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明智秀満の船戦、記した古文書見つかる 光秀の重臣「湖上渡り」伝説の一端か

2020年05月30日 | 武将・武士
明智秀満の船戦、記した古文書見つかる 光秀の重臣「湖上渡り」伝説の一端か
京都新聞5/29(金) 21:18配信


明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書。秀満を表す「弥平次」の記述が残る(大津市石山寺1丁目、石山寺)
 戦国武将明智光秀の重臣の一人である明智秀満(左馬助)が1582(天正10)年の本能寺の変の直後、瀬田城主山岡景隆に船戦(ふないくさ)を挑んだことを記した古文書が、石山寺(大津市石山寺1丁目)で見つかった。秀満は山崎合戦の後、愛馬に乗ったまま琵琶湖を渡った「湖水渡り」の伝説で知られるが、関連する史料が少なく、その生涯は謎に包まれている。専門家は「実像に迫る上で貴重な史料」と評価する。
 見つかったのは、同寺塔頭世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒をまとめた「山岡景以舎系図(いえのけいず)」(縦27センチ、横1・19メートル)。天正19年、景隆の息子によって書かれたものを筆写した古文書で、塔頭法輪院の蔵に保管されていた。




 古文書には、秀満がもともと名乗った「弥平次」の記述が登場する。光秀が織田信長を討った本能寺の変の後、安土城へと向かう秀満の軍勢に対し、信長方の景隆が瀬田の橋を焼いて防戦したことが記されている。「弥平次船に乗って湖上を済(わた)らんと欲するに」(読み下し文)と船戦にもつれた経緯を伝え、湖上で家来を討たれた秀満が琵琶湖を渡れなかったことが書かれている。
 明智軍が瀬田で進軍を阻まれたことは信長の一代記「信長公記」などに残っているが、その軍勢を秀満が率い、湖上で戦ったという記録はこれまで見つかっていなかった。滋賀県文化財保護課の井上優主幹は「この船戦が、湖水渡りの伝説につながったのかもしれない」と推察する。
 石山寺の鷲尾龍華責任役員は「光秀が主人公の大河ドラマが放送されているタイミングで、明智家に関する史料が見つかったことに不思議な縁を感じる」と話す。古文書は今秋に本堂で公開する予定。

六角氏の発祥

2020年05月14日 | 武将・武士
六角氏は近江源氏として名高い佐々木氏の嫡流である。佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子扶義を養子とし、 その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのが始まりといわれる。
 しかし、佐々木庄には大彦命の後裔といわれる佐々木貴山氏という古くからの豪族もあり、両者の間には錯綜したところがあって、 確実なところは分からないというのが実情である。

六角氏の発祥
・写真:京六角氏屋敷の西隣にあったという六角堂(頂法寺)
 佐々木氏は成頼の曾孫秀定のとき、沙々貴神社神主系と守護・地頭に任じられた武家系の二家に分かれた。すなわち、 秀定の子行定は神主家のほうを継いで真野氏を称しし、一方、は行定の弟秀義は武士としての佐々木氏のほうが継いだ。そうして、秀義は平治の乱に 源義朝に属して活躍、以来、源氏とのつながりを密接にしていった。
 秀義が仕えた源義朝は平治の乱で敗れ、東国さして逃亡の途中尾張国で横死した。平家全盛の時代になると、義朝に与した秀義は世を隠れて 関東の地に雌伏することになった。治承四年(1180)、源頼朝が平氏打倒の旗揚げをすると、息子たちとともに最初から加わった。 その後の平氏との合戦において佐々木一族は大活躍をして、鎌倉幕府が成立すると、各地の守護・地頭職に補任されて一大勢力を築き上げたのである。
 佐々木秀義のあとを継いだ嫡男定綱は、広綱をはじめとして数人の男子があった。承久三年(1221)、後鳥羽上皇の討幕行動である承久の乱が起ると、 惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に付いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである。
 信綱には四人の息子がおり、仁治三年(1242)に信綱が死没するとその所領は四人に分割された。長男の重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て 大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷・朽木荘の地頭となって高島氏を名乗った。そして、三男泰綱が宗家を継いで近江守護職に任じ、 近江南六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗った。四男氏信は近江北六郡と京極高辻にあった館を与えられて京極氏を名乗ったのであった。
 兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、近江国に強大な勢力を持つ 有力御家人佐々木氏を牽制、分裂させようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
 泰綱のあとは頼綱が継ぎ、頼綱には長男頼明を頭に数人の男子があった。しかし、頼明はなんらかの理由で家督を継がず、二男の宗信も早世したため、家督は末子とも盛綱の子ともいう時信が嗣子に定められたという。延慶三年(1310)に頼綱が没すると、時信が家督を継いだがわずか四歳の幼子であった。 この時信が鎌倉幕府瓦解から建武の新政、南北両朝の対立という動乱期に遭遇することになる。
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