谷筋に遺構が残る。
 余談ですが、2008年の開帳(33年に一度開帳されて来た)の準備のため、薬師堂を開けたとこと、本尊が消えていたという。警察に被害届を出したが発見されていない。歓喜寺は戦国時代の頃には、土塁や石垣で囲われた山城のような寺だったは、元亀3年(1572)織田信長軍の焼き討ちに逢う。その際、もの際、本尊の薬師瑠璃光如来立像を僧侶が山中に埋めて守り、後に住人が発見。文禄元年(1592)に住民らが薬師堂を建て、志賀地域一帯の信仰を集めていきたという。
お城・寺院の歴史
木戸庄は、木戸城主の所領である。木戸庄には、木戸城・荒川城・歓喜寺城・南比良城・北比良城・比良城がある。
歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されいます。
また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺山城も残存する。
『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。
『当代記』には、木戸城(志賀町)  元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」
 元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。
『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。
信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事
 信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----
信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事
 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、城歩会レジュメ(作図:長谷川博美氏)遺跡ウォーカー、信長公記
 本日の訪問ありがとうございす!!

下山田城 近江国(長浜 高月町下山田)

2018年05月21日 | 山城
 下田山城
 下山田城は小字城山にあって、築城期は不明であるが当地の豪族山田氏の居城である。山田氏は京極氏の家臣にて類題京極家の執政をつとめた家筋で大永年間(1521~1528)以降の京極氏没落後山田越中守清氏、同上野介清頼親子ともに浅井氏に属せず京極高清、高延を補佐して忠節を尽くした。清頼の子阿波守清良しもまたまた京極高広の執政となり、一族喜兵衛尉清信は浅井滅亡後明智光秀に仕え、同平衛尉直政は京極氏時代より坂田郡村居田に知行を給せられていた。(日本古城友の会幹事 吉田修)

お城のデータ
所在地:長浜市高月町下山田 map:https://yahoo.jp/2MOPlS(遺跡ウォーカー)
現 状:山林・山腹、平削地
区 分:山城
築城期:室町時代
築城者:山田氏
遺 構:土塁・城道?
標 高:156m 比高差:40m
目標地:山上水道タンク
駐車場:下山田集落(山上水道タンクへの山道下の空地)
訪城日:2018.5.20

お城の概要
 山田山山魂の西端(山田山の西部山域)下山田集落の背後の位置する。
室町時代後期(戦国時代)おける覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の西部山域に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となったと(信長公記)に記す。
下山田城は、長浜市中北部の山田山の西に舌状に張り出した馬上集落と下山田集落の境中腹・高時川の東岸に位置する。北で高月町雨森、東で上山田、南で湖北町二俣、西で高月町落川・高月町渡岸寺・高月町柏原に接する。北陸往還が東南から西北に走りるに向かって分岐している。山田山の西麓の馬上集落の東側背後の山頂部(標高:202m)に主郭部には、馬上山城を持つ。
下山田城(136m)の馬上山の中腹位置する。
馬上山の浄水場への林道を登る途中で、西端の遺構は僅かな残るが、広大な城域?は大半は重機で削減され無残であるが、植樹がされている。

お城の歴史
『淡海国木間攫』には、坂田郡 下山田村
 「古此所ニ山内太郎左衛門ト云武士居住、頼朝公ニ仕官ス、江陽一国ノ山奉行タリ、文治二年十一月十三日頼朝公ヨリ此谷ニテ二百貫地ヲ賜ルト云、後孫当所ヲ不去シテ秀吉公ニ仕ヘ、姓名ヲ山田ト可改由命アリ、依之改名ス、事ハ草野庄野瀬村大吉寺ノ縁起ニ出タリ、後孫今以此村里ニ残レリ、開称寺其外土民トナリ、林右衛門・久右衛門等ナリ、賤ヶ嶽一戦ノ切ハ秀吉公山田久介宅へ立寄ラセ玉ヒシ由、其節ノ膳碗等樽今作右衛門ト云者所持アリト云、是ハ山田氏ノ本家タリト」と記す。
 (中略)「1.東本願寺宗 五村御坊付 開称寺 
     当寺ハ昔山内氏ノ孫ニテ山田ト改メシ人住職アリト云」ときる記す。
 下山田城は、当地の豪族、山田氏(山田越中守清氏、同上野介清頼)の居城。京極家の執政を務めた家柄。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 下山田 住 佐々木浅井隋兵 山田掃部介・下山田 住 山田遠江守・下山田 住 山田帯兵衛」と記す。。
小谷城攻防に当たり、山田山一帯(下山田集落)は織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です。
これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。
信長公記 巻六 元亀四年
11、決壊  阿閉謀叛の事
 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町
12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事
 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。
 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。
 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。
 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。
 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  ①現滋賀県木之本町内
 
小谷山西端の林の中の遺構らしきものが!
また北に馬上山城
虎御前山(虎御前砦)

下山田城遺構


『天文三年浅井備前守宿所饗応記』(佐々木哲学校に)
「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)
山田清氏 【日本の武将】
京極氏家臣。官途は越中守。玄良と号す。初め京極高清に仕えたが、のち浅井亮政に属した。「長岡村郷野家文書」に登場し、同史料には一族と思われる山田清頼とゆう人物も見られる。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州佐々木南北諸士帳』『淡海国木間攫』『信長公記』、佐々木哲学校、日本の武将
本日の訪問ありがとうございす。

