「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

石油ショックの1年後

2010-01-31 | 日記
今の家の建築が始まった頃に「第一次石油ショック」が始まった事はすでに書いているのだが、石油ショックをきっかけに、不動産業界は「冬の時代」に入ってしまうのです。
当然の事だが、私が働いていた会社も業績不振に陥り、経営状態が思わしくなくなってしまい、私の反対を押し切って社長が始めた新規の事業も思わしくなく、新規の事業のために雇った社員とも対立するようになり、否応なく私は退職に追いやられてしまったのですが、長い目で見れば、このとき不動産業界から身を引いたことがその後の人生にはプラスになっていたのではないでしょうか。
この後直ぐに新しい会社で働く事にはなったのですが、不動産業界から離れたため、給料は「半分以下」と言うひどい状態になり、住宅ローンの返済にも事欠くようになるのですが、3年間は殆どギリギリの生活で耐え忍び、少しだが余裕が出たところで新たな会社に転職をしたのです。
元々が東京の生まれだったので、勤めていた会社も東京の会社だったのだが、家を建てたのは埼玉県で、通勤は「片道2時間」もかかったいたのですが、偶然家の近く(車で5分ほど)の会社が社員の募集をしている事を知り、ダメモトで面接を受けたところ採用してもらえたのです。
通勤時間が大幅に短くなり、給料も2割ほどよくなったのだから「ラッキー!」と言ったところではあるのだが、この2年後にまた「新たな不運」が待ち受けていたのですが、このことに関してはまた改めて書くことにしましょう。
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30歳で「取締役営業部長」に

2010-01-30 | 日記
不動産会社が倒産した後いくつかの会社を渡り歩いていたのだが、ある日突然勤めていた会社に、倒産して詐欺事件になった不動産会社の社長だった人から電話が来たのです。
事件の責任をとって「懲役2年」の刑に服していたのだが、出所して新しい会社を立ち上げようと思うのだが、「一度あって話したいが、ぜひとも君に手伝って欲しい」と言われたのです。
始めは少し迷っていたのだが、未だ若かった私はチャレンジする事に決め、当時は100万円ほど貯金があってので、それを出資したため「取締役営業部長」と言う大役を任されたのだが、実際には5人しかいない会社で、「部下はゼロ」だったのですが、不動産業の世界は「ハッタリ」が当たり前で、勝手に「課長・係長」などと言う肩書きの名刺を作る人が大勢いたのですが、私の場合は「社長の代役」もしなくてはいけないのですから大変です。
単なる営業だけであれば「ある程度のハッタリ」も通用するでしょうが、「社長の代理」として銀行や他所の不動産会社にも行かなくてはいけないのですから、その苦労は並大抵の物ではないのですが、元々が老けて見られることが多かった私(当時は40くらいに見られていた)なので、外見的には「取締役営業部長」として有る程度通用はするのだが、話の内容がそれに相応しないと信用されないため話には気をつけていたが、早稲田中学時代に必修科目として「政治経済」を学んでた事が大いに役にったったのです。
その一方で、ゴルフの話題も良く出るため、話を合わせているうちにいろいろと覚えてしまったのですが、実際にゴルフ場でプレイをした事はありません。
ゴルフに関しては、イギリスでは「紳士のスポーツ」と言われているのだが、私に言わせれば、「日本のゴルフは貧士のスポーツ」としか感じられないのだが・・・・。
そして、この会社に入った頃に「家を出なければならない」と言う状況に追い込まれてしまったのです。
父にすれば私に店を継いで欲しかったようなのだが、私が態度をハッキリとしなかったことから、上の姉(当時他で店を開いていたのだが、場所が悪く余り売れていなかった)が横合いから「それなら私がやる!」と言い出し、それについては「お前がいると目障りだ!」と言う理由で私が家を出ることになったのです。
アパート暮らしをするつもりがなかった私は、ダメモトで「家を買う頭金として300万出してくれ」と言ったところ、「わかった」とあっさり了解されたのです。
それからは仕事の合間に土地探しをしたのだが、当時でも300万の頭金で家を建てるのはかなり難しいことで、やっとの思いで今の場所を見つけたのですが、このことに関しては「幸運に恵まれた」と言っても良いと思います。
土地に関しては、当初会社に話しが持ち込まれたのだが、地型や面積が会社の希望と一致せず、会社が買取に躊躇していたため「私が買います」と言う言い分が通り、通常より安い価格で手に入れることが出来、更に幸運なことには、建築契約締結半年後(建築工事は始まっていたが)に「第一次石油ショック」に襲われたのです。
後半年遅ければ「建築価格の大幅なアップ」は避けられず、「家を建てられない」と言う事態にも成りかねなかったのですから「運がよかった」と思いますが、石油ショックの1年後には更なる不運が待っていたのです。
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桜田門にある「警視庁の別荘?」に招待される

