司法改革の流れの中で,弁護士業務のあり方については様々な議論や批判がなされていますが,それらの中に,弁護士も「客商売」なのだから顧客満足度を重視せよ,というような議論があります。
たしかに,弁護士業もサービス業の一種であることは確かであり,依頼者(顧客)の立場を尊重しなければならないことはそのとおりですが,弁護士の業務は通常の「客商売」とは異なり,依頼者には常に「相手方」がいます。
しかも,依頼者の行為が法的に正当と認められない場合には,依頼者自身が法的制裁を受けてしまうことすらあり得るわけですから,事件処理の目的を達成するためには,依頼者には単に「満足」してもらうだけではなく,裁判で自滅してしまったりすることの無いよう,自己を客観視し,自己の行動を律してもらう必要もあるわけです。ところが,弁護士は「客商売」だという認識が広がり,依頼者がお客様気取りになってしまうと,これが非常に難しくなるケースもあり得ます。
例えば、債務整理事件で依頼者の利便性を重視しすぎて、安易に電話相談だけで自己破産事件などを受任したりすると、自己破産が自分の問題であるということを十分に自覚せず、申立てに必要な書類をいくら言っても提出してこなかったり、依頼後に新たな借り入れをしてしまったりして、結局辞任せざるを得なくなったりするケースが多くなります。また、明らかに浪費やら賭博やらのとんでもない理由で借金を作ってしまった依頼者については、今後同じことを繰り返したりしないよう、多少は説教めいたことも言わなければならないこともあります。
それに、依頼者の中には弁護士に嘘を付いて不当な目的で民事訴訟を起こそうとするような人もおり、立場上一定の限界はあるにせよ、依頼者が重大な嘘をついていないかどうかを受任時に注意する必要もあります。
このようなことを考えると、たしかに弁護士の「敷居が高すぎる」のは問題ですが、弁護士を通じて他人に重大な被害を与えかねない司法手続きを利用しようとする以上、依頼者にも最低限の自覚と緊張感は持ってもらう必要があり、いたずらに敷居を低くしろとかお客様重視の姿勢をとれといった議論には、にわかに賛成しがたいところがあります。
たしかに,弁護士業もサービス業の一種であることは確かであり,依頼者(顧客)の立場を尊重しなければならないことはそのとおりですが,弁護士の業務は通常の「客商売」とは異なり,依頼者には常に「相手方」がいます。
しかも,依頼者の行為が法的に正当と認められない場合には,依頼者自身が法的制裁を受けてしまうことすらあり得るわけですから,事件処理の目的を達成するためには,依頼者には単に「満足」してもらうだけではなく,裁判で自滅してしまったりすることの無いよう,自己を客観視し,自己の行動を律してもらう必要もあるわけです。ところが,弁護士は「客商売」だという認識が広がり,依頼者がお客様気取りになってしまうと,これが非常に難しくなるケースもあり得ます。
例えば、債務整理事件で依頼者の利便性を重視しすぎて、安易に電話相談だけで自己破産事件などを受任したりすると、自己破産が自分の問題であるということを十分に自覚せず、申立てに必要な書類をいくら言っても提出してこなかったり、依頼後に新たな借り入れをしてしまったりして、結局辞任せざるを得なくなったりするケースが多くなります。また、明らかに浪費やら賭博やらのとんでもない理由で借金を作ってしまった依頼者については、今後同じことを繰り返したりしないよう、多少は説教めいたことも言わなければならないこともあります。
それに、依頼者の中には弁護士に嘘を付いて不当な目的で民事訴訟を起こそうとするような人もおり、立場上一定の限界はあるにせよ、依頼者が重大な嘘をついていないかどうかを受任時に注意する必要もあります。
このようなことを考えると、たしかに弁護士の「敷居が高すぎる」のは問題ですが、弁護士を通じて他人に重大な被害を与えかねない司法手続きを利用しようとする以上、依頼者にも最低限の自覚と緊張感は持ってもらう必要があり、いたずらに敷居を低くしろとかお客様重視の姿勢をとれといった議論には、にわかに賛成しがたいところがあります。
が、実は、『単なる「客商売」』じゃないのは、「客商売」といわれているものにも、多かれ少なかれいえることだと思います。
また、顧客に媚びへつらうのはどうかと思いますが、顧客より「エライ」という前提があるとすれば、それは改めていくべきではないでしょうか。
その第一歩として、「士業」の人たちや議員に対して「先生」という風習を無くすのがいいのではないかと思います。「先生」と呼ばれなれると、自分が「エライ」という勘違いを持ってしまう人が多そうですから。