「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

十で神童十五で才子、二十歳過ぎればタダの人 ②

2010-01-22 | 日記
6年の3学期、ついに早稲田中学の入学試験の日を迎える。
試験はかなり自信が有ったのだが、合格発表の日にちょっとしたアクシデントが有り、最終的には合格していたのだが、それ程嬉しいとは感じなかったのです。
「チョッとしたアクシデント」、それは合格発表の日に、結果を確認に行った人からの報告で「私の番号はなく、不合格だった」と言うことを先生から言われたのであるが、正直な話、それほどガッカリしたわけでもなく「これでみんなと同じ学校に行くんだ」と言うくらいにしか感じなかったのです。
しかし、それから1時間くらい過ぎた頃だと記憶しているのだが、別の人から「合格している」と言う連絡が有ったそうで、始めに確認をした人が受験番号を間違えていたのです。
諦めていたところに合格の話を聞いたのだから、普通であれば「狂喜」するのが当然なのだろうが、その時の私は何故か「嬉しい」と思う気にならなかったのです。
ついでと言っては語弊があるのだが、当時の慶応中学の入学試験について書いてみたい。
私は早稲田中学以外考えていなかったのだが、何を血迷ったのか「慶応中学を滑り止めに」と言う事で願書を出してくれていたのですが・・・・。
通常「滑り止め」と言うのは、「万一に備えて確実の受かる学校を選ぶ」のが常識?だろうと思うが、今はどうか知らないのだが、当時の慶応中学は「種類選考で残った中から抽選で選ぶ」と言うことになっており、滑り止めにはならなかったのです。
当時、慶応中学の試験は「ガラガラ、ポン!で決まる」と私たちは聞いていたのです。
「ガラガラ、ポン!」とは、福引の抽選などでよく使われる六角形の箱を回して出てきた玉で合格が決まっていたのです。
私の他に二人が受けていたのですが、結局一人だけが合格し、私は不合格だったのです。
それでは「何故私が早稲田中学を選んだのか」と言うことだが、当時の早稲田大学は野球が強く、野球が好きだった私が「野球が強い」と言う単純な理由で選んだだけの事だったのだが、後になって考えると「選ぶべきして選んだ」と言うことが出来るのです。
「選ぶべくして選んだ」、慶応は「お坊ちゃま」で、早稲田は「バンカラ」と言うのが通り相場なのだが、「早稲田には個性の強い人が多い」と言うこともあり、私にピッタリだったのですが・・・・。
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百合さんのコメントに関連した話

2010-01-21 | 日記
このブログ、書いている私自身「信じてもらえないだろうなーー!」と思いながら書いているのだが、それでも耐えることが出来たのは、私が精神的にタフだったからではなく、当時は私と状況は違っても「悲惨な生活」をしていた人は珍しくなかったのです。
自分と同じような悲惨な生活をしている人が周りにいることによって「自分だけではない」と言う一種の「安心感?」も有ったのでしょうが、それ以上に救われたのが私の周りにいた人たちだったのです。
父と母の争いも、商売をしている関係で、昼間は言わば「休戦状態」だったのですが、時に険悪な状態の時があったのだが、その時は裏の垣根の隙間から隣のうちに逃げ出したのです。
隣のうちにはおじいさんがいたのですが、このおじいさん、非常に私を可愛がってくれ、このおじいさんといる時は嫌な事も忘れる事が出来たのです。
このおじいさん以外にも私を可愛がってくれる人が何人かいて、良く遊びに行っていたのです。
そして、田舎のおばあさん(父の母)の存在が最も大きかったのです。
春休みと夏休みにはよく田舎に行っていたのだが、私が行くと特別扱いをしてくれ、従兄弟たちからは「お前ばかり特別扱いされてずるいぞ!」と言われた事も有ったのです。
この様に、家にいる時は悲しい思いをしても、一歩外に出てしまえばそこは正に「楽園状態」だったのです。
そして更に、商売をしている関係も有って「家族で何処かに出かける」と言う機会が少なかったのだが、私の場合は、お客さんや商売の関係で店に来る人たちが、釣りに連れて行ってくれたり、「家に遊びに来い」と言ってくれたりもしたのです。
この様な事はその後もよくあり、私の心の中には「心の支え」となってくれた人が大勢いるのですが、「もし今の時代に私が生まれたとしたら」と考えると憂鬱な気分になってしまうのです。
同じ状況でも、周囲の状況が違うと「耐えられるものも耐えられなくなる」と言う事はよくある事で、逆もまたあるのです。
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十で神童十五で才子、二十歳過ぎればタダの人