2010-01-29 | 日記
「警視庁の別荘?」とは、要するに「容疑者を取り調べる取調室」の事で、全国紙一面で報じられた詐欺事件の「参考人(被疑者)」として呼び出されたのです。
普通の事件ではこんなところに呼び出される事などないのだが、「重大事件」として扱われた結果こうなったのですが、私以外の社員はかなり厳しい取調べをされたらしいのだが、私の場合はかなり「別格扱い」をしてくれたようです。
「別格扱い」をされた理由は、倒産した会社から「建売住宅」を買って被害にあったお客さんの中で、私が担当したお客さんだけが「会社にだまされた」とは言うのだが、誰も「私にだまされた」とは言わず、他の社員が売ったお客さんのように「担当社員と会社にだまされた」とは言わなかったのだそうです。
確かに私の販売の仕方は他の社員とは違い、「無理にハンコを押させる」と言うようなことは一切せず、「一度家に帰って家族と相談してから・・・・」と言う場合、通常は帰さないようにして強引に契約に結びつける事が多いのだが、私の場合は帰してしまうのです。
一度帰してしまうと再び訪れるお客は半分くらいになってしまうのだが、再び訪れてくれるお客さんは「家族を連れて」と言うことになり、基本的には「家族全員、納得の上で契約」と言うことになるのです。
このため営業成績は悪く「お前なんか辞めちまえ!」とよく言われたものですが、この当時、「サラリーマンの年収は100万円以下」だった時代に、悪どく稼ぐ連中の中には「月に500万円以上」も稼く奴もおり、「月に30万から50万」では馬鹿にされるのは仕方のないことだったのですが、これが後になって幸いしたのです。
そして、この事件を含めた20代後半は、様々な「普通の人では経験できないようなこと」を経験できたのです。
この経験をした事により、少々の事では驚かなくなり、世の中の裏もわかるようになったのです。
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こんな物が新聞に載っていた

