私が生まれた家は酒屋で、2年後に米軍の空襲で焼失してしまい、一時期田舎に疎開していたのだが、1キロほど離れていて焼失を免れた場所で「配給所が無いのでやってくれないか」と言う話が舞い込み3年ほど店を開いていたのだが、元の住人が戻る事になり近くの土地を買い家を建てて店を始めたのだが、この頃までは父も「子煩悩な優しい父」だったのです。
この頃の我が家には女中さんが居り、私はこの女中が大嫌いで、何時も学校から帰るとこの女中に捕まらないように外に飛び出して遊んでいたのだが、弟は何時も捕まってしまい、「女中っ子」と言っても良いだろう、
しかし、この女中さんも私が2年生の頃にはいなくなってしまったのですが、次に来た女中さんは直ぐに辞めてしまい、何となく父と母の機嫌が悪くなっていたように感じていたことを思い出すのです。
今考えれば、この頃から父と母の間に大きな溝が出来始めていたのではないだろうか。
そして翌年に父の人格が変わるような事件が起きたのだが、その事を知ったのは「40年以上も後」の事であり、真相が解明されるまで「私は貰いっ子では?」と言う思いを拭い去る事が出来なかったのです。
この頃の我が家には女中さんが居り、私はこの女中が大嫌いで、何時も学校から帰るとこの女中に捕まらないように外に飛び出して遊んでいたのだが、弟は何時も捕まってしまい、「女中っ子」と言っても良いだろう、
しかし、この女中さんも私が2年生の頃にはいなくなってしまったのですが、次に来た女中さんは直ぐに辞めてしまい、何となく父と母の機嫌が悪くなっていたように感じていたことを思い出すのです。
今考えれば、この頃から父と母の間に大きな溝が出来始めていたのではないだろうか。
そして翌年に父の人格が変わるような事件が起きたのだが、その事を知ったのは「40年以上も後」の事であり、真相が解明されるまで「私は貰いっ子では?」と言う思いを拭い去る事が出来なかったのです。