2010-01-20 | 日記
この言葉は私のためにあるようなもので、小学校5年6年の時は、今思い出しても「あの時は何で勉強が良く出来たのだろう・・・・?」と言うほどよく出来たのですが、中学に入ってからは右肩下がりで成績が下がってしまったのです。
5年の2学期に「俺は早稲田に行く」と宣言する前の私は、それ程目立つ存在ではなかったのだが、宣言してからは猛烈に勉強したわけでもないのに成績が上昇し、6年になった頃には「非常に目立つ存在」になっていたのです。
特に得意だったのが「理科」で、担任の先生が余り理科が得意でなかった事も有って、実験の時などは良く先生の助手をしたものです。
そして一番良く覚えているのはモーターを組み立てた時の事で、先生も一緒に組み立てたのだが上手く動かず、唯一私のモーターだけが動き、隣の組では全く動くモーターがなかったため、私のモーターを持っていって「このように動くのだ」と見せた物です。
これ以外にも、飛行機、竹とんぼなども一番良く出来、得意絶頂の時期でも有ったのです。
さて、私を含めて7人が私立の中学を目指す事になったのだが、当時は塾などなかったため、週に3日(夜)、7人の生徒が一軒の家に集まり先生が得別授業をしてくれることになったのですが、理科は私が半分以上教え、算数も結構教えた物でした。
自慢話の続きになってしまうのだが、1万数千人が参加した「模擬試験」で唯一満点を取った事も有り、更に、当時は「標準テスト」と言うものが広範囲に実施されており、採点だけでなく「順位」まで書かれていたのですが、私の場合は、「95点以上で5円、100点だと10円」ご褒美が母からもらえるのが楽しみで頑張った事も覚えています。
この頃が私にとって唯一幸せな時期で、中学に入ってからはまた大きな波風に襲われるのです。
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5年生の時の話

2010-01-19 | 日記
ある事情から5年の2学期以降父の暴力が一時的に止まったのだが、その理由は後から書くことにします。
私が5年になると直ぐに、目鼻立ちのはっきりした美人の女の子と仲良しになるのだが、私のほうから近づいたのではなく「彼女の方から近づいてきた」のだが、こんな書き方をすると自慢しているように聞こえるだろうが、実際は複雑な心境だったのです。
この女の子、実は「元華族」の家のお嬢さんで、目鼻立ちがはっきりしているだけでなく「性格もはっきりしていてキツイ女の子」で、クラスの誰もが嫌って相手にせず、友達が一人もいなかったのです。
4年生の時はクラスが違っていたので縁がなかったのだが、5年になって同じクラスになってから、彼女の方から近づいてきたのです。
私の家から歩いて5分ほどのところに住んでいたのだが、風格のある平屋の大きな家で、南向きの広い縁側でよく話をしたことを覚えているが、この子と付き合っていたため他の友達からは敬遠されていた事も悩みのタネでは有ったのです。
しかし、これも半年余りで終止符が打たれる事になったのですが、その別れは唐突に現れたのです。
どんな事情があったかは全くわからないのだが、3学期が始まった日に先生から「引越しをした」と言う話を聞かされたのです。

次に冒頭で書いた「ある事情」なのだが、これは2学期のある日「俺は早稲田に行く」と宣言した事が父の耳に入ったことがきっかけで、それ以後中学に入学するまで続いたのです。
これは中学に入ってからわかった事なのだが、当時は私立の中学に行く人は極僅かで、お金持ち(それなりの地位の人)の家の子供しか行くことが出来ず、酒屋のせがれが早稲田中学に入ることは「とてつもない自慢の種」だったのです。
私の同級生で私立の中学に行ったのは、大銀行の頭取の娘(学習院)、大銀行の支店長の娘(学習院)、弁護士の息子(学習院)、大企業の重役の息子(慶応)、中堅の建設会社の社長の息子(早稲田)と、全て中流以上の家庭の子供だったのです。
後は全て公立の中学に進み、中学を卒業して直ぐに働く子も珍しくなかった時代なのです。
このような時代だったので、自分の息子が「有名な早稲田中学に行く」と言う事で有頂天になったのでしょう。
この後5年の3学期から中学に入る頃までは「私の一番華やかな時期だった」と言っても良いくらいだったのですが、そのことは次に書くことにします。
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昼間は楽しく過ごせた4年生の頃

