続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

田部山城  近江国(木之本)

2018年04月22日 | 山城

お城のデータ
所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町田部 map:https://yahoo.jp/x_XBv7
現 状:山林
区 分:山城
築城期:室町期
築城者:田部氏
改築期:織豊期
改築者:朝倉軍・中島氏
標 高:230m  比高差:130m 
遺 構:登り虎口、曲輪・土塁・堀切(竪堀)・現地説明板
目標地:田部集落墓地
駐車場:国道303号城山トンネル駐車場
訪城日:2018.4.21(城郭フォーラム)
お城の概要
 田部山城は田部町の背後に聳える標高230m程の通称城山に築かれている。 城山は北西部を中心として東西方向と南北方向に尾根が伸びているが、城は東西方向の尾根に築かれている。
田部山城は東西に伸びた尾根の東側に広い曲輪、西端から北西方向に曲輪が連なるが、この両曲輪を含めるように土塁が付いている。幅10mにも満たない尾根に南北両側に土塁が付いて通路状になり、東へ進むと広い曲輪となる。この東の曲輪は中央に土壇があり、その周囲を武者走りの通路として外側に土塁が付いている。東端に開口部があり、土橋が架かる深い堀切が一条東尾根を遮断している。
西の曲輪は南に虎口を開き、南尾根に一条土橋の架かる堀切がある。北西方向へ段は続いているが、遺構は不明瞭である。
田部東の信号で、この正面の山が城址で、すぐに城山トンネルの入口の駐車場ある。
登り口は、集落墓地の裏側にある。尾根まで登り、左手に獣道を藪漕ぎで進んだら城跡。城内は伐採された木や倒木、草木で遺構は見えにくい状態ですが、主郭を取り巻いている低い土塁と主郭東側尾根の外側にある堀切(竪堀)が明瞭です。主郭西側の副郭の西側虎口土塁もなんとか判ります。ここから南尾根に説明板があろ。
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「田部山城主 住 〈元勢州田部義士後弾正義氏男〉田部民部小輔信頼」と記し、田部山城は田部民部小輔信頼の田部城の詰城。
 浅井氏の家臣の田部氏の居城でしたが、元亀争乱の際には朝倉氏が駐屯し、その後は、丁野の中島宗左衛門も在城しました。城の縄張りは城山頂部を主郭とし、南西に副郭を持ち、その二つの郭を低い土塁を持った廊下状の郭で連結しています。主郭は土塁に囲まれ、東西60m×南北26mの半月状の郭で、郭内中心部に不整方形の土壇状の高まりがあります。
 信長公記 巻六 元亀四年  11、決壊  阿閉謀叛の事
 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山方面に布陣しなければならなかった。
 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

田部集落の墓地の背後を上ります。


繋ぎ曲輪か?



尾根に到着、左側への獣道を進み

直ぐに堀切・登り子口です西の土橋の上(堀切)堀切・土橋を越えで、登り虎口
虎口の上の小櫓へ


城郭フォーラム弁当

田部山城(遠景・・・高野館より)
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、作図:長谷川博美氏、『信長公記』
本日の訪問ありがとうございす!!

磯山城 (虎が城・南城)  近江国(米原)

2018年04月09日 | 平山城
磯崎神社の鳥居近くの縄張り
お城のデータ
所在地:米原市(旧坂田郡米原町」)磯 map:https://yahoo.jp/6AJ1sAm
別 称:虎ヶ城・南城
現 状:森林・神社
区 分:平山城
築城期:室町期
築城者:松原弥三右衛門成久
遺 構:曲輪・土塁・土橋・堀切
標高:159.5m  比高差:75m
目標地:磯崎神社
駐車場:磯崎神社駐車場(狭い歩道を通っ駐車場へ)
訪城日:2018.4.19
お城の概要
 磯山は、坂田郡と犬上郡の境界に位置し、琵琶湖に半島状に突出した標高159.5m、比高70mの山稜で、東側には旧入江内湖が、西側には旧松原内湖が広がり、また、内湖と琵琶湖の間の砂州上を浜街道が通っていた。磯山は、湖上交通と浜街道を押さえる要衝の地にあたり、往来監視のために磯山の山頂に構えられたのが磯山城である。磯山城は西端を琵琶湖に接し、尾根が東に延びる独立した磯山の尾根に築城されている。東には中山道が通り、磯山と中山道の間には佐和山から物生山まで続く尾根が横たわる。
 主曲輪の西側斜面には数段の曲輪らしき地形を認めるが、東側斜面の階段状曲輪は比較的削平状態も良く、切岸下には横堀と土橋が確認でき、磯山城が東を通る中山道に向いて機能していた。尾根の南にも階段状の曲輪が至る所で確認できる。
お城の歴史
 彦根松原を本拠の松原氏の詰め城。磯山には、二の城がある。磯山城⦅虎ヶ城・南城⦆ 永正7年(1510)松原弥三右衛門成久が守備する城は、浅井軍に攻められ落城し、城主・松原弥三右衛門成久は切腹した。
 元亀元年(1570)織田信長が磯野員昌が立て籠もる佐和山城を攻略するために、4つの付城を築いたとされ、そのうちの「北の山」が磯山とも考えられている。近年、この北の山を物生山とする考え方もある。
【佐和山城の支城としての磯山城】
 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山城に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していた。

 『浅井三代記』 磯山の城責落す事
翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。・・・観音寺城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到・・・三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。
元亀元年(1570)には、織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つであったと「嶋記録」に記されるが、「信長公記」では「北の山」と記し、「彦根古絵図詿」では「尾末山」と記している。

磯崎神社の背後の平削地

こちら側が南散策路分岐点

こちら側が南コイワカガミが満開!山頂祠(虎が城)
南城の主郭
北堂谷遺構東側には、土塁が残る。

磯山城遠景(北東側・・・磯集落から)
元亀元年(1570)には織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つとなっている。
しかし、『信長公記』では「北の山」とし、『彦根古絵図詿』では「尾末山」と記している。磯山城は琵琶湖、旧入江内湖、旧松原内湖、当時の街道中仙道や朝妻湊を監視したのでは。

【佐和山城の支城としての磯山城】
 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山城に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していたことがわかる。
彦根古図部分(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)
彦根古絵図
 彦根城が形成される前と後を見比べた古絵図によると、彦根城が出来るまではこのあたりは湿地帯だったようで、芹川は今とは違う方向に伸びていたようです。彦根城を築城にするに当たって、芹川をまっすぐに延ばしてきたようです。彦根山に天守を作ったのですが、それまではお寺がいっぱい集まっていた地域で、京都からの巡礼が多く集まる場所でした。その名残は、巡礼街道という名前で今も残っています。
城下町絵図(左は彦根御城下惣絵図)
佐々木六角氏の城【佐和山城】
永正年間(1504~1521年)に京極家の手によって落城。その後浅井亮政の時代には浅井方の城として機能
1570年、佐和山城に立て籠もる浅井方に対し織田方が築いた付城とも云われています。井伊直政が関ヶ原合戦後、佐和山城を廃し、城を築く際にこの磯山を候補の一つにしたといわれています。
他の写真
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https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318665274962711

参考資料:浅井三代記、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀大学経済学部附属資料館所蔵
本日の訪問ありがとうございす!!