「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

十で神童十五で才子、二十歳過ぎればタダの人 ⑤

2010-01-24 | 日記
何とか高校に進むことは出来たものの、この頃には「自分の進みたい道に進むことは不可能」と言うことが現実的になり、最早勉強をする意欲もなくなってしまったのです。
そして迎えた2学期の中間試験。
勉強する意欲が全く無いのだから学校へ行く気にもならず、言わば「不登校」の状態になり、「それなら辞めてしまえ!」と言う父の一言で登校拒否になり、最終的には中退してしまったのです。
登校拒否を始めた当初は、担任の先生や仲の良かった同級生も家に来て登校を促してはくれたのだが、世間体ばかり気にする父や母の態度に諦めたようで、半月もすると誰も来なくなりました。
学校を辞めてからしばらくの間は「引きこもり」状態になり、18歳になる頃まで何をしていたのか殆ど記憶が無いのだが、唯一覚えているのは「殆ど毎日のように死ぬ事を考えていた」と言うことです。
18になった頃から少しずつ死ぬ事を考える事が減り、近くに住む幼馴染と休日に山登りをするようになり、これがきっかけでスキーを始める事になるのだが、スキーを始める事によってまた大きな転機が訪れるのです。
ある出版社の主催するスキースクールで泊まった民宿の雰囲気が良く、それ以後11年にわたり通い続けたのだが、この民宿は私にとって「第二の故郷」と言っても良く、殆どか常連客で占められていた事も有り、ここで数多くの「心の友」に出会うことが出来たのです。
何人もの素敵な女の子とに出会いもあったのだが、私自身が「プータロー」では如何ともしがたく、全て私の方から身を引くしかなかったのが残念で堪りませんでした。
この頃のスキーはまだ庶民の物とは言い難く、ある程度余裕のある人がするものだったのですが、私は1年間必死でお金を貯めて行っていたので、女の子と付き合う余裕など無かったのです。
当時のスキーの道具は、最も安い物でも「3点セットで19,800円」で、「大卒サラリーマンの1か月分の給料」と同じくらいだったのですから仕方ありません。
それに、民宿の宿泊料も「1泊5,000円位」していたのですから今と大して変わりがなく、給与水準から考えれば「今の10倍」と言っても良いでしょう。
18から24くらいまではこんな調子で過ぎてゆき、25くらいになってやっとまともな生活をしようと言う気になったのだが、近くに住む人の紹介で受けた就職の面接では見事に断られてしまいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十で神童十五で才子、二十歳過ぎればタダの人 ④

2010-01-24 | 日記
前回書いたように、入学試験は好成績で入っては見たものの、勉強する時間も無く成績が下がり続けていった中で、生物と物理だけは異彩を放っていたのです。
私の得意は「応用」で、最も苦手な事は「丸暗記」なのですから、応用の利く生物、物理は「得意中の得意」なのだが、化学、歴史、漢文、幾何は「苦手中の苦手」で、何時も落第点だったのです。
それでも落第もせず高校に進めたのは、生物、物理で異彩を放っていたからなのです。
どれほどの異彩だったかと言うと、化学、歴史、漢文、幾何などは殆ど「学年(360人)の最下位グループ」だったのに対して、生物は「学年トップ」、物理も「トップグループ」だったのです。
そして、「問題を作った先生でも満点は取れない」と言われた生物の試験で満点を貰ったり、物理の試験では「100点満点の試験で120点を貰う」など、前代未聞の事件を起こしたこともあるのです。
それでは「問題を作った先生でも満点は取れない」と言う試験とは、「地球上に現在しないある植物の、存在しない理由を書け」と言うもので、普段の授業でも取り上げられる事はなく、いかに推理(推測)を働かせるかがポイントで、正しい「存在しない理由」など誰にもわからない事なのですから、正解(満点)などありえないのです。
次に物理の試験であるが、物理を担当する先生は私の担任でもあったのだが、この先生の授業は実にユニークな授業で、突然問題を出すのだが、「わかった人は手を上げて」と言いながら、手を上げた人を指名する事はなく、手を上げていない人を指名するのです。
手を上げていないのだからわかるはず無いのを承知で指名し「わかりません」と言う答えに「どこがわからない?」と聞き、答える事が出来ないと「問題を暗証して見ろ」と追求し、「出来ません」と言うと「それではわかるわけは無い」と言い、答えが出るまで徹底的に追求するのですが、ウッカリそれを面白がっている生徒がいるとその生徒も指名されるので、油断も隙も無いのです。
そのため、初期の頃は指名を逃れようと「わからないのに手を上げる人」もいたが、先生はそれを見破って指名をするため、直ぐに指名逃れはしなくなりました。
採点方法も変わっており、答えが違っていても、問題の解き方が間違っていなければ其れなりの点を付け、「答えが正しいか」より「問題を正しく理解して解いているか」と言う事の方を重視していたのです。
私が120点を貰った時が正にこれで、1問20点の問題5問で100点だったのだが、そのうち4問しか出来ていなかったので、普通の採点基準であれば「80点」だったのですが、残りの1問と、別のもう1問の解き方を先生が大きく評価してくれたのです。
この2つの問題、どうしても公式が思い出せ無かったのだが、あるやり方で解けることがわかり解き始めては見たものの、残念ながら時間切れになリそのまま提出したのだが、その時の私の様子を先生は見ていたのです。
そして、この先生との出会いも今の私に大きな影響を及ぼしているのです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする