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聖徳太子について

2019-12-05 18:28:10 | 日記
NHKのBS放送に「英雄たちの選択」という番組がある。歴史好きの人間にとっては、楽しめそうな内容が1時間という枠の中に詰め込まれており、再放送の回数も多い。最近偶々、聖徳太子を特集した回を視聴した。
 
聖徳太子は言わずと知れた、日本史では五本の指に入るのではないかと思われるほどの重要人物だ。そしてその行動がかなり誇張気味に伝説化された面も多く本当は実在しなかったのではないかという説さえもある。しかしながら私個人は実在説を信じたい。また歴史において、ある特定の個人が社会に大きな変化をもたらす要因になったという点では、日本史において稀有な存在であろう。つまり彼の前と後では、随分と世界が異なった印象を受けるからだ。
 
紀元6世紀の飛鳥時代を生きた聖徳太子は皇族でも蘇我氏の血の濃い人物だ。当時の蘇我氏は日本の国政を動かせる大きな勢力を有しており、天皇の補佐として執政を担う大臣の地位にあったが、後の摂関家藤原氏のように天皇家と血縁の親戚になり、朝廷さえをも掌中に収めたような形で権勢を誇示していたらしい。聖徳太子はそのような隆盛を誇る一族の中でも指導者としての資質を有し、推古天皇の摂政にも就いていたことを考えると、有能な政治家であったことはほぼ間違い無い。実際、内政においては冠位十二階や十七条の憲法を制定し、外政においては中国大陸へ遣隋使を派遣したりしている。
 
番組では、主に外交における聖徳太子の業績について描かれていた。特に隋帝国の皇帝への親書に書かれた内容に関し、従来の強気な日本外交というイメージではなく、硬軟を取り混ぜた巧みな文面であったという解釈は面白い。この親書で有名な一節は下記の文章になる。
 
日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
 
この文章のみ取り上げると、まず広大な中国大陸の隋の皇帝と小さな島国の日本の天皇を天子という言葉で対等に扱っている印象を受けてしまうのは当然だが、実は親書は長文であり、隋の皇帝に対する尊敬の念を伝えた文章もあった。それは海西の菩薩天子を拝むという部分であり、そこには仏法を興した海西の菩薩天子が隋の皇帝のことだと書かれているらしい。これは当時の東アジアの歴史的な情勢を客観的に把握していなければ書き記せない内容だ。隋は漢民族ではなく遊牧民の鮮卑族で中国大陸の北西から遠征し、群雄が割拠し分裂状態にあった中国大陸を数百年ぶりに統一した王朝だ。そして仏教を信仰していた民族であり、それまで仏教を弾圧していた北周という王朝を打倒して一気に版図を拡大し勃興した為、ある意味この菩薩天子を拝むという表現は、隋への最大級の賛辞であったかもしれない。
 
飛鳥時代の日本には、大陸からやって来た渡来人も多く、特に蘇我氏は渡来人のネットワークを駆使して海外の情報収集に熱心であったようだ。この為、蘇我氏と血族でもある聖徳太子も海外情勢を的確に掴んでいた。ただ彼が後にも先にも古今東西その他大勢の政治家と異質だったのは、仏教への真摯な傾倒の深さだろう。元来、中央アジアの遊牧民の仏教信仰というのは、小さな仏像をお守りのように携帯し、家内安全のような現世利益に近い。隋の中枢の権力者も仏教の知識は民衆レベルより充実していたにせよ、国家の思想統制に仏教を利用していたのだ。そしてこれは推古天皇や聖徳太子の背後で実質的に国家権力を掌握していた蘇我馬子も同様である。つまり隋の皇帝たる煬帝や、日本の大臣の蘇我馬子にとって、仏教は政治に都合よく使える道具に過ぎない。それにそもそも仏教の創始者の釈迦は、後世において自分自身が仏像になり信者から拝まれることなど望んではいなかったはずである。古代インドの仏教世界における仏像の出現は、多種多様な神々の姿を表現した古代ギリシャ彫刻の影響だと推測できる。つまり像を拝む習慣は、アレキサンダー大王の大東征たるアジア侵略によって豊穣なインド亜大陸に齎されたのだ。
 