2010-01-28 | 日記
画像を見ればわかるように、戦後の郵便貯金の預け入れ限度額の推移を表しているのだが、1952年と言う年は、私が小学校4年生(10歳)の時で、妹にお金を盗まれないように郵便貯金を始めた年でも有るのです。
この年の預け入れ限度額は「僅か10万円」で、この頃は「百万長者」と言う言葉さえあったのです。
今では「億万長者」の世の中ですから、「桁が二つ違う」と言う事で、半世紀チョットでこれほどの違いが出来てしまったのですが、この画像を使った意味は別のところに有るのですが、それは26日の「中学時代で書き忘れていたこと」の中で「書くことに少々躊躇ってしまうのだが・・・・」と言う部分に関連しているのです。
新聞でこの表を見た時思わず「俺に書けって言うの?」と感じたのです。
「書くことに少々躊躇う事」とは、私が6年生になり、12歳の誕生日を迎えた日の事なのだが、それまで誕生日を祝ってもらった事などなかったのに、学校から帰ると母が「勉強を頑張っているからプレゼントだよ!」と言って手渡されたのが、私が欲しくて買おうとしていた「高級万年筆(新聞で大きく宣伝していたのだが)」だったのですが、箱を開けて見た瞬間、何となく「嫌な予感」がしたのです。
実はこの1ヶ月ほど前に、どうしても欲しくて郵便局でお金を下ろして駅前の文房具店に買いに行っていたのだが、生憎私が欲しかった色の万年筆は売り切れていて「1ヶ月くらいしないと入荷しないかも」言われていたのです。
この万年筆の値段は「500円」で、今で言えば「1万円」くらいだと思うのだが、この500円を、郵便局に預け直さず「本の間に挟んでおいた」ことが事の発端なのですが・・・・。
「嫌な予感」がしてあわてて本を開くと「お金がナイ!」のです。
思わず「ヤラレタ!」とは思ったのだが、何の証拠も無しに文句も言えず、そのまま泣き寝入りをしていたのですが、それから50年も経って真相がわかったのです。
その真相とは、何かの話から姉たちが真相を話してくれたのだが、私が本の間に挟んでいたお金を妹が見つけて盗もうとしたのだが、折悪しく母と姉たちに見つかり「母が取り上げた」のだそうだが、このとき母は「きっとこのお金の事は忘れているよ」と言って、そのお金で私が欲しがっていた万年筆を買うように姉たちに言いつけたのだそうです。
このとき下の姉は高校生になっており、何軒か探して見つからなかったのだが、やっとある大学の近くの文房具店で見つけたのだそうです。
結局、誕生日のプレゼントは後にも先にもこのときだけで「自分のお金で自分のプレゼントを買う」と言う、何とも馬鹿げた話なのですですが、こんな事は「日常茶飯事」と言ってよく、妹には本当に泣かされましたが、その下の弟にも泣かされましたが、幾ら書いてもキリがないのでこの辺で辞めにします。


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初めての会社勤め

2010-01-27 | 日記
私が始めてまともに働き出したのは26歳になる少し前のことで、自動車部品を作る従業員300人余りの会社で、給料は2万5千円だったのですが、入社して10日ほどで26歳になったのだが、26歳になった日、無謀にも私は「千円の賃上げ」を会社に求めて2万6千円にしてもらったのです。
今ではとても考えられない事だが、当時は「個人的に直談判をして給料の引き上げをしてもらう」と言うことも出来たのです。
しかしこの会社、一般的に言うところの「同族会社」で、社長の甥っ子が品質管理課長をしていたのだが、この甥っ子の不始末により親会社を怒らせ、僅か半年後に倒産してしまったのです。
このあと職探しをしたのだがなかなか見つからづ、たまたま見つけた不動産会社に採用されたのだが、この不動産会社、「ウソとハッタリで固められた、とんでもない会社」だったのです。
どれほどとんでもないかと言うと、会社の名前に有名デパートの名前つけ、会社のマークもそっくりで、お客さんに聞かれたら「同じ系列の会社です」と答えているのですが、実際には何の関係も無なく、ビルのワンフロアーを三つに分けて、それぞれを別の支店にしていたのだが、お客に聞かれると「あちらは営業2課で、その隣が営業3課です」と説明しているのです。
有名デパート側も一度告訴をしたらしいのだが、「イメージダウン」を恐れて和解で済ませてそうなのですが、知らないお客は皆だまされてしまうのです。
この会社も、余りのひどさに3ヶ月で逃げ出し(3ヶ月目の給料は放棄して)、その後別の不動産会社で働く事になったのだが、この会社も「取込み詐欺」の被害に合い、1年半後に突然倒産してしまうのです。
しかし、この会社の倒産が「計画倒産」の疑いをかけられ、全国紙一面三段抜きで、詐欺事件として報道されてしまうのですが、この会社で働いた事と、会社の倒産が詐欺事件に発展した事により「普通の人ではとても経験出来ないような経験」をすることになるのです。
この件については次回に書くつもりです。
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中学時代で書き忘れていた事

