尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「腹の虫」の研究

2017-02-14 10:19:32 | 

 前回(2/7)で庄司和晃の「小学生のコトバ」研究はいったん終りにして、今回から新しい角度から「ハラの言葉」について調べ考えてみたいと思います。今年に入ってからだと記憶しているのですが、東京新聞の「筆洗」コラムで紹介された『「腹の虫」の研究──日本の心身観をさぐる』(長谷川雅雄、辻本裕成、ペトロ・クネヒト、美濃部重克四氏の共著 名古屋大学出版会 二〇一二)を手にとってみたことがキッカケになりました。はしがきと最終章を読んでコトワザの中の「虫」がにんまりとオイデオイデしている気がしたのです。「虫の知らせ」かも知れません。今回は「はしがき」の半分を紹介します。(太字は引用者)

 

≪「腹の虫が納まらない」とか「虫の居所が悪い」という言い回しの、「虫」とはいったい何かという素朴な疑問が、本書の出発点になっている。

 「腹の虫が納まらない」という言い方は、「私」(主体)は、腹立たしくて、気持ちが収まらないという状態をさしている。このばあい、「私」が感じている腹立たしさを抑えがたくさせているのは「私」ではなく、「腹の虫」ということになる。どうやら、この「虫」は、怒りという感情の制御を乱すものであるらしい。「腹の虫」は、「私」のなかにあって、「私」を困らせたり、苦しめたりする意思を持つもののように思える。しかし、「虫」が「いたずら」をするのは、「虫の居所が悪い」時であって、普段は影を潜めているものであるらしい。

 「虫が好かない」という時の「虫」も、謎の「虫」である。「虫が好かない」という言い回しは、何となく気に食わないとか、モヤモヤとした嫌悪の感情が起こっていることを表している。不快な心理状態になっているのに、なぜそうなっているのかを、「私」ははっきりと説明できない、又はつかめていない、もしくははっきりさせることを避けているのだが、そうさせているのが「虫」だということになる。私たちは、何かを見通すことができないと、モヤモヤとした気分になったり、イライラしたりする。見通すことを妨げ、イライラさせるのも「虫」であるらしい。

 「虫がいい」という時の「虫」は、なかなか魅力的な虫である。自分勝手なことを考えたり、したりする時、そうさせるのは「私」ではなく、「虫」であるのだから、この場合は、「私」を苦しめるのではなく、逆に「私」を楽にしてくれる「虫」である。「虫」が悪を引き受けることによって、「私」と「虫」は親和的な関係を結べている。この「虫」のおかげで、「私」は内面の葛藤による苦痛を避けることができるという、「私」にとって都合のいい「虫」である。

 「虫の知らせ」の「虫」も、不思議な「虫」だ。「不吉な予感」などの、理屈では説明できない直感的な予測をする「虫」である。この予感は、外れることも多いが、時には「虫」が予知能力を発揮したかのように、みごと的中するという凄さを見せることもある。知覚を超えたものを感知する能力は、「私」よりも「虫」の方が高いのかも知れない。

 「虫」は大人だけのものとは決まっていない。もっぱら子どもを専門とする虫」もある。「疳の虫」だ。急にぐずついたり、夜泣きを繰り返したりして、親を困らせる「虫」である。この虫」は子どもの敵でもあり、親の敵でもある。今日においても、「疳の虫」を抑えるための「虫封じ」を行なって寺社が、全国に散在している。

 「獅子身中の虫」という諺は、仲間でありながら、仲間を裏切る者の喩えとして用いられることが多いが、元来は、自身を破壊する者が自身の中にあることを意味するものである。「私」を裏切ったり、「私」を破壊するものが、私」の中の「虫」であるとすれば、ゾッとするほど恐ろしい「虫」である。

 このように「虫」の言い回しを挙げていくとキリがないが、「私」の中にあって「私」にさまざまな働きかけをする、こうした「虫」とはいったい何ものなのだろうか。「腹の虫」は、「もう一人の私」なのだろうか。しかし、「虫」というからには、姿・形のある生き物であるはずである。実際、人心中に規制する「虫」もいる。では、人体に寄生する「実在体」なのだろうか。だとすれば、それが「私」のこころを変化させるというのは、明らかに奇妙である。ならば「虫」は、空想が生み出した単なる「仮想体」なのだろうか。そうであるなら、こころの不均衡をもたらすものを、なぜ「実在体」である「虫」に仮託したのだろう。この不思議な「虫」とはいったい何だろう。

 このような謎めいた「虫」の、その正体に迫るためには、「虫」たちが今日以上にいききと「活動」していた時代に、目を向けねばならないだろう。その時代とは、江戸時代である。当時の人々が「虫」をどう捉えていたかを探ることによって、その謎に迫る手がかりが得られるはずである。≫(前掲書 一~三頁)

 

 以上で紹介されている多様な「虫」のありかたは、すべてコトワザの中でとりあげられています。とりあえず『故事・俗信 ことわざ大辞典 第一版』(小学館 一九八二)の索引で、「虫」のつくコトワザを写し取ってみると、一五〇句近くありました。比較するものがないのですが、ことわざ辞典と馴染んできた経験からいえばたいへんな数だと思います。数だけでなく、「私」という日本人はこれだけ多様な「虫」と付き合ってきたわけです。でも、近代になって「私」と「虫」の関係は変化していくようです。その経過も学べそうです。でも、この本は「腹の虫」についてのコトワザ研究の書ではありません。詳しくは次回に。