尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』(朝日新聞社 一九七八)

2017-02-02 15:00:33 | 

 これまで読んできた青木美智男氏の「天保一揆論」(『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九)は、残すところ最終節(第四節)「幕政改革と百姓一揆」だけになりました。この節は「三方領知替」反対一揆(天保十二年=一八四一)、近江検地反対一揆(天保十三年)、上地令反対闘争(天保十四年)の三つの事例をもとに、「天保期末年代における人民のたたかいの特徴」を明らかにする意図で書かれています。事典で調べれば、これら三つのたたかいの原因になった「三法領知替」、「近江検地」、「上知令」の幕政改革のいずれも挫折したこと、もちろん挫折の原因は「人民の諸蜂起」(「上知令」は関係する大名・旗本・百姓の反対闘争)にあったこともわかります。これだけでも、幕藩体制がグラグラ揺れてきたことが推察できます。また著者のいう「天保期末年代における人民のたたかいの特徴」もスッキリ腑に落ちないので青木論文はここで棚上げにして先に進もうと思います。

 「進もう」というからにはゴールがあるわけですがここでは触れません。ただ、これまで近世の一揆・打ちこわしについて学んできたなかで、見えて来た進行方向だけは記しておきたい。それは一揆、打ちこわしの運動組織論とでもいうべきテーマです。たたかいの集団が急激に拡大し周辺にあるいは遠隔地にまで波及してゆく原理は何だろうかという大変長い道です。二つは、これまで一揆・打ちこわしを外側から見てきたのですが、もっと内側からみたいと思うようになりました。具体的には一揆・打ちこわしの指導者の伝記を読んでみることです。読んで、指導者に関する見方や組織内部の動きを捉えてみたい。二〇一七年は、これらの二つに関する文献を交互に織り交ぜながら、学んだことをまた覚書風に綴っていこうと思います。そこでまず、これまではいささか理屈っぽい話が続いたので、指導者の伝記のほうから入って行きます。私がまず読んでおきたいと選んだのは、深谷克己著『八右衛門・兵助・伴助』(朝日新聞社 一九七八)です。個別的な人間を描いていることが理由ですが、今回は、この書物の序文として書かれた「三人の農民の一生を書くことについて」を取り上げます。この三人の一揆指導者たちの生涯は八右衛門(一七六七~一八三〇)、兵助(一七九七~一八六七)、伴助(一七九六~一八八四)です。八右衛門は文政年間、兵助と伴助は文政年間に続く天保前期にそれぞれ一揆頭取になり人生の試練に立ち向かいます。

 

≪この「評伝」は、ほんとうは一人の人間の一生だけで書きあげるほうがよいのかもしれない。しかし、私は、東善養寺村八右衛門、犬目村兵助(ひょうすけ)、米川村伴助(ばんすけ)という三人の農民の一生で、この「評伝」を構成することにした。

わたしがとりあげる幕藩制時代の農民は、個人として存在していたのではない。彼らは、つねに衆として存在していた。だからかれらは、本来、衆として把握されるのがふさわしい。どの農民にしても、一生のあいだにぶつかる波風のちがいはあり、その波風の受けとめ方の違いもあったはずだから、一人一人が異なる生涯をもったことはたしかである。私が言うのは、その一人一人の生涯が衆としての生活のなかに分かちがたく組みこまれてあった、ということである。農民には群像が似合う。

しかし、そのことは、農民が無限定な衆一般のなかに存在していたという意味ではない。農民は、歴史的に規定された衆──この時代でいえば村あるいは村の衆のなかに存在していた。そのことが、章題で三人の農民を、東善養寺村八右衛門、犬目村兵助、米川村伴助と表現した理由である。この三人の農民には、それぞれ姓があったから、それをとって、林八右衛門、水越兵助(のち奈良兵助)、北沢伴助とすることもできる。そうしなかったのは、農民の姓がこの頃には一般に公称されなかったということもあるけれども、そのように姓─名で呼ぶと、三人の生涯について不正確なイメージがつくられるように思えたからである。

この時代にあっては、たとえば北沢伴助というとき、それは伴助が「個」として存在することをあらわすのではなく、彼が北沢姓の家族に属し、北沢姓を共有する親類一統に属することをあらわしている。たしかに北沢「家」も北沢「族」もそれぞれに、伴助の日常と緊密な関係をもってはいる。だが、伴助にとっては、米川「村」に属していることのほうがよりいっそう基本的な契機だというのが私の見方である。キタザワのバンスケであるよりヨネガワのバンスケだったのである。米川村伴助という章題に、私は、農民をとりまく幾層もの共同体的な諸関係のなかでもっとも規定的なものは村落との関係だったという農民観をこめている。

実際には犬目村兵助や米川村伴助は、自分の属す村からかなり「自由」に生きた。──というより、そういう「自由」を押しつけられて生きたといったほうが適切な人間である。それでも、彼らが生きている限り、居村あるいは出身村という枠組は大きな力として働き続けている。その枠組に縛られながらも、彼らが個性的な生き方をしたとすれば、その個性は、彼らが生きた時代の構造と深くからみあいながら形成されたにちがいない。八右衛門と兵助と伴助は、そのような予測から、江戸末期の農民的個性の一つの展開方向を知るために、歴史の縦軸にそって選んだ三人である。

農民の世界に新しい能力や資質が生まれてくるとき、すべての農民が均質にそれを身につけて現れるのではない。地域により階層により人によって、それぞれの農民が担ってくるのはその新しさの部分であり、ある側面である。一人の農民の一生だけでは、この時代の能力や資質を全体的に知ることはむつかしい。そのことも、三人の農民の一生でこの「評伝」を構成した理由であり、さらに時おり、三人以外の農民を補助線のように登場させる理由である。(以下略)≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 三~五頁)

 

 近世に関する文献を読んでいると、つい「幕藩制時代の農民は、個人として存在していたのではない。彼らは、つねに衆として存在していた」ことを忘れてしまいます。彼らが個であって個でなかった実存を腑に落としたいものです。