召集令状が来て、入営・出征する兵士と家族・友人・親戚一同の模様・・
召集を受け、指定された部隊に向かう兵士たちと、都市部から空襲の比較的少ない
地方へ疎開する人々が乗った列車の情景をイメージしたもの。
強制抑留された方々が収容されたラーゲリ(強制収容所)での食事風景を
体験者の証言、絵画をもとにイメージしたもの。極寒の地で過酷な労働を課され
ほんの僅かな食料を分け合う状況の中、母国日本へ帰る日を待ちわびていました。
一年目の冬にはソ連国内の農作物の不作と大寒波などで多くの人が亡くなりました。
ピョンヤン(平壌)からの引き揚げ
小林千登勢(女優)昭和12年朝鮮京城(現ソウル)生まれの証言
北朝鮮のピヨンヤンで終戦を迎えた私は、その時小学校3年生でした。
家族とともに1年間は動けず、売り食いや私自身、新聞売り子をするような、
つらい生活を送り、そのあと38度線を越える恐怖と死の脱出行を体験しました。
釜山から乗船して博多に上陸、内地に帰ってきましたがそのあと転々とした1年。
ようやく、まがりなりにも親子揃ってのアパート生活ができるようになったのは、
昭和23年11月のことでした。私が引揚者であること・ピヨンヤンでのこと、
1ヶ月にわたる脱出行、帰国直後の生活と、それは私にとって遠い昔の、
本当に悪夢のような出来事で、触れたくない、語りたくないことなのでした。