2010-01-26 | 日記
母が子供嫌いだと言うことはすでに書いているのだが、食事の支度をすることも嫌いで、私が学校に通っていた3年半の間、タダの一度も朝起きて食事の支度をしてくれたことが無いのです。
私が起きるのは6時半ごろで、7時15分ごろに家を出るのだが、その時間になっても起きてきた事がなく、毎日前日の残り物を食べて学校に行っていたのです。
8人家族だったので、何時も何がしかの残り物があったのだが、寒い冬などは暖める時間も無く、残り物の冷たいご飯に冷たい味噌汁をかけて済ませたことも珍しいことではなかったのですが、これが影響したのでしょうか、6年生の時に11センチも伸びた身長が、中学に入ると、1年生の時には3センチになり、2年生の時には1センチになり、3年生の時には殆ど伸びが止まってしまったのです。
小学生の時は、給食のときに出るアメリカからの援助物資である「脱脂粉乳(ピンクやブルーの色が付いていて不味いのだが)」をお代わりして飲んでいた事も有って、毎年背の高さ順に並ぶ順番が後ろになっていったのだが、中学に入ってからは前になるようになってしまったのです。
昼食は、「学食」と言うものはなく、学校内に有る売店に、朝調理パンを注文しておいて食べるのですが、十分な昼食代を貰えず、何時も十分に食べる事も出来なかったのです。
そして、もっと困った問題が有ったのです。
それは、授業料は毎月きちんと納められていたのですが、それ以外の、教材費などの臨時に納めるお金を貰う事が出来なかったのですが、これ以外にも、体育系と文科系の部活動に参加することが義務ずけられていたのだが、この「部費」さえももらえなかったのです。
学校からは正式な書面が配布されるのだが、その書面を母に渡しても、何時も返ってくる言葉は「お父さんがいいと言ったら」と言うばかりで、納入期限が来ても貰う事が出来なかったのですが、収めないわけにも行かず「奥の手」を使うしかなかったのですが、その「奥の手」とは、毎日のように店番をさせられていたので、店番をしている間に「こっそり店のお金をくすねる」と言う方法で、姉たち二人も良くやっていたそうなのだが、姉たちは「小遣いの足し」にしていたのです。
さて、母が何時も口にする「お父さんがいいと言ったら」と言う言葉だが、この言葉の意味がわかったのは学校を辞めた後になってからの事だったのです。
私が中学に入った直後だったと思うのだが、有る日母が私に「お母さんとお父さんはもう夫婦じゃないんだよ」と言っていた事があったのだが、その時は全く意味がわからず、何となく聞き流してしまったのだが、これは「もう夫婦じゃないのだから、私に言っても知らないよ」と言う意味で、「お金が欲しければ直接お父さんから貰え」と言うことだったのです。
だから私の朝の食事の支度も知らん顔が出来たのでしょう。
ここでまた一つ思い出したことが有るのだが、その内容は余りにも常識はずれな事なので書くことは少々躊躇ってしまうのだが・・・・。
母が食事の支度をするのが嫌いでは、一体誰が食事の支度をしていたかと言うと、上の姉が中学生になるまでは「女中さん(今で言うところの、お手伝いさん)」がいて食事の支度をしていたのだが、姉たちは高校に入る頃には食事の支度をさせられていたのです。
今の時代の若いお嫁さんならそれ程珍しい事ではないかもしれないが、「明治時代に生まれた女」としてはとても信じられないでしょうが、これが現実の姿で、正に「事実は小説より奇なり」なのです。
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プータロー時代の話

2010-01-25 | 日記
学校を辞めたときには16歳になっており、それから25歳になる頃までの9年間は正に「プータロー」と同じような生活をしていたのですが、正確にはプータローとは言えないかもしれません。
私の場合、正確には「無職」ではなかったのだが、正式な雇用形態で働いていたわけではなく、私の家の貸し店舗で商売をしていた、八百屋、魚屋、パン屋、などの店を手伝って小遣いをもらい、そのお金を貯めてスキーに行っていたのです。
時には園芸農家だった父の実家で働いた事も有り、この時期はある意味で「貴重な人生経験をした」とも言えるかもしれませんが、今だったら「路上生活者」になっていたかもしれないのですが、今考えれば、当時は有る意味で「のどかな時代」であったとも言えるのではないでしょうか。
私がきちんとした会社で働くようになったのは26歳の時で、この頃は未だ「契約社員、パート」などと言うものはなく、正社員として採用してくれる会社はいくらでもあったのですから。
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十で神童十五で才子、二十歳過ぎればタダの人 ⑤

