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武則天の謎

2023-03-12 22:07:31 | 日記
前回のブログで少しばかり武則天のことを書いた。今回は中国史上でこの唯一無二の女帝に関し述べてみたい。そしてかなり憶測を働かせた人物像になってしまうことを予め申し上げておく。それはこの画像をご覧になれば、なんとなく予想できるかもしれない。現在の中華人民共和国の河南省洛陽市にある竜門石窟に彫られた巨大な仏像、実はこれ、武則天その人をモデルにしたのだという説が濃厚だ。

武則天の評価は兎にも角にも酷いものが多い。中国3大悪女の1人としてその悪評もズバ抜けており、それは彼女が崩御して以降の政権には有難味もあったようだ。次代の為政者からすれば、あんな滅茶苦茶な時代に比べれば今は随分と良くなったではないか、という言い訳が成り立つわけである。たとえば日本で例をあげるなら、生類憐れみの令を天下の悪法扱いにされてしまった江戸幕府第5代将軍徳川綱吉や、日本3大悪女のレッテルを貼られた北条政子と日野富子と淀殿あたりは、その死後に長所よりも短所ばかりが強調されてきた。ただこうした人々も現代の格段に情報量が増えた世界では、賛否両論が渦巻き、昔ほど悪人扱いされることは少なくなっている。

しかしながら武則天の場合、その業績がやや見直されてはいても、人間性に対する誤解はまだまだ解けていないようだ。確かに近年、歴史ドラマの主役として描かれてもいるが、どうもそこでも3大悪女のイメージは払拭できていない。むしろ悪女のキャラクターが物語を盛り上げる仕掛けとして効果的に作用する印象さえ受けてしまうほどだ。また異常に嫉妬深く、ライバルたちを残酷に葬ったとか、密告を奨励して拷問の道具の進歩に寄与したとか、キワモノ的なエピソードが社会全般に浸透してしまい、人々の日常生活の場でさえ、悪い人間の見本として古くから語り継がれてきた。

そしてこれは中国が王朝交代を契機に、新しい王朝が旧い王朝の歴史を正史として記録する際、罵倒さえ含んだ低評価になってしまうこともその一因だが、やはりそれ以上に儒教の影響が非常に根深い。つまり男尊女卑の観点から、女性であるが故に必要以上に武則天は貶められている。つまり、女性の皇帝の誕生という事実が理解し難いのではないか。ましてや、その女性が優れた為政者であれば、なおのことその功績を認めるわけにはいかない。こういうことである。

ただ武則天の場合、女性蔑視からくる誤解以上に謎も多い。特にその治世において、農民の反乱が殆ど無かったにもかかわらず、善政であったことが強調されていない。女性の独裁者が国家を統治したから、結局は失敗したという言い草だ。無論これは唐の滅亡後の次の王朝、つまり宋が唐の歴史を記録したことにもよるし、武則天その人以降は、中国大陸を頂点で治めた女性指導者は清の西太后のみで、その意味では武則天を厳しく批判したことが、女性が国のトップになる事態を回避させたのかもしれない。そして西太后が皇帝まで昇り詰めていないことを考えると、武則天は文字通り驚天動地な存在だ。

ではここから武則天の半生を少し駆け足で辿ってみたい。まずその出自は裕福な商家であり、幼少期は恵まれた環境で育っている。また父親が大商人の為、家庭教育で視野がかなり広がった可能性もあり、ひよっとすると少女時代に、彼女自身が将来は世を動かす予感を得ていたかもしれない。だが父親の死で人生は一変する。不遇な境遇へと追いやられてしまうのだ。親族内で異母兄や従兄弟からの圧迫が厳しくなり、王朝の後宮に入れられてしまう。そして皇帝太宗の側室になるのだが、太宗の崩御に伴い出家する。

ところが武則天の生涯は波瀾万丈で、程なくして還俗することになる。それは第3代皇帝高宗の后妃にされる為であった。その後、暫くして武則天は男子を出産し皇后となるのだが、唐はこの高宗が統治した時代に内政では大粛清が始まり、外政では帝国領が最大版図に広がる。この経緯に関し定説になっているのは、武則天が病弱で温和な皇帝を尻に敷き操ったというものだ。しかしこの見方は、武則天の悪評に尤もらしく準じている。それゆえ真実は本当のところ違っていたのではないか。

