続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

番場城 近江国(米原・番場)

2018年05月13日 | 平山城

お城のデータ

所在地:米原市番場 天神山(旧坂田郡)map:https://yahoo.jp/XqShIu
現 状:山林
遺 構:曲郭・土塁・堀切・櫓台
区 分:平山城
標 高:200m   比高差:約100m
築城期:南北朝期
築城者:土肥氏
目 標:中山道 番場宿石碑
駐車場:中山道 番場宿石碑前 路上駐車
訪城日:2018.5.12

お城の概要
番場城は、中山道番場宿の集落背後、頂部に鎌刃城が所在する山塊から突出した舌状尾根先端部に築かれている。
西番場地区の2ヶ所の鎌刃城登城道が番場城尾根の東西直下を走っていて、どちらからでも頂部に建つ送電鉄塔を目指せば辿り着く。目印は名神道ガード「彦根42」と「彦根43」の間である。
縄張は三方を土塁がめぐる南北約35mの主郭を中心に、先端に腰郭、山側に櫓台を備える。櫓台の背後は山頂方向の尾根筋を堀切にて分断している。堀切の外側は、約20mの自然地形を経て、さらに薄い堀切が確認できる。
全体的に風化が激しく、土塁は薄く、櫓台は鉄塔建設により改変され不明瞭な部分が多い。尾根先は名神道開通により削り取られているので、本来の大手道は消滅したと思われる。
また西麓には「今福寺遺跡」とされる遺構が存在する。背後を水堀で遮断し、ほぼ中央の段築部には石積みが見られる。この遺跡は番場城遺構の一部のように思えるため記載しておく。
 尚、番場城の尾根先には殿屋敷と称される鎌刃城主堀氏の屋敷と伝承される地があるが、立地からみて番場城との詰城と居館の関係とみるのが普通である。
お城の歴史
『江州南北諸士帳』に、「番場 住 佐々木随兵鎌倉平氏 土肥三郎、同 同男左京進」とあり。(番場城に関して、文献等の資料は少ない。)
 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。
 番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であった。

今回は、今福寺跡から見学に!



中山道より番場城を見上げる。
参考資料:城歩会資料(作図:長谷川博美氏)、『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州南北諸士帳』
本日の訪問ありがとうございす。

磯山城 (虎が城・南城)  近江国(米原)

2018年04月09日 | 平山城
磯崎神社の鳥居近くの縄張り
お城のデータ
所在地:米原市(旧坂田郡米原町」)磯 map:https://yahoo.jp/6AJ1sAm
別 称:虎ヶ城・南城
現 状:森林・神社
区 分:平山城
築城期:室町期
築城者:松原弥三右衛門成久
遺 構:曲輪・土塁・土橋・堀切
標高:159.5m  比高差:75m
目標地:磯崎神社
駐車場:磯崎神社駐車場(狭い歩道を通っ駐車場へ)
訪城日:2018.4.19
お城の概要
 磯山は、坂田郡と犬上郡の境界に位置し、琵琶湖に半島状に突出した標高159.5m、比高70mの山稜で、東側には旧入江内湖が、西側には旧松原内湖が広がり、また、内湖と琵琶湖の間の砂州上を浜街道が通っていた。磯山は、湖上交通と浜街道を押さえる要衝の地にあたり、往来監視のために磯山の山頂に構えられたのが磯山城である。磯山城は西端を琵琶湖に接し、尾根が東に延びる独立した磯山の尾根に築城されている。東には中山道が通り、磯山と中山道の間には佐和山から物生山まで続く尾根が横たわる。
 主曲輪の西側斜面には数段の曲輪らしき地形を認めるが、東側斜面の階段状曲輪は比較的削平状態も良く、切岸下には横堀と土橋が確認でき、磯山城が東を通る中山道に向いて機能していた。尾根の南にも階段状の曲輪が至る所で確認できる。
お城の歴史
 彦根松原を本拠の松原氏の詰め城。磯山には、二の城がある。磯山城⦅虎ヶ城・南城⦆ 永正7年(1510)松原弥三右衛門成久が守備する城は、浅井軍に攻められ落城し、城主・松原弥三右衛門成久は切腹した。
 元亀元年(1570)織田信長が磯野員昌が立て籠もる佐和山城を攻略するために、4つの付城を築いたとされ、そのうちの「北の山」が磯山とも考えられている。近年、この北の山を物生山とする考え方もある。
【佐和山城の支城としての磯山城】
 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山城に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していた。

 『浅井三代記』 磯山の城責落す事
翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。・・・観音寺城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到・・・三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。
元亀元年(1570)には、織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つであったと「嶋記録」に記されるが、「信長公記」では「北の山」と記し、「彦根古絵図詿」では「尾末山」と記している。

磯崎神社の背後の平削地

こちら側が南散策路分岐点

こちら側が南コイワカガミが満開!山頂祠(虎が城)
南城の主郭
北堂谷遺構東側には、土塁が残る。

磯山城遠景(北東側・・・磯集落から)
元亀元年(1570)には織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つとなっている。
しかし、『信長公記』では「北の山」とし、『彦根古絵図詿』では「尾末山」と記している。磯山城は琵琶湖、旧入江内湖、旧松原内湖、当時の街道中仙道や朝妻湊を監視したのでは。

【佐和山城の支城としての磯山城】
 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山城に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していたことがわかる。
彦根古図部分(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)
彦根古絵図
 彦根城が形成される前と後を見比べた古絵図によると、彦根城が出来るまではこのあたりは湿地帯だったようで、芹川は今とは違う方向に伸びていたようです。彦根城を築城にするに当たって、芹川をまっすぐに延ばしてきたようです。彦根山に天守を作ったのですが、それまではお寺がいっぱい集まっていた地域で、京都からの巡礼が多く集まる場所でした。その名残は、巡礼街道という名前で今も残っています。
城下町絵図(左は彦根御城下惣絵図)
佐々木六角氏の城【佐和山城】
永正年間(1504~1521年)に京極家の手によって落城。その後浅井亮政の時代には浅井方の城として機能
1570年、佐和山城に立て籠もる浅井方に対し織田方が築いた付城とも云われています。井伊直政が関ヶ原合戦後、佐和山城を廃し、城を築く際にこの磯山を候補の一つにしたといわれています。
他の写真
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https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318664168296155
https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318665274962711

参考資料:浅井三代記、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀大学経済学部附属資料館所蔵
本日の訪問ありがとうございす!!