仏教はイスラム教やキリスト教と同様に、民族や国家や人種の壁を越えた世界宗教と云える。そしてこの三つの宗教は三者三様ではあってもその根底には、人を超越した神や仏による弱き者、貧しき者の魂を救済するという共通点がある。だからこそ不条理や不平等や不公正が横行する人類史において、途切れることなくその命脈を保っているのだ。ところが皮肉なことに、歴史上の権力者の多くが栄華を築き極める為に、この正しい教えを狡知の限りを尽くして悪用してきたこともまた事実である。まず統治している民衆からの最大規模の支持が得られるのが利用価値としての大きな魅力だろう。そして権力者にとっては、実に身勝手な解釈ながら、現世のみならず来世においても栄華の保証を約束する安心感の役割を果たしてもいる。しかし聖徳太子の場合は事情が違っていたようだ。それは次の言葉がその全てを物語っている。
 
世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり。
 
この言葉は聖徳太子の肉声だ。彼の死後に妃が天寿国繍帳に織り込ませたもので、現実に絶望し理想を希求する想いが正直に込められている。政権の中枢で法整備や外交という難事業を担った聖徳太子だったが、晩年は政治の一線からは離れて仏典の研究に没頭していたらしい。特に仏教における慈悲の心を政治に生かす方法を模索していたように思える。それはこの晩年の時期に、現代でいう病院(療病院)や薬局(施薬院)そして社会福祉施設(悲田院)を設置していた事からも明らかだ。そして教育的側面からアプローチした三経義疏を作成している。ここでいう三経とは、法華経と勝鬘経と維摩経であり、この三つの仏典は読みやすく、文字が読めない民衆にも僧侶や文字が読める人々が話して聞かせれば、仏教への理解が十二分に深まる内容で、特に勝鬘経は女性が大乗仏教の教えを説いたものだ。そして宗教における民の救済を重視した考え方を身分を問わず広く啓蒙しようとした政治家は、日本では聖徳太子が最初である。つまり聖徳太子の前と後では、日本社会が歴史的に変化した印象を受けてしまうのはそのせいではないか。

古代から現代に至るまで日本の治世において、政府が社会福祉を重視する傾向に寄る時には、聖徳太子という理想像が少なからず影響を与えていたようにさえ思える。たとえば中世において、天災の被災者の心情に共感した鴨長明により随筆「方丈記」が書かれたことや、日本全国を行脚し「平家物語」を語る琵琶法師の声に民衆が心の底から耳を傾けることができたのは、民衆レベルでも仏教の無常観が根付いていたからであろう。また浄土真宗の開祖親鸞は夢の中で聖徳太子から啓示を受けた神秘的な経験を語り残している。つまり聖徳太子以降、私たち日本人の精神において、それ以前からあったアニミズムを含めた多神教の神道、先祖崇拝や身分制を肯定する儒教の社会通念では埋めれなかった空洞に、民族も国家も人種も関係無く全てを包み込んで癒す普遍的な光がさしたように思う。ここでもう一度、聖徳太子のこの言葉を繰り返したい。

世間は虚仮なり、唯仏のみ是真なり

これは核心をついた言葉だ。虚仮とは偽りであり、この世の物事は全てが仮だと言っている。そして仏の教えにこそ真実があると断言する。やはり潔いまでに達観した絶望感だ。そしてそれは政治に利用された仏教に対する落胆である。真に仏の教えに感化されていれば、戦争による侵略で支配地を増やしたり、国民を重税で搾り上げたりすることなど、為政者にはできないはずなのだ。そしてこれは聖徳太子が生きた時代だけではなく、現代を生きる私たちに向けての問いかけでもあるだろう。戦乱や搾取による暴政に歯止めをかけなければ、人類に未来はないということを、国家に限らず組織を動かす立場にある人々は肝に命ずるべきである。特に格差社会において暴利を貪っている人々は今こそ悔い改めるべき時が来ている。

かつて20世紀のイギリスにアーノルド・トインビーという賢明な歴史家が存在したが、彼は釈迦もイエスもムハンマドもつまるところ、正しく同じことを唱えていると語っている。それは物質的には質素な恵みの中にあって、最高の幸福感を見出そうという謙虚で前向きな姿勢だ。トインピー氏はローマクラブのインタビューを受けて1970年代にそのように答えているわけだが、ローマクラブは地球規模で資源や人口、軍備拡張、経済、環境破壊などを含めた人類の行く末を左右するほどの深刻で根源的問題に対処すべく設立されたシンクタンクである。現在も東西冷戦を終わらせて世界平和に貢献したミハイル・ゴルバチョフ氏や、故人では日本人で国連難民高等弁務官を務められた緒方貞子氏や、日本語の「もったいない」という言葉に感銘を受けたケニアの環境活動家でグリーン・ベルト運動でも有名なワンガリ・マータイ氏がその名を連ねている。恐らく聖徳太子が現代に生きていたとしたら、ローマクラブの会員になっていてもおかしくはないだろう。





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