2011年3月の東日本大震災と翌日の福島第一原発の爆発事故から12年が過ぎた。
11月5日~6日 日退教は福島県退教の共催で5回目の「福島学習の旅」を実施した。
参加者は東北・関東・近畿・九州からの総勢15名。
◆一日目
レポートⅠ 「学校現場から見える原発災害」
一日目の学習会は柴口正武さん(元浪江創成中教諭 前福島県教組双葉支部長)の報告で、震災から12年「学校現場から見える原発災害」でした。
《学校の現状》
双葉地方は6つの町(浪江・双葉・大熊・富岡・楢葉・広野)と2つの村(葛尾・川内)で
構成され、震災前におよそ6397人いた児童生徒数は12年経った現在838人でかつての13%ほどの数である。
津波で校舎が倒壊した請戸小、放射線量が高く帰宅困難区域の津島小・中など、震災前にあった6つの小学校と3つの中学校を閉校にした浪江町は、「なみえ創成」小・中学校を開校した。また、義務教育学校(9年間同じ校舎で小・中の区切りがなく校長は1人)として授業再開となったのは大熊町と川内村だが、川内の児童生徒数は70人、大熊は5人である。
複数の小学校と中学校を統合して一つの校舎で授業再開したのが富岡町と楢葉町である。
しかし、1学年1~2人が多く、児童生徒数の増加はどの町村も望めない状況である。
《避難先での孤立感》
柴口さんの実践報告は震災時から12年間の軌跡をたどっている。浪江町に自宅があった柴口さん一家は津波と原発事故で避難場所を転々とした。多くの避難住民も同様で、集団避難から個々の避難先の転居、仮設住宅の入居の決断や学校再開による避難先の問題。放射線管理区域の解除に伴う「戻る」「戻らない」の決断など様々な問題に翻弄された。
その間、住民同士のコミュニティーは、その場所に定住出来ないが故に、地域や個々人の距離感も埋まりにくく、孤立感を強めていく結果となった。
子ども達も同様である。故郷を追われ生活環境の激変と知らない土地への転校は、子ども達のからだや心を深く傷つけ、そこに残された子ども達にも、同様の虚しさや様々な心の傷を負わせることになった。
《極小規模校の実践報告》
そんな中での教育現場での課題は「極」小規模校での教育だった。双葉地区の多くの学校は「原発災害被災校」であり、極少人数の中で行う「異常」な環境の中で目指す「通常」の教育のギャップをどう埋めていくのか。それが「ふるさと教育」だった。
柴口さんは震災4年目から「ふるさと創造学」とのテーマで総合学習を進めてきた。当初20名近くいた浪江育ちの子ども達もやがて1~2名になり、町外県外の子ども達に代わってきた。テーマも「ふるさと浪江」から「ふるさと・地域」そしてふるさとが消え「わがまち浪江」と変えてきた。
今この浪江で生きると云うことは、こども達にどんな意味を持つのか、震災と原発事故で
ふるさとを追われ避難先での生活から、また進学でこの地を離れることにもなる。これらを道徳の授業と総合学習を絡めて、異なった生育環境・生活環境を認め尊重しあってお互いの考えを共有する学習を進めてきた。ここに柴口さんの教育にかける真骨頂を感じた。
《困難に立ち向かう今》
学校再開に伴う様々な課題は、教職員にも及ぶ。子ども達や保護者へのケアも日常的に行いながら、教職員も離散した家族を抱え複数学校の兼務や50km~100kmに近い遠距離通勤など多くの困難を背負っていた。そんな中でも2011年6月末に双葉支部集会を開催し40名以上の参加があったのは大きな希望となった。いま柴口さんは退職し双葉支部の事務局長として、退教協ニュースで様々な情報を発信し400号を目指して奮闘している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/17/3159c2753b11391d27820d6a5270d807.jpg)
<Y.F>
11月5日~6日 日退教は福島県退教の共催で5回目の「福島学習の旅」を実施した。
参加者は東北・関東・近畿・九州からの総勢15名。
◆一日目
レポートⅠ 「学校現場から見える原発災害」
一日目の学習会は柴口正武さん(元浪江創成中教諭 前福島県教組双葉支部長)の報告で、震災から12年「学校現場から見える原発災害」でした。
《学校の現状》
双葉地方は6つの町(浪江・双葉・大熊・富岡・楢葉・広野)と2つの村(葛尾・川内)で
構成され、震災前におよそ6397人いた児童生徒数は12年経った現在838人でかつての13%ほどの数である。
津波で校舎が倒壊した請戸小、放射線量が高く帰宅困難区域の津島小・中など、震災前にあった6つの小学校と3つの中学校を閉校にした浪江町は、「なみえ創成」小・中学校を開校した。また、義務教育学校(9年間同じ校舎で小・中の区切りがなく校長は1人)として授業再開となったのは大熊町と川内村だが、川内の児童生徒数は70人、大熊は5人である。
複数の小学校と中学校を統合して一つの校舎で授業再開したのが富岡町と楢葉町である。
しかし、1学年1~2人が多く、児童生徒数の増加はどの町村も望めない状況である。
《避難先での孤立感》
柴口さんの実践報告は震災時から12年間の軌跡をたどっている。浪江町に自宅があった柴口さん一家は津波と原発事故で避難場所を転々とした。多くの避難住民も同様で、集団避難から個々の避難先の転居、仮設住宅の入居の決断や学校再開による避難先の問題。放射線管理区域の解除に伴う「戻る」「戻らない」の決断など様々な問題に翻弄された。
その間、住民同士のコミュニティーは、その場所に定住出来ないが故に、地域や個々人の距離感も埋まりにくく、孤立感を強めていく結果となった。
子ども達も同様である。故郷を追われ生活環境の激変と知らない土地への転校は、子ども達のからだや心を深く傷つけ、そこに残された子ども達にも、同様の虚しさや様々な心の傷を負わせることになった。
《極小規模校の実践報告》
そんな中での教育現場での課題は「極」小規模校での教育だった。双葉地区の多くの学校は「原発災害被災校」であり、極少人数の中で行う「異常」な環境の中で目指す「通常」の教育のギャップをどう埋めていくのか。それが「ふるさと教育」だった。
柴口さんは震災4年目から「ふるさと創造学」とのテーマで総合学習を進めてきた。当初20名近くいた浪江育ちの子ども達もやがて1~2名になり、町外県外の子ども達に代わってきた。テーマも「ふるさと浪江」から「ふるさと・地域」そしてふるさとが消え「わがまち浪江」と変えてきた。
今この浪江で生きると云うことは、こども達にどんな意味を持つのか、震災と原発事故で
ふるさとを追われ避難先での生活から、また進学でこの地を離れることにもなる。これらを道徳の授業と総合学習を絡めて、異なった生育環境・生活環境を認め尊重しあってお互いの考えを共有する学習を進めてきた。ここに柴口さんの教育にかける真骨頂を感じた。
《困難に立ち向かう今》
学校再開に伴う様々な課題は、教職員にも及ぶ。子ども達や保護者へのケアも日常的に行いながら、教職員も離散した家族を抱え複数学校の兼務や50km~100kmに近い遠距離通勤など多くの困難を背負っていた。そんな中でも2011年6月末に双葉支部集会を開催し40名以上の参加があったのは大きな希望となった。いま柴口さんは退職し双葉支部の事務局長として、退教協ニュースで様々な情報を発信し400号を目指して奮闘している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/17/3159c2753b11391d27820d6a5270d807.jpg)
<Y.F>