「キレタ理由がわからない」と言うことだが、結論から先に言うと「気になる事が有るので注意した」のを「批判された」と短絡的に受け取られてしまったことで、良好な関係の中では余り起きない問題で、注意をいきなり「批判」と捉えられてはウッカリ話も出来ず、それまで「漠然と感じていた大きな溝」と言うものの存在が現実の物になってしまったのです。
次にその「気になる事」なのだが、私と仲良しになった孫娘がしばしば私に言ったのが「パパとママはラブラブなんだよ!」と言う言葉なのだが、それを話す時の孫娘の表情には「パパとママはラブラブだけど、私は仲間はずれでつまらない」と言う気持ちがハッキリと現れ、「私も一緒に仲間に入いりたい」と言う気持ちが読み取れるのです。
これは私から見ても同じように感じられるので、次の子供が生まれた後、仕方ない話では有るが「生まれた子供に関心が集中する」と言う事で、「お姉ちゃんがやきもちを焼かねば良いが」と思い注意しただけで、義理とは言え「仮にも親子」と言う間では想像も出来なかったのですが、それを聞いた息子までが「批判されてキレた」と言うのですからどうしようもないのです。
これは息子が結婚する何年も前の話だが、「父さんは子育てが上手いので子供が出来ても安心だよ!」と言った事もあり、小・中学生の頃はよく「俺も父さんのようになれるかなーーッ!」と言っていた事からは全く想像も出来ない話で、正直な話「狐につままれた」「裏切られた」と言った気持ちを禁じえなかったのです。
自分で言うのもおかしいのだが「私くらい積極的に子育てをした父親は少ないだろう」と言えるほど育児に参加し、特に「精神的な部分には大きな影響を与えたと思っていたのに・・・・」である。
このように考えてゆくと「離婚後も引き取って育てたのは一体ナンだったのか?」と言う疑問にぶち当たり、「一体俺は何をしてきたのだろうか?」と言うことになってしまうのです。
よく「子供は親の背中を見て育つ」と言うが、息子は私の背中を見ていなかったのか「反面教師」にしたのか大いに悩むところだが、仮の話し「反面教師」にしたのであれば、「何故私が反面教師にされなければいけないのか?」と言う疑問もわいてくるのです。
しかし、これは考えたくないことでは有るが「実は私の子供ではなかった」と言うことになれば全てに説明がつき、「私には全く似ていないが、母親にはそっくり」と言う事もうなずけるのであるが・・・・。
もしそうだったとしたら・・・・。
今更調べてみたとしても「所詮は後の祭り」でしかなく、仮の話「他人」であったとしても、今や「生みの親より育ての親」と言う言葉は「死語」になってしまい、「今は昔」と言うしかないだろうが、なんとも殺伐とした時代になったものである。
次にその「気になる事」なのだが、私と仲良しになった孫娘がしばしば私に言ったのが「パパとママはラブラブなんだよ!」と言う言葉なのだが、それを話す時の孫娘の表情には「パパとママはラブラブだけど、私は仲間はずれでつまらない」と言う気持ちがハッキリと現れ、「私も一緒に仲間に入いりたい」と言う気持ちが読み取れるのです。
これは私から見ても同じように感じられるので、次の子供が生まれた後、仕方ない話では有るが「生まれた子供に関心が集中する」と言う事で、「お姉ちゃんがやきもちを焼かねば良いが」と思い注意しただけで、義理とは言え「仮にも親子」と言う間では想像も出来なかったのですが、それを聞いた息子までが「批判されてキレた」と言うのですからどうしようもないのです。
これは息子が結婚する何年も前の話だが、「父さんは子育てが上手いので子供が出来ても安心だよ!」と言った事もあり、小・中学生の頃はよく「俺も父さんのようになれるかなーーッ!」と言っていた事からは全く想像も出来ない話で、正直な話「狐につままれた」「裏切られた」と言った気持ちを禁じえなかったのです。
自分で言うのもおかしいのだが「私くらい積極的に子育てをした父親は少ないだろう」と言えるほど育児に参加し、特に「精神的な部分には大きな影響を与えたと思っていたのに・・・・」である。
このように考えてゆくと「離婚後も引き取って育てたのは一体ナンだったのか?」と言う疑問にぶち当たり、「一体俺は何をしてきたのだろうか?」と言うことになってしまうのです。
よく「子供は親の背中を見て育つ」と言うが、息子は私の背中を見ていなかったのか「反面教師」にしたのか大いに悩むところだが、仮の話し「反面教師」にしたのであれば、「何故私が反面教師にされなければいけないのか?」と言う疑問もわいてくるのです。
しかし、これは考えたくないことでは有るが「実は私の子供ではなかった」と言うことになれば全てに説明がつき、「私には全く似ていないが、母親にはそっくり」と言う事もうなずけるのであるが・・・・。
もしそうだったとしたら・・・・。
今更調べてみたとしても「所詮は後の祭り」でしかなく、仮の話「他人」であったとしても、今や「生みの親より育ての親」と言う言葉は「死語」になってしまい、「今は昔」と言うしかないだろうが、なんとも殺伐とした時代になったものである。