黒猫のつぶやき

法科大学院問題やその他の法律問題,資格,時事問題などについて日々つぶやいています。かなりの辛口ブログです。

憲法の教え方について

2013-02-15 22:35:05 | 法学教育論
 検討会議関係で新しい資料が出てくる前に,小ネタを片付けておきたいと思います。

 法曹養成制度検討会議第6回会議で提出された和田委員の意見書(法学未修者教育についての意見)の中には,以下のような記述があります。

「憲法のある教員は、憲法の30時間の講義の中で、国会についての講義は1時間のみで、また憲法の分野できわめて重要な違憲審査基準も教えなかった、という。」

 和田委員が取り上げている他の例(民法総則の講義で錯誤ばかり教えている,民事訴訟法の講義で多数当事者訴訟の制度を全く取り上げない)については,問題なく悪い教え方だと言えるのですが,上記憲法の例については,最近の司法試験の傾向を考えるとそれ自体が悪い教え方だとは必ずしも言えないように思われるので,以前この意見書をブログで取り上げるときには,この例を取り上げるべきかどうかずいぶん迷いました。
 今回の記事は,上記のような教え方をなぜ「必ずしも悪い教え方だとは言えない」と考えるかという話であり,司法試験レベルの話に興味の無い人には全く理解できない内容のものですので,あらかじめご了承ください。

1 「国会についての講義が1時間のみ」は悪いのか
 上記の問題について考えるには,そもそも「憲法の講義ではどのような時間配分が望ましいか」という問題を考える必要があります。
 旧司法試験では憲法の論文式試験が2問あり,人権(第3章・国民の権利及び義務)に関する問題が1問,統治機構(国会,行政,司法及び地方自治)から1問ずつ出題されるというパターンが多かったので,予備校における憲法の授業も,必然的にこの2つをメインとして行われるのが普通でした。逆に言うと,上記に含まれない天皇制や戦争放棄,憲法改正手続などは,司法試験では択一に時々出題される程度であるため,あまり重点を置く必要はないという意味です。
 これに対し,新司法試験や予備試験では,論文試験の憲法が大問1問とされており,これまでの出題実績は以下のとおりです(タイトルは問題文と出題の趣旨を勘案して,黒猫が独自に付けたものです)。

<新司法試験>
 平成18年  製造たばこの警告表示規制と表現の自由・財産権等
 平成19年  宗教団体規制と宗教活動の自由・法律と条例の関係
 平成20年  インターネットの有害情報規制と表現の自由
 平成21年  遺伝子治療研究の規制と研究の自由・個人情報保護
 平成22年  ホームレスの生存権と選挙権の現実的保障
 平成23年  画像提供サービスとプライバシー・表現の自由
 平成24年  宗教団体に対する助成金支出と政教分離原則

<予備試験>
 平成23年  法科大学院の女性優遇措置と法の下の平等
 平成24年  最高裁裁判官の国民審査制度と判例変更

 このように見ると,新司法試験の論文試験では人権問題からの出題が主であり,統治機構のみの出題がなされたのは今のところ平成24年の予備試験だけになっています。問題数が1問で,しかも法曹実務に関係のありそうな事例問題の出題となると,やはり人権問題を主流にせざるを得ず,統治機構の問題は出しにくいということでしょうか。
 もっとも,平成24年の予備試験で国民審査制度が出題されているのは,あまりにも人権に偏った勉強をして統治機構の勉強をないがしろにすると痛い目を見るぞ,という司法試験管理委員会からのメッセージなのかも知れませんが,それでも上記をふまえて憲法の時間配分を考えると,仮に講義時間が全体で30時間与えられているなら,やはりメインである人権の講義に15~20時間程度を充てる必要があるでしょう。
 そうすると残りの10時間で統治機構とその他の講義をするわけですが,やはり効率を考えるとその中でも,司法試験に比較的出題されやすい「司法」と「地方自治」に講義の重点を置かざるを得ません。司法に3時間,地方自治に3時間充てるとすれば,残りは天皇制と戦争放棄を合わせて1時間,国会を1時間,行政を1時間,憲法改正手続を合わせて1時間(財政は,人権などの関連箇所で扱う)。いずれも,論文試験からの大規模な出題は考えにくいので,択一向けに基本的な知識を教える程度にとどまらざるを得ないでしょう。
 司法試験の出題傾向に即して,憲法のカリキュラム構成を以上のように考えるのであれば,国会についての講義が1時間のみというのは,特に不当とは言えないように思われます。これを問題だと感じるのは,学生の側にも自学自習の姿勢に欠け,司法試験に出題されることは法科大学院の講義で全て漏れなく教えられるべきだなどという,現実にはおよそ不可能な要求をしている面があるのではないでしょうか。

2 「違憲審査基準を教えない」のは悪いのか
 違憲審査基準というのは,国家の行為が基本的人権を制約する場合に,その行為の違憲性を判断する基準のことで,問題になる人権ごとに学説上「LRAの基準」「合理性の基準」などが提唱されています。
 最近の司法試験勉強では,違憲審査基準論が過度に重視される傾向にあるらしく,司法試験の「採点実感等に関する意見」では,毎年のように違憲審査基準を論じた答案に対する苦言が述べられています。以下は,その主な例です。