とりあえず悪評を無視した別の見方をすれば、この皇帝と皇后は二人三脚で政権運営をしていたはずだ。しかも太宗が皇帝だった時代、皇太子と皇帝の側室という間柄であった頃、当時の武則天が皇帝とは疎遠の側室だった事情も加味すると、既に相思相愛だった可能性さえある。また2人は夫婦の絆も強く、皇后が病弱な皇帝を支えつつ同志のように協調して、かなり真面目に政治をやろうとしたのではないか。そう考えると約300年振りに中国大陸を統一した隋が30年も経ずして唐によって滅ぼされた史実や、その隋の第2代皇帝の煬帝が重税で人民を搾取し、大規模な土木工事を敢行したり、海外侵攻を重ねて朝鮮半島の高句麗に3度も遠征したあげく、大失敗に終わった愚策を反面教師にしていたと思われる。

そして唐が高宗の皇帝時代に最大版図を達成できたのは、露骨な対外侵略とは違う、ある歴史的事象を参考にしたせいかもしれない。それはほぼ同時期にアラビア半島からイスラム勢力が、西アジアや北アフリカに至るまでの領域で急速に拡大していた事実だ。この津波のような流れは、イスラム教の始祖ムハンマドの死後に起きる。しかも侵略戦争で領土が広がったのではなく、各地でイスラム教徒が増え続けたことが原因だ。その結果として広大なイスラム圏が現出している。その媒介になったのはイスラム商人であり、彼らは殆ど布教をしていない。商業活動において訪れた場所で正しい情報を伝えていっただけである。神の前では、国も民族も人種も関係なく皆んな平等であり、私たちが暮らしている社会は異教徒も共存できるし、あなたたちが暮らしている社会よりも負担する税がずっと軽い。だから家族も大切にできるし健康に暮らせると。これが決め手になった。つまりイスラム世界における社会的な福利厚生の充実を知らせたに過ぎない。

ムハンマドの後継者たちが構築した国家は、唐では大食と呼ばれていた。そして善政を敷いてその実態を周辺から伝え、ほぼ平和裡に影響範囲が広がり領土も増えていくこのイスラム方式を、高宗と武則天は交易を介して知っていたのではないか。つまり積極的に軍事介入をしない方針だ。実際、高句麗や突厥の滅亡は唐の侵攻よりも国内の内乱が破滅因子であったし、この時期の極東アジアで日本が百済の復興勢力を支援し、唐と新羅の連合軍と戦禍を交えた白村江の戦いでも、高宗に野望があった形跡はなく、日本の敗戦後も遣唐使は中断せず、ましてや唐が日本列島を侵略することもなかった。従来通りに交易を続けたのだから、唐は巨大帝国でありながら勝利に奢ってはいない。これは全方位的にそうした傾向があり、支配下に入った異民族の文化や宗教を尊重し、監督下における自治権も認めている。

また小さな島国の日本が、中国大陸では倭という蔑称に近い国号で呼ばれていたのが、日本という国号に改められたのは、武則天が女帝時代にそれを正式に認めたからだ。そして大粛清も支配層が対象であり、被支配層の人民が大虐殺されたわけではない。今の日本社会に当て嵌めて考えるなら、桁違いに高所得の国会議員や官僚を大量解雇し、極端な減税を実施する政策だと考えれば分かり易い。悪評というベールで包み隠されている為、武則天の人間性の本質は中々見えてこないのだが、弱者への同情心に篤かったであろうことは想像できる。これは仏の慈悲と言い換えても良い。女帝時代に仏教における殺生戒の戒律や、純粋な動物愛護の精神から、殺生禁断の法令を発していることからもそれは明らかだ。

悪評が多いせいで、畜類を殺さず漁猟も禁じた殺生禁断の法令はあまり知られていないが、それ以外にも、皇帝の高宗の治世において、親の喪に服す期間に際し、従来は父親の場合が3年で母親は1年だったのが、父母を亡くしたら同等に3年を喪に服す期間として改められた。これは現代の民主主義社会とも殆ど違和感がないほどに男女同権を指向している。こうした内実を知ると、やはり武則天は高宗を自分勝手に利用したのではなく、むしろ2人は意気投合して改革を実行していたと思われる。つまり同じビジョンを共有できていた。そしてそれは儒教よりも仏教に傾倒した世界観である。

