今の家の建築が始まった頃に「第一次石油ショック」が始まった事はすでに書いているのだが、石油ショックをきっかけに、不動産業界は「冬の時代」に入ってしまうのです。
当然の事だが、私が働いていた会社も業績不振に陥り、経営状態が思わしくなくなってしまい、私の反対を押し切って社長が始めた新規の事業も思わしくなく、新規の事業のために雇った社員とも対立するようになり、否応なく私は退職に追いやられてしまったのですが、長い目で見れば、このとき不動産業界から身を引いたことがその後の人生にはプラスになっていたのではないでしょうか。
この後直ぐに新しい会社で働く事にはなったのですが、不動産業界から離れたため、給料は「半分以下」と言うひどい状態になり、住宅ローンの返済にも事欠くようになるのですが、3年間は殆どギリギリの生活で耐え忍び、少しだが余裕が出たところで新たな会社に転職をしたのです。
元々が東京の生まれだったので、勤めていた会社も東京の会社だったのだが、家を建てたのは埼玉県で、通勤は「片道2時間」もかかったいたのですが、偶然家の近く(車で5分ほど)の会社が社員の募集をしている事を知り、ダメモトで面接を受けたところ採用してもらえたのです。
通勤時間が大幅に短くなり、給料も2割ほどよくなったのだから「ラッキー!」と言ったところではあるのだが、この2年後にまた「新たな不運」が待ち受けていたのですが、このことに関してはまた改めて書くことにしましょう。
当然の事だが、私が働いていた会社も業績不振に陥り、経営状態が思わしくなくなってしまい、私の反対を押し切って社長が始めた新規の事業も思わしくなく、新規の事業のために雇った社員とも対立するようになり、否応なく私は退職に追いやられてしまったのですが、長い目で見れば、このとき不動産業界から身を引いたことがその後の人生にはプラスになっていたのではないでしょうか。
この後直ぐに新しい会社で働く事にはなったのですが、不動産業界から離れたため、給料は「半分以下」と言うひどい状態になり、住宅ローンの返済にも事欠くようになるのですが、3年間は殆どギリギリの生活で耐え忍び、少しだが余裕が出たところで新たな会社に転職をしたのです。
元々が東京の生まれだったので、勤めていた会社も東京の会社だったのだが、家を建てたのは埼玉県で、通勤は「片道2時間」もかかったいたのですが、偶然家の近く(車で5分ほど)の会社が社員の募集をしている事を知り、ダメモトで面接を受けたところ採用してもらえたのです。
通勤時間が大幅に短くなり、給料も2割ほどよくなったのだから「ラッキー!」と言ったところではあるのだが、この2年後にまた「新たな不運」が待ち受けていたのですが、このことに関してはまた改めて書くことにしましょう。