江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

私と「道」の関係(7) ー通学路②ー

2024-06-18 | 随想
小学校時代の通学路は、中学になるとそのまま更に先まで延長された。
ただ、一つだけ大きく変わったことがある。
それは、自転車通学になったことだ。

当時、自転車は高価な品物だった。
私は父から中古の自転車をあてがわれた。
それは、父が懇意にしている自転車屋から格安で購入したものらしく、細身のタイヤで見た目に華奢な自転車だった。
モダンな自転車なのだが、未舗装の田舎道を走るにはふさわしくなかった。
私が欲しかったのは友達が乗っているようなゴツくてがっしりしたものだったのだ。


中学生になっても登校時は仲間と一緒だった。
集落の入り口付近にある私の家は、門の前が集合場所になっていた。
「ピーヨ・ピヨピヨ♪」と口笛の音。
これが、「おはよう! 来たよ!」という合図だ。

朝、会ってもほとんど会話は交わさない。
互いにクラスも違うし、あまり共通の話題もないからだ。
昼間はずっと一緒に遊んでいた小学校時代とは異なるからだ。


自転車通学とは言っても、家から出るとすぐに急な坂があり、自転車は押して歩くしかない。
因みに、中学校に到着する前も急な坂になっている。
しかし、この坂は下り坂に続く登り坂なので、一気にスピードをつけて下れば登り坂もかなりの所まで乗ったまま行ける。
一直線のダウン&アップの道は、まるでジェットコースターの線路のようだった。

ここで私は運転操作ミスを犯し、下り坂を下りきった辺りで右下の畑に転落してしまったのだ。

当時は舗装道路なんて滅多に見られなかった。
町の幹線道路である県道も砂利道だったのだから、私たちの通学路である町道は砂利が敷いてあればまだましな方だった。

道路に新しく入れたばかりの砂利が未だ定着していなかったのだろうか、私の自転車の細いタイヤは足もとをすくわれてハンドル操作が不能となり、
そのまま落差2m余りある畑に乗車したまま突っ込んでしまったのである。
一緒に走っていた友達は難なく登り坂を登って行ったので、私は自分の不甲斐なさより自転車の構造のせいにしたものだ。
柔らかい畑に転落したのが幸いして擦り傷程度ですんだため、何事もなかったかのように授業に参加した。


その後、しばらくはその自転車を乗り続けたが、乗る度に見えるハンドルに繋がるサスペンションの歪みは私の心を暗くした。
結局、新しい自転車を買ってもらうのは高校に入学するまで待たなくてはならなかった。



この通学路を含め、道路の整備は東京オリンピック開催前あたりから急激に進み、県道がかさ上げされて舗装されたり、
町に唯一ある国鉄駅の前の交差点に信号機が取り付けられたりした。

しかし、私が歩き自転車で走った通学路は、小学校から中学、高校、大学までの長い間、道は姿を変え辺りの風景も少しずつ変わってはきたが、
道そのものは相変わらずその場所にあり続けている。
今もなお…。




<すばる>


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