武則天が歩んだ道は、前進してもすぐ打つかる障壁だらけであった。要は女性でありながら類稀な大器ゆえに、ひたすら出る杭になる寸前に回りから叩かれ続けてきたようなものだ。父の死から親族内で疎まれ、宮廷でも太宗皇帝の側室の序列が低かったのは、男性よりも女性の権利が制限された社会で、そうした男尊女卑の概念をひっくり返すようなオーラが彼女には漂っていたからではないか。それは不条理なシステムに組み込まれていても、秩序が保障され現状維持を望む人々が大多数の環境では、当然のこと煙たがられ異端視されてしまう。

そして恐らく高宗は、そんな武則天の最大の理解者であったように思える。なぜなら彼もまた不条理なシステムに閉じ込められていたからだ。実は高宗は自ら望んで皇帝になったわけではない。皇位継承を目的とした権力抗争に巻き込まれた挙句、好戦的で支配欲旺盛な実の兄たちを倒し即位するに至った。この資質も性格も権力者に不向きな皇太子が唐帝国の頂点に立つシナリオを演出したのは、高宗の伯父の長孫無忌である。長孫無忌は隋の滅亡や唐の勃興に際し多大な功績を積み重ねた文武に秀でた人物で、初代皇帝の時代から信任の厚い重臣であった。それは高宗の父の太宗の皇帝時代も続き、やがて彼の妹は皇后となり高宗を産む。そして太宗の臨終において、長孫無忌は唐帝国の行末を高宗の後見人として託されており、外戚ではあっても、唐帝国の屋台骨を組んで支え続けた超大物だ。それゆえ、第3代皇帝の高宗の運命はこの長孫無忌に握られていた。

結局、高宗は長孫無忌にとっては、操り人形であった。巨大帝国の皇帝も謂わば籠の中の鳥と同じで、彼の心には孤独や疎外感、それに虚無感や諦念が棲みついていたはずである。それを象徴するように高宗は政務を臣下に任せることが多かったらしい。多分、その政策立案から決定までを牛耳ったのは長孫無忌であろう。そして唐帝国のグランドデザインを描いた中心人物は、紛れもなくこの長孫無忌であり、その概要は儒教倫理が通底した律令制による法整備で国家を運営することである。

長孫無忌は隋を倒す反乱軍を指揮した勇猛な武人だが、頭脳も明晰で隋の滅亡後に建国する唐の国家システムを用意周到に計画していた。彼が編纂を監修し651年に制定された永徽律令だが、日本の大宝律令などは殆どこれの借り物である。つまり唐の律令制は中国大陸から周辺諸国にも強い影響を与えていたのだ。ただし、先に述べたアラビア半島からイスラム教が広がっていった形とは違い、国家間の公式外交で制度設計を唐から輸入する形である。日本では国策としてこの役目を担ったのは遣唐使であった。律令制そのものの起源は非常に古く、それこそ儒教が古代社会の小国家レベルの共同体に根付きだした頃から中国大陸には存在していた。しかしこの唐帝国で成立した律令制は、紀元前の秦や漢は言うに及ばす、唐に滅ぼされた隋も導入していたその古典的な制度を、相当にパワーアップさせて緻密に明文化したものである。この為、古代ではあっても法が行き渡る範囲において、政府が国民を強固に管理できた。

前回のブログで貧窮問答歌を取り上げたが、あの民衆が重税に苦しむ過酷な現実は、大宝律令が奈良時代の日本で、法律として機能している日常である。そして作者の山上憶良は遣唐使として唐に渡航し帰国後に、貧窮問答歌を創作した。ここから推測できるのは、彼が現地で見た唐の社会の方が、日本の社会よりも律令制が厳しくなかったということである。さらに当時の唐は、国号も周に変わっており、女帝の武則天による武周革命が起きていた頃で、あの長孫無忌も皇帝だった高宗も既に他界していた。