2010-01-18 | 日記
4年生の時の記憶は「明暗両面」で沢山の思い出が有り、昼間楽しい時間を過ごす事が出来た事が私を助けてくれたのでしょう。
3年生の時の先生の記憶は全く無いのだが、4年生の時の担任の先生は、非常に綺麗な女の先生で、その顔は今でも鮮明に覚えているのです。
この女の先生、綺麗なだけでなく「誰にでも優しく、クラス全員に好かれていた」のです。
ピアノが上手な先生で、夏休みには1時間以上かけて先生の家まで遊びに行ったことも有り、みんなの憧れのマトだったのです。
しかし、この先生もこの年を最後に他の学校に移ることが終業式の日にわかったのだが、終業式が終わった後、先生は私たち全員を音楽室に集め、最後のお別れの曲として「エリーゼのために」を弾いてくれたのだが、このことをきっかけに私はクラシック音楽を好きになったのです。
翌年も先生に手紙を書き、10人ほどで遊びに行った事もありましたが、それ以後は会う事も無くなってしまいまい、その後の消息はわかりません。
初代コロンビアローズによく似た先生で、ある意味「私の初恋の相手(片思いだが)」と言うことも出来るかもしれません。
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空白の1年

2010-01-18 | 日記
小学3年生の時の記憶は殆ど無いのだが、その中で唯一覚えているのは、疎開していた人たちが戻ってきた関係で子供の数が多くなり過ぎ、とても教室が間に合わなくなり、午前と午後それぞれ別の子供たちが授業を受ける事になった事くらいです。
翌年新たに2つの小学校が出来て生徒が別れて行ったのだが、それでも未だ千人以上の子供が残ったのですから相当の数だったのでしょう。
これ以外で覚えていることは全く無く、何故この時期だけ記憶に残る物が無いのか今でも不思議でならないのです。
そして4年生になると悪夢に悩まされるようになりのですが、それは夜寝る頃になってからの話で、昼間はそのような事も無く、学校では楽しい時間が過ごせたことを覚えています。
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ヒストリー (優しかった頃の父の思い出)

2010-01-17 | 日記
昭和17年(1942年)に生まれたことはすでに書いているのだが、おじいさんの命日に生まれたから「おじいさんの生まれ変わり」と言われるようになったのだが、実際の話、そのおじいさんの息子(母の兄)の話では、花が好きなところと、花の手入れをしている後ろ姿など「おじいさんにそっくり」だったのだそうであるが、生まれた当初は「やっと跡取りが生まれた」と喜んでいた父だが、数年後に母とのいさかいから「おじいさんの生まれ変わり」と言うことだけで私に八つ当たりをしてくるとは。
これは5歳か6歳くらいの頃だったと思うが、当時私は足の親指に「魚の目」が出来ていて、父が良くカミソリで削ってくれたのを思い出すし、小学校に上がって直ぐに「逆さまつ毛」が見つかり、自転車で何軒かの医者に連れて行っって貰った事も覚えているのだが、その当時の父は至って優しく、怒られた記憶は全く無いのです。
2年の二学期には足の裏に膿が溜まり歩くのが困難になったため、冬休みに手術をしたことも覚えているのだが、この少し後から記憶が全く途切れてしまい、3年生の時の記憶は「2部授業だった」と言うことくらいしか残っていないのです。
アルバムで先生の顔を見ても思い出せず、余程思い出すのも嫌な事が有ったのでしょうが、姉たち二人は知っていたはずなのに何も話してはくれなかったのですが、話をしてくれなかった訳がわかったのは、父も母も死んで、相続が終わった後のことなのです。
話してくれなかった理由は「ウッカリ話すとどんな事になるかわからなかった」と言うことと、「父の怒りの矛先が私に向いていた方が都合がよかった」と言う事も有ったのです。
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真相発覚

