続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

小脇城 近江国(東近江 八日市)

2020年05月12日 | 居館
お城のデータ
所在地:東近江市小脇町  (旧八日市市小脇町)  map:http://yahoo.jp/WjfocE
区 分:山城
現 状:山林
遺 構:土塁、竪堀、削平地(曲輪)、井戸
標 高:150m 比高差:30m
築城期:鎌倉期
築城者:三井氏
初城主:三井新三郎・三井男石見守時高
目標地:緑ヶ丘自治会館・山麓道路に石段(登り口)http://yahoo.jp/o_7a63
訪城日:2020.5.7

お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』にか、「蒲生郡 小脇城主 佐々木旗頭 三井新三郎・三井男石見守時高」と記す。
『大洞弁天当国古城主名札』にも「三井新三郎」の名がみえるとある。
小脇城 近江国{八日市}
区分:山城
現状:山林
遺構:土塁、竪堀、削平地曲輪、井戸.
【小脇城・遺跡ウォーカー】で検索!
mapコードは、間違いのようです!が?
滋賀県城郭分布調査10にも記載あり。
小脇山城の山麓館か?
小脇山城は、佐々木六角の重臣三井氏の城。
所在地:東近江市小脇町

お城の歴史
三井氏
三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫藤原右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない。12代三井出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。
慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松阪に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。
屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている。

小脇館
 湖東平野の農業生産力という基盤にくわえ、近江から鈴鹿山脈をこえて伊勢国にいたる中世近江商人にさかんに利用された八風街道という交通の要衝に位置している。
  そのため、すでに鎌倉時代の『源平盛哀記』に「蒲生郡小脇の八日市」とみられるように、定期市場の中心となっていた。現在、「御所」「鳥門」「東風門」などの小字名がつたわる。(後略)(満田良順)」とあります。
なお、八日市小脇町は現在東近江市小脇町になっています。


小脇郷の歴史
  戦国時代となる紀元前4世紀から朝鮮半島を含む中国大陸より、戦乱から逃れる亡命者集団が歴史上主として4つの時期にわたり日本各地に相当人数が漂着して来ています。
   その一事例として、古事記・日本書紀には5世紀前半ころ秦一族等が近江の国に移住したことや、西暦668年の唐と新羅の連合軍により滅ぼされた高句麗の国滅亡の混乱時には、百済や高句麗からの多くの亡命者が日本各地に渡来し、時の政権はこれを受け入れ対応していることが記されているのです。 こうした渡来人は、全国各地で医術、製鉄の技術、鉄製の農具、灌漑(かんがい) 技術、須恵器づくり等の当時の先進技術をもたらしています。               

  その亡命渡来人について、669年に男女700余人を近江蒲生郡に配したとし、滋賀県蒲生郡日 野町から東近江市にかけて渡来人が配されている記録があり、蒲生野と呼ばれていた地域の中にある小脇郷にも高麗人たちが移住しているのです。
又、それ以前の時代の証として小脇町青蓮寺付近の土中3メートルから5世紀末の瓦泉(はそう)が出土しています。又、金柱宮跡付近から太い柱
の一部が発見されており、この直近の小脇山山腹には後期の古墳2基があり、5世紀には人々が住んでいて付近を開拓したと考えられるのです。 此処、東近江市の小脇郷は今も同じように、若干の表土の下には丸い河原の石と砂が混合した砂礫地層となっており、元来、農耕不適の土地だったのが渡来人達の開拓によって稲作が出来るようになったと言い伝えられています。          

このことは現代まで、小脇郷の 「狛(こま)(狛=高麗人)の長者伝説 」 として残されているのです。
  伝説というのは、これまで生きつづけてきた人々の口から 代々語り伝えられるものです。そして、この伝説を物語るようにしてその遺蹟や跡地が残されており、小脇郷に残っている           
                   
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査10、遺跡ウォーカー、ウィキペディア

脇坂館 近江国(湖北町丁野)

2018年05月21日 | 居館

お城のデータ
所在地:長浜市小谷丁野町にある「脇坂谷」map:https://yahoo.jp/aupur
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:脇阪氏
遺 構:屋敷跡、産湯池、現地説明板、
標 高:130m 比高差:30m
目標地:国道365号の下り看板
駐車場:国道365号の下り看板の反対側空地
訪城日:2018.5.20


お城の概要
国道365号の下り「脇阪陣内安治誕生地」看板の手前の小谷山城への初期大手道を直線約500m。
長浜市小谷丁野町にある「脇坂谷」の脇坂氏館跡は賤ヶ岳七本槍(最年長者の武将)の一人で脇坂安治の生誕地。小谷城跡がある小谷山の麓の「初期小谷城への大手道」筋に、脇坂安治の屋敷跡有・安治の産湯に使われた池が残っている。脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。天文23年(1554)近江国浅井郡脇坂庄で誕生、脇坂安明の長男として育つ。
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、浅井郡 「丁野城 住 脇阪与右衛門・丁野城 住 佐々木浅井隋兵後家康公隋兵成右陣内 脇坂陣内左衛門・丁野城 住 脇坂助左衛門・丁野城 住 脇坂佐介」と記す。
小谷城跡がある小谷山の麓の初期小谷城への大手道筋に、脇坂̪氏、此の地の屋敷跡有・脇坂安治の産湯に使われた池が残っている。脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。