ここで長孫無忌に話を戻す。彼は王や皇帝といった国家の頂点に君臨するタイプではなかったが、王や皇帝を制御し操縦する術、つまり自らが選び望んだ人物を王座に就けるキングメーカーとしての才覚に優れていた。そして古今東西の歴史において、キングメーカーのランキングがあったとすれば余裕でベスト5にランクインするほどの傑物である。ところが彼のビジョンは高宗と武則天とは残念ながら相入れないものだ。

長孫無忌は唐の律令制の構築に最大限の努力を注いだが、それだけではなく国家宗教の導入にも大きな役割を果たした。そして唐が導入したのは、隋が導入した仏教ではなく道教である。ここから少し道教について説明しておきたい。実は道教は老荘思想の老子の教えから派生している。ただし老荘思想の原点からはかなり遊離してしまった。もはや別物である。なぜなら老子が唱えた無為自然の概念は儒教の礼や徳といった人為を、不自然な作為として否定していた。そして無為自然であることでこそ、世界はおさまるという楽天的な発想なのだ。それゆえ大昔から圧政で苦しむ民衆にとって、老子は親しみ易い伝説的な偉人であり、民間信仰の中心でもあった。しかもインド亜大陸から中国大陸へ仏教が伝来した時、仏教の始祖の釈迦の教えは、民衆レベルでは老荘思想と心に響くようにして共有できた。

ところが長孫無忌は老子の教えよりも、民間信仰で崇拝の対象と化した老子その人のオーラを活用したのだ。それも唐帝国の初代皇帝が老子の子孫だと公言することによって。そしてこのアイディアはそもそも道教の成立をヒントにしている。それは道教の創始者が老子だという説だ。しかし道教の教義が祈祷の儀式や呪術や占術を伴い、現生利益も肯定した上で、信者の人々が支持した究極の理由は神仙思想であり、健康長寿という願望が、不老長寿や不老不死にまで至る目標になってしまうことである。しかも仏教や儒教とは異なり、神が存在する多神教の宗教であった。この辺りはインドのヒンズー教や日本の神道に近いともいえる。ただし仮に、紀元前6世紀頃を生きた老子が、彼の死後500年近い時が流れて生まれた道教という宗教を、しかも老子自身を神格化したその形態を知ったとしたら、不可解に感じて首を傾げたのではないか。

そして多分、このような宗教の政治利用に対し、高宗と武則天は懸念を示していたと思われる。それはこの2人の心に同じような空洞が存在し、そこを埋めれるのは救済装置であって、支配層が被支配層を洗脳する道具ではない。ところが長孫無忌には全くこれは理解不能であろう。その意味で彼は典型的な儒教圏の権力者であった。仏教だろうが道教だろうが、民衆に支持される国家宗教の礎には、儒教が根を張っていることが絶対的必要条件なのだ。しかし逆説的に考えると、それゆえに隋帝国は短命で終わってしまったのではないか。そもそも隋は戦乱の時代に仏教を弾圧し敵対する諸国家を仏教の復興をスローガンに薙ぎ倒し、民衆も味方につけて秦や漢以来の中国大陸統一を成し遂げた王朝である。

ここで儒教の創始者、孔子の言葉を思い出す。「下は上を敬い、上は下を慈しむ」という有名な文言だ。儒教の世界観では、社会の身分が固定されていることが大前提であり、従って人と人の関係性で上下尊卑が重んじられる。これは支配層にとっては実に都合が良い考え方だ。この為、中国大陸から朝鮮半島、日本列島や東南アジアその他諸々の儒教の影響が濃密に浸透した地域において、権威や権力を駆使する為政者は慢心に陥り易い。特にその慢心は「下は上を敬い」に取り憑かれ、「上は下を慈しむ」を見えなくさせる。隋の煬帝が仏教徒でありながら、暴政を極めたのも、この儒教のシステムに胡座をかいて、無際限に無辜の民から搾取を続けたからだ。