<平成21年>
 提供された素材を読みこなし,事案に即して考える力が求められているが,いわば定型的に「問題となるのは,違憲審査基準である。」という趣旨を記載する答案が多く,旧司法試験の場合とはまた別の意味で,答案がパターン化しつつあるのではないかとの懸念がある。例えば,事案の分析をほとんどせずに,直ちに違憲審査基準の議論に移行し,一般論から導いた審査基準に「当てはめ」て,そのまま結論に至るという答案が相当数見られた。このように,審査基準を具体的事案に即して検討せずに,審査基準の一般論だけで規則の合憲性を判断するのでは,事実に即した法的分析や法的議論として不十分である。

<平成22年>
・また,審査基準の定立に終始する答案も多く,その中でも,Xの主張では厳しい(場合によっては極端に厳しい)審査基準を立て,想定されるYの反論では緩やかな審査基準を立て,あなたの見解では中間的基準を立てるというように,問題の内容を検討することなく,パターン化した答案構成をするものが目立った。
どのようなものでも審査基準論を示せばよいというものではない。審査基準とは何であるのかを,まず理解する必要がある。また,幾つかの審査基準から,なぜ当該審査基準を選択するのか,その理由が説明されなければならない。さらには,審査基準を選択すれば,それで自動的に結論が出てくるわけではなく,結論を導き出すには,事案の内容に即した個別的・具体的検討が必要である。

<平成23年>
 最初から終わりまで違憲審査基準を中心に書きまくるという傾向はますます強まっているように感じられる。最初にこの状況で適用されるべき違憲審査基準は何かを問い,この場合は厳格な(あるいは緩やかな)基準でいく,と判断すると,後は「当てはめ」と称して,ほとんど機械的に結論を導く答案が非常に目に付く。

<平成24年>
 判断基準に関する争いのみに終始して事足れりとし,与えられた事例に即した個別的・具体的検討ができていない答案も目立った。実務家としては,理論面もさることながら,実際に目の前にある事案の紛争解決も大きな役割であり,その能力をも試されていることに留意する必要がある。


 要するに,憲法の問題では「違憲審査基準が極めて重要だ」という固定観念の下に,論文試験ではあらかじめ丸暗記した違憲審査基準の論証パターンを書きまくり,事案に即して考えるという態度の欠けている受験生が極めて多いことが窺われるのです。
 平成20年の採点実感でも述べられていますが,そもそも,憲法の問題について審査基準を定めたとしてもそれだけで答えが決まるわけではありません。問題文に示された事案の内容に即して,必要不可欠の(重要な,あるいは正当な)目的といえるのか,厳密に定められた手段といえるか,目的と手段の実質的(あるいは合理的)関連性の有無,規制手段の相当性,規制手段の実効性等はどうなのかについて,個別的・具体的に検討することが必要であり,審査基準論よりは具体的な検討の方がはるかに重要なのです。
 例えば,「司法試験の受験生に対し法科大学院修了を強制することは,職業選択の自由を定めた憲法第22条第1項に違反するか」という問題を考えてみて下さい。職業選択の自由に関する違憲審査基準は「厳格な合理性の基準」を用いるのが一般的ですが,審査基準を示すだけで結論が出てくるわけではありません。
 もとより合憲,違憲どちらかの結論が強制されるわけではありませんが,司法改革の理念なるものが規制を正当化する目的といえるのか,司法改革の理念と法科大学院修了の強制という手段の間に実質的な関連性があるのか,規制手段の相当性や実効性はどうなのかといった論点について,実情を踏まえながら個別的・具体的な検討を行い,それを踏まえて判例のいう「他の緩やかな規制では立法目的を十分達成できないとき」にあたるのかという結論を示すことができて,はじめて法律の専門家として説得力のある判断だと評価されるのです(もっともこの事例については,実際の法律家の多くは「個別的・具体的な検討」など出来ていないじゃないか,という反論が飛んできそうですが)。
 もちろん,理想としては違憲審査基準論もしっかり理解した上で,その審査基準に則して個別的・具体的な検討を行うことが出来ればそれに越したことはないのですが,法曹志望者の質が低下して今時の平均的な法科大学院生にそこまでの素質は期待できないこと,学説の主張する審査基準論のすべてが判例上採用されているわけではなく,具体的な事案に結論を出すのに違憲審査基準が不可欠の要素ではないこと,実際の答案では抽象的な審査基準論を書きまくり具体的な事案を見ようとしない答案が多いなど弊害が目立つことを考えれば,法科大学院の講義ではむしろ「違憲審査基準ではなく具体的事案の検討を重視せよ」と強調すべきではないかとすら思えるのです。
 このように考えれば,憲法の講義で違憲審査基準を教えないというのは,むしろ正しい教え方ではないかとみる余地があるのです。