2010-01-15 | 日記
これは母が死んだ2ヵ月くらい後に「全く偶然に」わかった事で、その10年前ごろからうすうす気が付いてはいたのだが、この偶然も、父と母が死んでいなければ不明のまま今日に至っていたかもしれないのです。
この偶然とは、埼玉県川口市にある「グリーンセンター」にたまたま行った時の話で、温室の中を歩いていると、何となく誰かに見られているような感じがし、ゆっくりと周囲を見渡したところ、向かい側の木の陰からこちらを見ている人がいたのです。
母と同じくらいの年齢の人と、私と同じくらいの人と、その子供と思われる3人連れの人たちで、私と目が合うと近づいてきて「○○さんの息子さんでは?」と言うので、私が「そうですが?」と答えると、「やっぱり、よく似ているのでそうではないかと思った」のだそうである。
そして「ご両親はいかがお過ごしですか」と言う問いに「父は4年前に、母は2ヶ月ほど前に亡くなりました」と言うと、「そうですか、あなたも苦労をしましたね」と言い、続けて「あなたの事は親戚中が知っていて、何とかしてあげたいとは思ってもどうしようもなかったの、ゴメンナサイね」と言うのである。
一瞬私はポカンといていたのだが、それを察したのだろう、母と同じくらいの歳の人(父の従兄弟)が過去の様々な経緯を話してくれたのですが、父か母のどちらかが生きていたら話してはくれなかったことでしょう。
この三人は、父の母(私のおばあさん)の実家の人で、一度だけ訪れたことがあるのだが、1時間余りしか滞在していなかったので記憶に残っていなかったのですが、私が余りにも父に似ていたために先方が気が付いてくれたのです。
事の真相は至って簡単なことで、私の記憶が空白になっている時期(小学3年の頃)に父と母の間で起きた争いが私に飛び火しただけの事だったのですが、飛び火の原因が「3週間遅れて生まれた私の誕生日(母方のおじいさんの命日)」だったのです。
3週間も遅れたうえに、選りによっておじいさんの一周忌の命日に生まれたことで「おじいさんの生まれ変わり」と言われた事が、後になって災いする事など誰が想像したであろうか。
分かり易く言えば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地で行ったもので、母が坊主で「私は袈裟」だったのですが、もう一人袈裟がいたのです。
それは「母のお兄さん」で、一緒に住んでいなかったことで私ほどはひどくなかったのだが、何かにつけ「あの馬鹿野郎が!」とか「○○の家の物は皆どうしようもない馬鹿野郎だ!」と言われ続けていたのです。
それではその争いはと言うと、私たちは6人兄弟だが、父にすれば「7人目が欲しい」と思っていたのだそうだが、その事が気に入らない母に「父の人格を破壊するような暴言」を吐かれたのだそうです。
どのような言葉だったかは「とても口に出来るような言葉では無い」といって聞かせてもらえなかったのだが・・・・、「人格を破壊するような言葉」と言えばおよそ想像できるだろう。
そして更に衝撃的な事実「母は子供が嫌いだった」と言う事で、母に言わせれば、私たち兄弟は「父によって無理に生まされた望まぬ子」だったと言うのです。
このことを聞いた時ふと思い出したことは、正にこのことを裏付けるような事実があったことです。
それは、私の下の姉が二人目の女の子を出産して間も無くの事で、過労から肝臓を患い長期入院を強いられてしまった時の事、姉の家は小さなスーパーのような店を営んでおり、子供を育てる人がおらず、当時は店の経営から身を引いていた父と母が引き取って育てる事になったのだが、ある時母が私に言った言葉「私は子供(孫)なんて好きじゃないけど、おじいさんが喜んでいるのでしょうがないから手伝っている」と言っていた事を思い出したのです。
これで寒い冬、雪の降る庭に私が放り出されても「身を挺して守る」と言うことをしてくれなかった理由がわかったような気がしたのです。
そして父にしても、けして私が憎くてしたことではなく、いくら母に怒りをぶつけても「知らぬ顔の半兵偉」だった母への「アテツケ」だった物がエスカレートしてしまったもので、最後まで振り上げたこぶしの収めようが無かったのでしょう。
それでは「何故父は母と別れようと思わなっかのだろう」と聞いたところ、当時の父にとって「母がいないと店を開けてゆけない」と言う事情(弱味}が有り、母にすればそのこと(弱味)に付け込んで居座っていたのだそうで、母にしても「家を出て行ったら生活できない」と言う事情(利己主義)が働き、いわば「家庭内離婚」の状態でずるずると続いていたのです。
確かに中学2年の頃だったと思うが、ある日母がポツンと言った言葉に「母さんと父さんはもう夫婦じゃないんだョ」と言っていた事も思い出すのです。
「子は鎹(かすがい)」ならぬ「商売が鎹」で、お互いに「仕方なしに一緒にいた」だけだったのです。
そして、母は死ぬまで「悲劇のヒロイン」を演じ続けていたのだが、真相が判明してみれば「羊の皮をかぶったオオカミ」と言うほうが相応しく、「私の人生を狂わせた張本人」だったのです。
「親は子供を選べるが、子供は親を選べない」とはよく言ったものです。
次からは私の生い立ちを少しずつ順を追って書いてみようと思います。
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私へのアテツケ?