脇坂陣内安治の経歴 輪違い
脇坂安治は天文23年(1554年)、近江国浅井群脇坂村(長浜市小谷丁野町)に生まれる。父は田附孫左衛門であるが、母の再婚により脇坂安明※の跡取りとなる。※脇坂安明は浅井長政の家臣で、安治が15歳の時に討ち死にする。
はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573)の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、明智光秀の与力として16歳で初陣を迎え、黒井城の戦いなどで功を立てる。後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。その後は播磨国の三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねた。天正4年(1576)には150石を与えられ、天正6年(1578)の三木城攻めでは秀吉より白輪違紋入りの赤母衣を賜り、以後家紋とした。天正10年(1582)には明石郡30石の加増を受けた。武勲として「輪違い」紋の母衣を賜り、「輪違い」は脇坂家の家紋となる。そして天正11年(1583年)30歳のとき賤ヶ岳七本槍の一人として奮戦し、その功により山城国宇治で三千石を賜る。
天下統一までの活躍
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、その戦功により山城国に3,000石を与えられた。この戦いの折、柴田勝政を討ち取ったという説がある。
小牧・長久手の戦いでは伊勢国・伊賀国方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、天正13年(1585年)5月、秀吉より摂津国能勢郡に1万石を与えられた。8月に大和国高取で2万石、10月には淡路洲本で3万石を与えられた。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐や朝鮮出兵などに従軍した。九州征伐では、豊前国に到着後、臼杵城の大友宗麟の許に兵糧米を輸送している。以後、秀吉の命で黒田孝高の指揮下に入っている(天正15年2月14日豊臣秀吉朱印状)。また、薩摩国の平佐城を小西行長らと共に攻撃開城させた。小田原征伐では海上から伊豆国下田城を攻め落とし、小田原城受け取りの検使を務めている。

朝鮮出兵
文禄の役では1,500人の動員を課せられ、当初は船手衆の1人として九州から釜山への海上輸送を担当するが後に陸戦兵力として投入された。文禄元年(1592年)6月に漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮軍約5万の大軍により攻撃を受けるが、機を制して夜襲を行い潰走させた。龍仁戦闘の直後の翌7月には李舜臣による水軍の活動を抑えるために加藤嘉明、九鬼嘉隆と共に急遽連合水軍として編成されるが、功を逸って単独で抜け駆けした安治の1,500人の水軍は閑山島海戦で李舜臣に大敗した。以降は秀吉の戦術転換命令によって水陸防御作戦を実施して李舜臣の侵攻を何度も阻んだ(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。文禄2年(1593年)5月の第二次晋州城攻防戦では攻城軍に加わって陸上兵力(点呼員数900人)としても活躍している。
慶長の役では水軍配置となり1,200人[4]の動員を課せられ、慶長2年(1597年)7月に戦われた漆川梁海戦では侵攻してきた元均率いる朝鮮水軍を逆襲により壊滅させた。日本軍の侵攻作戦が始まると水軍として進撃するが、8月の南原城攻略作戦では陸上兵力として使用された。全州会議に参加した後は再び水軍として引き続き朝鮮沿岸で活動し鳴梁海戦を戦った。第一次蔚山城の戦いにも加わり加藤清正の救援で武功を挙げる。これら朝鮮における一連の功績から、淡路内で預かっていた太閤蔵入地より3,000石を加増されて3万3,000石の大名となる。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの脇坂安治陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立。安治は徳川邸に駆けつけた。会津征伐では、家康の下に次男・安元を参陣させようとしたが、石田三成らに妨害され引き返させた。この際、安治は旧友・山岡景友を通じ事情を家康に伝え、家康から引き返したことに対して了解を得る一方、戦いに向けて防備を固めるように指示を受けた(慶長5年8月1日安元宛徳川家康書状)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1,000名[5]の兵を率いて西軍に付いたとされる。
9月15日の本戦では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、秀秋が黒田長政と通じていたのと同様に、安治もまた藤堂高虎より工作を受けており、午後に入り小早川隊が大谷吉継隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させた。戦後、石田三成の居城・佐和山城攻略にも参加している。同じく寝返った他の3大名と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。
晩年
慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では本人は参陣しなかったが、大坂冬の陣の際に次男・安元が幕府軍として八丁目口を担当し、大坂夏の陣では天王寺付近での戦闘で戦功を挙げた。元和元年(1615年)に次男・安元に家督を譲って隠居する。
その後は大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して臨松院と号した。寛永3年(1626年)8月6日に京都で死去。享年73。

屋敷跡が遺構。
ただ神社跡の横にある池は安治の産湯の池との言い伝えがある。
Wikipedia

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、現地説明板『淡海国木間攫』『江州佐々木南北諸氏帳』
本日の訪問ありがとうございす。