2010-01-24 | 日記
何とか高校に進むことは出来たものの、この頃には「自分の進みたい道に進むことは不可能」と言うことが現実的になり、最早勉強をする意欲もなくなってしまったのです。
そして迎えた2学期の中間試験。
勉強する意欲が全く無いのだから学校へ行く気にもならず、言わば「不登校」の状態になり、「それなら辞めてしまえ!」と言う父の一言で登校拒否になり、最終的には中退してしまったのです。
登校拒否を始めた当初は、担任の先生や仲の良かった同級生も家に来て登校を促してはくれたのだが、世間体ばかり気にする父や母の態度に諦めたようで、半月もすると誰も来なくなりました。
学校を辞めてからしばらくの間は「引きこもり」状態になり、18歳になる頃まで何をしていたのか殆ど記憶が無いのだが、唯一覚えているのは「殆ど毎日のように死ぬ事を考えていた」と言うことです。
18になった頃から少しずつ死ぬ事を考える事が減り、近くに住む幼馴染と休日に山登りをするようになり、これがきっかけでスキーを始める事になるのだが、スキーを始める事によってまた大きな転機が訪れるのです。
ある出版社の主催するスキースクールで泊まった民宿の雰囲気が良く、それ以後11年にわたり通い続けたのだが、この民宿は私にとって「第二の故郷」と言っても良く、殆どか常連客で占められていた事も有り、ここで数多くの「心の友」に出会うことが出来たのです。
何人もの素敵な女の子とに出会いもあったのだが、私自身が「プータロー」では如何ともしがたく、全て私の方から身を引くしかなかったのが残念で堪りませんでした。
この頃のスキーはまだ庶民の物とは言い難く、ある程度余裕のある人がするものだったのですが、私は1年間必死でお金を貯めて行っていたので、女の子と付き合う余裕など無かったのです。
当時のスキーの道具は、最も安い物でも「3点セットで19,800円」で、「大卒サラリーマンの1か月分の給料」と同じくらいだったのですから仕方ありません。
それに、民宿の宿泊料も「1泊5,000円位」していたのですから今と大して変わりがなく、給与水準から考えれば「今の10倍」と言っても良いでしょう。
18から24くらいまではこんな調子で過ぎてゆき、25くらいになってやっとまともな生活をしようと言う気になったのだが、近くに住む人の紹介で受けた就職の面接では見事に断られてしまいました。
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十で神童十五で才子、二十歳過ぎればタダの人 ④

2010-01-24 | 日記
前回書いたように、入学試験は好成績で入っては見たものの、勉強する時間も無く成績が下がり続けていった中で、生物と物理だけは異彩を放っていたのです。
私の得意は「応用」で、最も苦手な事は「丸暗記」なのですから、応用の利く生物、物理は「得意中の得意」なのだが、化学、歴史、漢文、幾何は「苦手中の苦手」で、何時も落第点だったのです。
それでも落第もせず高校に進めたのは、生物、物理で異彩を放っていたからなのです。
どれほどの異彩だったかと言うと、化学、歴史、漢文、幾何などは殆ど「学年(360人)の最下位グループ」だったのに対して、生物は「学年トップ」、物理も「トップグループ」だったのです。
そして、「問題を作った先生でも満点は取れない」と言われた生物の試験で満点を貰ったり、物理の試験では「100点満点の試験で120点を貰う」など、前代未聞の事件を起こしたこともあるのです。
それでは「問題を作った先生でも満点は取れない」と言う試験とは、「地球上に現在しないある植物の、存在しない理由を書け」と言うもので、普段の授業でも取り上げられる事はなく、いかに推理(推測)を働かせるかがポイントで、正しい「存在しない理由」など誰にもわからない事なのですから、正解(満点)などありえないのです。
次に物理の試験であるが、物理を担当する先生は私の担任でもあったのだが、この先生の授業は実にユニークな授業で、突然問題を出すのだが、「わかった人は手を上げて」と言いながら、手を上げた人を指名する事はなく、手を上げていない人を指名するのです。
手を上げていないのだからわかるはず無いのを承知で指名し「わかりません」と言う答えに「どこがわからない?」と聞き、答える事が出来ないと「問題を暗証して見ろ」と追求し、「出来ません」と言うと「それではわかるわけは無い」と言い、答えが出るまで徹底的に追求するのですが、ウッカリそれを面白がっている生徒がいるとその生徒も指名されるので、油断も隙も無いのです。
そのため、初期の頃は指名を逃れようと「わからないのに手を上げる人」もいたが、先生はそれを見破って指名をするため、直ぐに指名逃れはしなくなりました。
採点方法も変わっており、答えが違っていても、問題の解き方が間違っていなければ其れなりの点を付け、「答えが正しいか」より「問題を正しく理解して解いているか」と言う事の方を重視していたのです。
私が120点を貰った時が正にこれで、1問20点の問題5問で100点だったのだが、そのうち4問しか出来ていなかったので、普通の採点基準であれば「80点」だったのですが、残りの1問と、別のもう1問の解き方を先生が大きく評価してくれたのです。
この2つの問題、どうしても公式が思い出せ無かったのだが、あるやり方で解けることがわかり解き始めては見たものの、残念ながら時間切れになリそのまま提出したのだが、その時の私の様子を先生は見ていたのです。
そして、この先生との出会いも今の私に大きな影響を及ぼしているのです。
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十で神童十五で才子、二十歳過ぎればタダの人 ③