3 おわりに
 もっとも,以上はかなり穿った見方であり,和田委員の指摘を受けた憲法の学者教員が,このように司法試験の傾向を冷静に分析した上で「国会の講義は1時間のみ,違憲審査基準も敢えて教えない」という決断をした可能性は低いでしょう。
 一般的に,学者教員には司法試験の傾向を分析しそれに沿った講義をするという発想はないので,おそらくは,その教員による講義は実質的内容も相当ひどいものであり,国会の講義が1時間だけだったというのも単に途中で時間が足りなくなっただけであり,和田委員には全体的な講義内容のひどさを示す象徴的な問題として学生からこの2つを伝えられたという可能性の方がはるかに高いと思います。
 ただ,それを差し引いても,冒頭に挙げた憲法学者の講義に対する学生の不満には,教える側の素質の問題以上に,学ぶ側の素質の問題を感じずにはいられないのです。

11 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-02-15 23:44:37
東大出版界のPR誌「UP」の最新号に、東大ローのローマ法の先生が意味不明のロースクール弁護論を書いておられます。多分この先生と同等の教養水準になって初めて理解できる難文かと思われますので、我こそと思う方はご一読ください。弁護士会館地下の書店にまだまだ置いてあります。
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Unknown (Unknown)
2013-02-15 23:53:43
もともと憲法の審査基準はアメリカで使われている審査基準を日本語訳しただけのものですから。
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Unknown (Unknown)
2013-02-15 23:54:28
細かいことですが、大学の世界では1回の授業(通常は90分)を「2時間」といいます。
つまり30時間というのは授業15回分ということで、これは半年分の授業(2単位科目)ということです。
なので「3時間」(授業1.5回分)という区切り方はあまり出てきません。
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Unknown (Unknown)
2013-02-16 00:39:52
>大学の世界では1回の授業(通常は90分)を「2時間」といいます。

 なるほど、、、。
 すると、30時間というのは、その実質は22時間半。

 憲法の基礎講義がたった22時間半?
 予備校の基礎講義の半分じゃん。
 
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Unknown (Unknown)
2013-02-16 10:32:16
>司法試験に出題されることは法科大学院の講義で全て漏れなく教えられるべきだなどという,現実にはおよそ不可能な要求をしている面があるのではないでしょうか。

確か、伊藤塾の入門講座憲法の講義時間が51時間だったよなあ。3時間の講義が17コマ。伊藤塾は他の予備校よりも憲法に力を入れてるので講義時間が長めだが。
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Unknown (Unknown)
2013-02-16 11:05:07
>予備校の基礎講義の半分じゃん。

これは「大学教育改革」の一環として、ほとんどの授業が半年授業になったためです。(「国際化」=秋入学の布石)
現場に責任を負っていない者が、机上の空論に基づいてカイカクを進めているのは日本中どこでも一緒です。
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  (knk)
2013-02-17 05:34:26
審査基準論大々的に論じて終わり、なんていう受験生は最下層です。そもそも勉強やってないとか、そういうレベルです。

ほとんどの受験生はあてはめまでしっかり研究しています。それでもなお、抽象論に終始している、と言われます。だから今の受験生はみんな混乱しているのです。
なんでも、いわゆる人権パターンのように、この権利だからこの基準、という論の進め方自体がダメらしいのです。「憲法の問題について審査基準を定めたとしてもそれだけで答えが決まるわけではありません」というのは尤もなのですが、それ以前、審査基準を定めるまでの時点で具体的事実を反映させなければならないらしいのです。ここまでくると審査基準型を捨てて利益衡量型をとらなければいけないのではないかとも思ってしまいますが…

おそらく堀越・世田谷事件の千葉補足意見がこの問題に対する一つの解答なのでしょうが、あんなの受験生に出来るはずがありません。
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Unknown (Unknown)
2013-02-17 11:47:22
>審査基準論大々的に論じて終わり、なんていう受験生は最下層です。そもそも勉強やってないとか、そういうレベルです。

旧試の時にも,そういう受験生はいました。
ただ,その時は,そういう人たちは決して合格することはなかったので,弁護過誤などの被害は発生することはなかったのですが,新司法試験では,そういう人たちが間違って合格してしまったりして,各種の問題を生じさせつつある(既に生じている?)のが現状です。
そもそも,そういう人たちは,憲法以外でも多々問題があり,法曹としての能力以前に,率直にいって,センス(才能?)がないのかなと思ってしまいます。
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Unknown (Unknown)
2013-02-17 11:52:16
法科大学院制度が成功しているか失敗しているかがわかる簡単かつ説得力のある方法があります
ロースクールの公開授業に参加し、その教員に質問すればいいのです

それで法曹養成能力があるかないかはすぐに解るでしょう

お勧めは、広島修道大学法科大学院の民事訴訟法を担当されている山田明美先生の授業です

ぜひご検討くださいませ
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Unknown (Unknown)
2013-02-17 16:22:45
結局のところ、旧試験のままもう少し柔軟な思考力をもつ人材を合格できるように工夫すべきでしたね。
旧試験時代は金太郎飴答案ばかりだと問題になりましたが、今では金太郎飴答案すら書けない子がいるわけです。
旧試験で、予備校論証集の吐き出しでは受かれない試験を作って、合格者は1500人くらいに抑えておけば今日の混乱は起きなかったと思います。
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