続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

浦山則宗 上笠(正覚寺)陣所 近江国(草津)

2019年02月27日 | 陣城


お城のデータ
所在地:草津市上笠町 map:https://yahoo.jp/dqjtNY
現 状:個人宅
区 分:陣所
築城期:室町期
築城者:浦上氏
遺 構:
目標地:上笠の西教寺
駐車場:
訪城日:2018.5.26

お城の概要
正覚寺は草津市上笠地区にあったが、現在は消滅している。
西教寺の東側付近にあったとされるも周辺は住宅地となり、遺構跡はない。
お城の歴史
長享・延徳の乱(鈎の陣)における足利義尚方の陣所のひとつ。
1487年、六角高頼討伐のために浦上則宗が布陣した。
浦上則宗は「上笠の正覚寺」に陣を敷き、義尚方の先鋒として甲賀郡に攻め入る。
しかし、六角高頼が姿を眩ませたために長期戦となった。
翌年5月に甲賀衆(甲賀忍者)によって陣を焼かれており、本国の播磨では山名氏との戦闘が続いていたことから浦上則宗がいつ頃まで在陣を続けたかは不明。


参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県の城
本日の訪問ありがとうございす

賤ヶ岳合戦時 羽柴秀吉の本陣(木之本地蔵院)

2019年02月26日 | 陣城


お城のデータ
所在地:長浜市木之本町木之本165 map:https://yahoo.jp/0_iVts

現 状:寺院
区 分:陣城(秀吉本陣)
訪城日:2018.5.25

お城の歴史

1583年(天正11)4月、近江の賤ヶ岳(滋賀県長浜市、標高422m)で、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。近江、美濃、伊勢などで起こった局地戦の一つ。
近江から山路を縫い越前に出る北国街道上の木之本、東野、柳ヶ瀬辺の道路に沿った高地を含む地区での争いの決勝戦。
1582年の本能寺の変ののち、羽柴秀吉の勢力が盛んになると、秀吉と織田家の古老柴田勝家との対立がしだいに表面化した。秀吉は織田信長の次子信雄(のぶかつ)と、勝家は信長の三子信孝(のぶたか)および滝川一益と結び、両者の激突は必至の形勢となった。同年12月、秀吉は勝家の属城長浜を降し、信孝を岐阜城に囲み人質をとった。翌1583年正月、一益が伊勢に挙兵。秀吉は2月伊勢に出陣する。勝家は前将軍足利義昭と後援者の毛利輝元と連絡し、秀吉の挟撃を企てる。
そして一益に呼応し、3月10日すぎには柳ヶ瀬北方の内中尾山に出陣。伊勢から軍を返した秀吉は、3月17日賤ヶ岳一帯の高地を占領し、木之本に陣した。そして岐阜の信孝の動きを知ると、4月16日に大垣に入城。20日正午ころ勝家軍攻撃の報を受け、2時ころ転進、9時ころ木之本に着き、翌21日早朝、佐久間盛政(もりまさ)軍を追って賤ヶ岳で撃破、正午ころ勝家を攻め、これを越前に敗走させた。秀吉の小姓9人、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、桜井左吉、石河兵助らによる「七本槍」の功名はこのときのことである。秀吉軍は長駆、越前北庄(福井市)を攻め、24日勝家を自殺させた。信孝は自殺、一益は降伏、小牧・長久手の前哨戦となる。
 勝家の組下前田利家の裏切り説は?
  激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される

参考資料:Wikipedia
本日の訪問ありがとうございす。

神宮寺山城 近江国(大津 坂本)

2019年02月23日 | 山城

神宮寺山城(砦)
お城のデータ
所在地:大津市坂本日吉町 map:https://yahoo.jp/p2_vPs
区 分:山城(砦)
築城期:織豐期
築城者:浅井朝倉方
遺 構:土塁、平削地、切り岸 
比 高:477m 比高差:350m
目標地:八王子神社
訪城日:



お城の概要・歴史
元亀年間の志賀の陣において朝倉方が構築した城砦のひとつ。
1570年、朝倉氏による築城。

志賀の陣で朝倉・浅井勢が布陣した八王子山城より北西に450m、神宮寺山(標高447m)の山頂に築かれた山城。
頂部に50m四方の平坦地が見られ、その中央に土塁と思われる土盛りが確認できる。
特に南東側が広く平削され、その先は切岸状の急斜面となる。
斜面には2段の帯曲輪が確認でき、反対の北西方向には約100mに渡って緩やかに尾根が伸びている。
八王子山-三石岳間のトレッキングコースが城域の東側を通り、八王子山との間には土塁や堀切と思われる地形が見られる。
そのことから、八王子山城と連携した城であったことが窺える。



大津市教委は、同市坂本5丁目の山中にある「日吉神宮寺遺跡」から、石垣で囲まれた室町時代の建物跡の礎石などを確認したと発表した。この地は「日吉神宮寺旧跡」と伝承され、室町時代の古図に描かれている建物の位置関係とも一致するため、市教委は「古図に描かれた同寺の遺構である可能性が高い」としている。
 遺跡は「史跡日吉神社境内」の飛び地となっており、八王子山(381メートル)のさらに奥にある。
今回見つかった建物跡は、三方を石垣で囲まれ、広さは南北約20メートル、東西16メートル。その内側に大小の礎石が多数あり、南北12メートル、東西9メートル規模の建物があったと推定される。建物跡の遺物から、室町時代の建物跡と断定した。
 市教委の調査では、室町時代の「日吉山王社古図」(延暦寺蔵)には、織田信長による焼き打ち(1571年)以前の建物が描かれ、遺跡に該当する場所に建物があったことが分かるという。礎石の配置と古図に描かれた建物の形状から、この2つが一致する可能性が高いとみている。
 今回の調査ではまた、建物跡の約20センチ下の地層で平安期の遺構面も確認された。この下層には1メートル以上の土の堆積(たいせき)があり、さらに古い遺構が存在する可能性もあるという。(中日新聞)

参考資料:滋賀県の城(神宮寺山城)(神宮寺砦)、大津市教育委員会
本日の訪問ありがとうございます。

陣屋の馬場城 近江国(長浜市 湖北町上山田)

2019年02月19日 | 
お城のデータ
所在地:長浜市高月町上山田 map:https://yahoo.jp/b53DAF
現 状:山林、山頂(雨森三角点一帯)
築城期:織豐期
築城者:織田信長軍(阿閉氏が)
遺 構:低土塁、平削地
標 高:360m 比高差220ma
目標地:和泉神社(湖北町上山田)
訪城日:

お城の概要
上山田集落の和泉神社の背後の登山口から、尾根まで登り尾根道を西に20分程下ると「雨森三角点」へ。この一帯が「陣屋の馬場城」です。
尾根道が低土塁で、北側が平削地(兵士の宿営地)。

お城の歴史
戦国における覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の雨森三角点(陣屋の馬場城)から西部山域の上山田城、下山田山城に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となった、という顛末(信長公記)に関係する場所です。信長公記 巻六 元亀

信長公記 巻六 元亀四年
11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。
 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。
 ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現浅井町・湖北町間 ③現余呉町~木之本町 
 



参考資料:『滋賀県城郭分布調査』『信長公記』、遺跡ウォーカー「陣屋の馬場城」、写真は「山響さんの山田山」からお借りしました。

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