三五郎の車中泊の旅

車中泊でしか分からない、
 歩かないと見付けられない、 
  今そこにある感動を逃したくない。
       

ちゃんとやれただろうか

2021年07月05日 | エッセイ
枯れて生きる。
生きて枯れる。
立派に枯れる為に盛んに生きる。
             (高見順)

今年の二月に母が逝って、はや五カ月が過ぎた。
正月にはまだ元気に見えたが、たった二カ月でこんなにも弱るものなのか。
心配掛けまいと気丈に振舞っていただけなのか。

日に日に食が細っていく母に、なんとか食べさせようと料理の勉強もした。
味付けを聞けば「うん、旨い。」と言ってくれた。
じゃもう少し食べようかと言えば「もういい。」と言う。
それでも「食べないと力がでんぞ」とスプーンを口元に運ぶ私に気を使ってか何口かは食べてくれた。
母のため?
自分が少しでも安心したいだけだったのではなかったのか。
病人に余計な気を使わせただけなのではなかったのか。

今になってなぜこんな話をするのかと言えば、先日お寺からの会報に「人はお迎えが近づくと、だんだん食べられなくなり、話をしなくなるのは、その人が死の準備をしているからです。」(玉置妙優)とあった。
もしかしたら私は間違った介護をしていたのかと考えさせられた。

葬儀の日、棺に収まった母を見ても不思議と涙が出なかった。
頬はこけて枯れているように見えた。
一生懸命に、誰に恥じることもなく立派に生きたと思う。

私は最後の時までちゃんとやれただろうか。
もしかしたら最後まで母に気を使わせたのではなかったのか。

生前、母が植えた玉ねぎが立派に成長して先日収穫しました。
食べきれるような量ではないので、近所の人や妹や友人とかに随分配りました。

スライスして生で食べたり、肉じゃがに入れたり、摺り卸してペースト状に炒めてカレーに入れたり、、、
母の為と思って勉強したことが今、私の食生活を支えてくれています。

ただ、玉ねぎは目に沁みますね。