2010-01-15 | 日記
これは私が32歳になった時の話で、2年前に「家業(酒屋)を継ぐ継がない」で争いになり、半ば私は追い出されるように家を出なくてはならなくなり、家を買う頭金として300万を貰い、残りは自分の貯金と住宅ローンで今の場所に家を建てた1年後の話である。
私は総額850万で家を建てたのだが、それにあてつけるかの様に、弟は2,000万の家を建てて貰ったのである。
表向きは弟が住宅ローンでお金を借りて建てた事になっているのだが、当時は1,000万のローンを組む事さえ難しかった時代に「2,000万」などとても借りられるはずも無いのだが、商売で懇意にしている信用金庫に無理を言って「父の裏保証」で無理にローンを組んだのです。
当然の話だが、2,000万ものローンの返済を弟が出来るはずもなく、父が弟にお金を渡して返済させていたのです。
そして、この年は私にとってかなり厳しい年の始まりでもあったのです。
この1年前(私が家を建てた年であるが)に始まった「第一次石油ショック」により、勤め先の不動産会社が経営不振から倒産した年で、直ぐに新しい仕事は見つかった物の「収入は半減」してしまったのである。
収入が半減してしまえば当然のこと「ローンの返済に困る」のであるが、およそ2年余りだったと思うが、家で食べる食事は「即席ラーメンに卵とモヤシ」で済ませることも多かったのですが、片道2時間近くの通勤時間に限界を感じ、思い切って家の近くの会社に転職をした頃から少しずつ余裕が出てきましたが、どうしても父に援助を頼むことは出来なかったのです。

これ以外にもまだ沢山の話があるのだが、次回はそろそろ「なんでこんな事が起きたのか」と言うことに触れてみたいと思いますが、「ついで」、と言っては申し訳ないのだが、当初の予想に反して多くの方が読んでくださっているようなので、私のもう一つのブログも読んで頂ければと思っているのです。
もう一つのブログは「へそ曲がりおじさんのひとり言」で検索していただければ出てくると思いますが、「へそ曲がりおじさんの花便り」「へそ曲がりおじさんのへそ曲がりナオカヤドカリ飼育法」も私のブログなので、暇が有った折にでも読んでみてください。
「ひとり言」は少々辛口の内容なのだが、このブログと関連した事もかなり書いていますので、ある程度私と言う人間がわかって頂けるのではないかと思います。
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幼少期の私・・・・、私は貰われっ子?(車編)

2010-01-14 | 日記
この話は幼少期に入れるのはおかしいのだが、ここは便宜上同じタイトルで書くことにします。
私が車の免許を取ったのは24歳のときなのだが、その時すでに22歳になる弟は、車の免許どころか「自分専用の車」まで持っていたのです。
この頃はまだ自家用車を持っている人は少なく、持っていても中古車が多かったのだが、弟が持っていたのは「スポーツタイプの新車」で、買ったのは当然の事だが父なのだが、更に驚くことは、ガソリン代も税金も全て父が負担していたのであるが、驚く無かれ、その後もこのような状態が続き、父が84歳で死ぬまで続いていたのです。
それでは私はどうだったかと言うと、今乗っている車を含めて5台の車を買っているのだが、いまだかって「ただの1円」たりとも出してもらった事が無いのです。
これに関連する話なのだが、私が免許を取った直後弟に「たまには俺に貸してくれよ」と言ってことに対する返事に呆れてしまった。
その返事は「俺は親孝行をして買ってもらったんで、お前のような親不孝者には乗る資格などない」と言うのである。
私が「親孝行?」と聞いたところ、「俺は大学など行きたくなかったが、親父が、行け、行け、とうるさかったので親孝行で行ってやったんだ!」と言うのである。
そこで私が思ったのは「実の子と、貰われっ子ではこれほどの差をつけられるのか・・・・」と言うことを実感させられたのですが、こんな話信じられますか?・・・・。

私は父との意見の対立から、高校1年の10月に辞め(中退)ているのだが、この事と、何故このような理不尽な事がなされたかについては、改めて別な項目で書くことにしますが、しばらくは「作り話」のような私の話にお付き合いください。
「事実は小説より奇なり」なのです。
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