煬帝に関しては、隋の歴史を唐が書き記した為に悪評も凄まじいのだが、物的証拠が完璧な形で残ってしまった。それは空前絶後の巨大土木工事の末に完成した通済渠という大運河である。これは20世紀に宇宙飛行士が地球を眺望した時に、万里の長城を見失なってさえ、宇宙空間に浮かぶ地球に刻まれている線がはっきりと確認できた人工物だ。これでは煬帝が破格の暴君であった事実を覆しようがない。ただ武則天の場合、何度も述べたように悪評の真偽のほどは謎のままである。そして信憑性も怪しい。特に中国3大悪女の残酷なエピソードは紀元前の漢帝国の初代皇帝の皇后だった呂雉、つまり3大悪女の1人目のエピソードとほぼ同じか、似たような脚色と感じられるものが多いからだ。

高宗が唐の皇帝に就いてからの約10年は、長孫無忌の主導で歴史は動いた。大粛清では、高宗と皇位継承を争った実兄たち一族はほぼ全滅の憂き目を見る。しかし武則天が還俗し、皇帝の高宗の皇妃になった辺りから、このパワーバランスは崩れはじめる。恐らく高宗と武則天は長孫無忌の路線の軌道修正を図ろうとしたのではないか。端的に述べると「下は上を敬い、上は下を慈しむ」の「上は下を慈しむ」にも目を向けようという方向性である。そして皮肉にも、隋が滅ぼせなかった手強い高句麗が自滅に近い形で滅亡し、白村江の戦いで日本が敗北するのは、唐の政権内部で長孫無忌が失脚しはじめた頃と軌を一にしている。

稀代のキングメーカー長孫無忌も、彼の勢力の大粛清の中で、659年に流罪地で自殺しその生を終えた。それから20年以上の時が経過した後、683年に第3代皇帝の高宗は崩御した。彼の治世に唐帝国史上最大版図となった広大な領域は、それ以降さらに広がることはなかった。そして新しい皇帝として高宗と武則天の七男の中宗が即位するが上手くいかず1年を待たずして廃位すると、今度は八男の睿宗が即位するのだが、こちらも6年足らずで廃位し、武則天がとうとう自ら頂点に立つことになるのだ。中国史上初の女帝誕生である。

しかし皇帝の夫の死後に、能力不足でも息子2人を立てている辺り、武則天は儒教の世界観を優先しているように見受けられる。これでは儒教の女子教育における代表的な訓示「女は嫁に行く前は父親に従い、嫁に行くと夫に従い、夫が亡くなったら息子に従うこと」をそのまま実行したようなものだ。母親として当然のこと、息子に成功してほしいから即位を後押しした気持ちゆえであろうが、正直な話、こうしたエピソードを鑑みると、やはり極端な悪評の数々は、大袈裟な脚色や真っ赤な嘘が多かったのではないか。  

武周革命に関しても賛否両論はあったようだが、この時期に中国大陸で大きく社会が変化していたことは間違いない。実際、科挙を整備して出自を問わない人材登用をしたり、動物愛護の法令を出したり、外来宗教の流入を歓迎したりしたことは、少なからずでも硬直した儒教の社会通念に地殻変動を起こした可能性はあった。また先に述べた孔子の言葉「下は上を敬い、上は下を慈しむ」の中で、為政者が忘れがちな「上は下を慈しむ」に重点を置いて政治を行ったように思われる。そしてこの「上は下を慈しむ」は仏教の慈悲の精神とも相通じるものだ。この武則天をモデルにしたらしき仏像も、為政者は民を慈しむべきだと、今にも語りだしそうである。

武則天は何かと負のイメージで語られることの多い歴史上の代表的な人物だが、女性が男性よりも圧倒的に弱い立場の古代中国で女性が皇帝になってしまうことはまず有り得ないことである。それが現実になってしまったのは、恐怖で人を従わせるというような力関係ではなく、彼女の人間性に共感し、協力し応援してくれる人々の助けが無ければ土台無理なのではないだろうか。この最初で最後の女帝がその座を降りるのは、かつて廃帝にした息子の中宗への譲位であった。強靭な武則天も老いと病には勝てず81年の生涯を終えるのだが、彼女の墓は陵墓として、現在の中国の乾県の乾陵に建立されている。この陵墓も女帝の誕生と同様に史上唯一の存在であり、それは2人の皇帝が一緒に葬られているからだ。武則天ともう1人は夫であった高宗その人である。
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