2010-01-23 | 日記
ついに早稲田中学に合格したのだが、結果から言えば「私は早稲田中学に行くべきではなかった」としか言いようが無いでしょう。
私は早稲田中学に合格した事で、将来は大学に進み「科学者」になりたいと思うようになったのだが、父にすれば「世間に自慢する種」としか考えていないのだから、「適当に勉強して大学に入ってくれればいい」としか考えていなかったのです。
しかし、授業内容は毎日4時間も5時間も家で勉強(予習・復習)しなくては付いてゆく事が難しいほどレベルが高いのに、私はと言うと、学校から帰れば直ぐに「店番をしろ」と言われ、夕飯まで店番をさせられ、夕食後は「風呂を沸かせ」と風呂焚き(当時は薪で沸かしていたため、沸くまで1時間くらいそばを離れることが出来なかった)をさせられ、やっと勉強を始める事が出来るようになるのは10時頃になり、11時頃になると「何時まで電気を点けているんだ!」と怒られる始末で、見る間に成績は落ちて行ったのです。
ここで少し早稲田中学の授業レベルについて書いてみよう。
別れた私の妻に言わせれば「学校なんてどこも同じような物」と思われているのだが、現実は大違いで「月とスッポン」ほど違うのです。
通常であれば4大教科として「理科、数学、国語、社会」と分けられているのだが、早稲田中学では、理科は「物理、化学、生物」に、数学は「幾何、代数」に、国語は「漢文、古文、現代文」、社会は「政治経済、地理、歴史(中学は日本史で、高校は西洋史)」と言うように、11もの教科に細分化され、いずれも「必修科目」なのですが、更に驚く事は、「高校3年までの6年分の授業を5年で消化する」と言うことなのです。
タダでさえ難しい6年分の授業を5年で消化するなど、生半可な覚悟ではとてもついて行く事など出来ないのです。
そして、残りの1年(高校3年)は殆ど受験勉強に使われ、毎週のように「模擬試験」をするのだそうです。
更に、今はどうか知らないが、当時は、1学期の中ごろに「中間試験(4日くらいかかったと思うが)」があり、試験が終わると「試験休み(2日くらい?)」が有り、学期末には「期末試験(これも4日くらい)」があるのだが、この期末試験、各学期の休みが始まる1週間から10日位前には終わり、それから夏・冬・春の休みが始まるまで「試験休み」となり、授業は無いのです。
秋には「早稲田祭」に合わせて「体育祭と文化祭」が有り、およそ1週間は授業もなく、年が明けると「大学の受験会場」に使われるために2日間は休みになるなど、普通の学校に比べて休みも非常に多いのです。
「休みが多い」と言う事は「授業時間が少ない」と言うことでも有り、家で勉強が出来ない私にとっては「地獄」と言っても良かったのです。
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