山田山城 (馬上(まけ)山城) 近江国(長浜 高月町馬上)

2018年05月21日 | 山城
お城のデータ 
所在地:長浜市高月町馬下/下山田 map:https://yahoo.jp/xtM8sB
別 称:山田山城(遺跡ウォーカー http://www.isekiwalker.com/iseki/244340/ )
現 状:山林・山頂
区 分:山城
築城期:室町時代
築城者:伊吹氏
遺 構:曲輪・虎口・土塁
標 高:202m 比高差:100m
目標地:山上水道タンク
駐車場:下山田集落(山上水道タンクへの山道下の空地)
訪城日:2018.5.20

お城の概要

長浜市中北部、山田山の西麓、姉川の支流、高時川の東岸に位置する。北で高月町雨森、東で上山田、東南で下山田、南で湖北町二俣、西南で高月町高月の飛地、西で高月町落川・高月町渡岸寺・高月町柏原に接する。北陸往還が東南から西北に走りるに向かって分岐している。
山田山の西麓の馬上集落の東側背後の山頂部(標高:202m)に主郭部を持つ。しも下山田城(136m)の上部位置し、水道タンク施設の背後。
お城の歴史
室町時代後期(戦国時代)おける覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の西部山域に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となったと(信長公記)に記す。
走落神社の由緒
北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。
Wikipediaには、、走落神社 (長浜市)
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに向かう豊臣秀吉は、当神社の鳥居の前で下馬し、必勝を祈願したと伝わっている。
高月町馬上の歴史
戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 馬上 住 伊吹源十郎」の名を記す。高月町馬上集落には、伊吹氏館が存在した。

『ウィキペディア』には、「戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。」織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です。
これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。


『信長公記 巻六 元亀四年』
11、決壊  阿閉謀叛の事
 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山(下山田城)②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町
12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事
 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。
 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。
 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。
 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。
 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  ①現滋賀県木之本町内



参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江州佐々木南北諸氏帳』『信長公記』、Wikipedia
本日の訪問ありがとうございす。

田部山城  近江国(木之本)

2018年04月22日 | 山城

お城のデータ
所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町田部 map:https://yahoo.jp/x_XBv7
現 状:山林
区 分:山城
築城期:室町期
築城者:田部氏
改築期:織豊期
改築者:朝倉軍・中島氏
標 高:230m  比高差:130m 
遺 構:登り虎口、曲輪・土塁・堀切(竪堀)・現地説明板
目標地:田部集落墓地
駐車場:国道303号城山トンネル駐車場
訪城日:2018.4.21(城郭フォーラム)
お城の概要
 田部山城は田部町の背後に聳える標高230m程の通称城山に築かれている。 城山は北西部を中心として東西方向と南北方向に尾根が伸びているが、城は東西方向の尾根に築かれている。
田部山城は東西に伸びた尾根の東側に広い曲輪、西端から北西方向に曲輪が連なるが、この両曲輪を含めるように土塁が付いている。幅10mにも満たない尾根に南北両側に土塁が付いて通路状になり、東へ進むと広い曲輪となる。この東の曲輪は中央に土壇があり、その周囲を武者走りの通路として外側に土塁が付いている。東端に開口部があり、土橋が架かる深い堀切が一条東尾根を遮断している。
西の曲輪は南に虎口を開き、南尾根に一条土橋の架かる堀切がある。北西方向へ段は続いているが、遺構は不明瞭である。
田部東の信号で、この正面の山が城址で、すぐに城山トンネルの入口の駐車場ある。
登り口は、集落墓地の裏側にある。尾根まで登り、左手に獣道を藪漕ぎで進んだら城跡。城内は伐採された木や倒木、草木で遺構は見えにくい状態ですが、主郭を取り巻いている低い土塁と主郭東側尾根の外側にある堀切(竪堀)が明瞭です。主郭西側の副郭の西側虎口土塁もなんとか判ります。ここから南尾根に説明板があろ。
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「田部山城主 住 〈元勢州田部義士後弾正義氏男〉田部民部小輔信頼」と記し、田部山城は田部民部小輔信頼の田部城の詰城。
 浅井氏の家臣の田部氏の居城でしたが、元亀争乱の際には朝倉氏が駐屯し、その後は、丁野の中島宗左衛門も在城しました。城の縄張りは城山頂部を主郭とし、南西に副郭を持ち、その二つの郭を低い土塁を持った廊下状の郭で連結しています。主郭は土塁に囲まれ、東西60m×南北26mの半月状の郭で、郭内中心部に不整方形の土壇状の高まりがあります。
 信長公記 巻六 元亀四年  11、決壊  阿閉謀叛の事
 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山方面に布陣しなければならなかった。
 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

田部集落の墓地の背後を上ります。


繋ぎ曲輪か?



尾根に到着、左側への獣道を進み

直ぐに堀切・登り子口です西の土橋の上(堀切)堀切・土橋を越えで、登り虎口
虎口の上の小櫓へ


城郭フォーラム弁当

田部山城(遠景・・・高野館より)
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、作図:長谷川博美氏、『信長公記』
本日の訪問ありがとうございす!!