蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「津田梅子女史談話」 (1901)

2016年03月19日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 

 津田梅子女史談話

    麹町区元園町なる女子英語塾は、乳臭の幼乙女 をとめ 時代より、米国に渡られ、彼国の空気を吸ひて生長せられたる、津田梅子女史の設立にかゝる、我邦に於る女子唯一の最高英語専門家塾なり。記者一日女史を此の家塾に訪ひ、昔年渡米当時の様を聞かんことを請ふ女史快諾其の間に応ぜらるゝ叮嚀詳細、為に大に得る所ありき。即左に掲ぐるところは、其の談話中の概要なり。

 私共の米国へ参りましたのは、今を距 さ る三十年前のことでありまして大使岩倉(具視)さんだの、大久保(利通)さんだの、伊藤(博文)さんなどが、欧米回覧に参られる一行に加はりましたので、百何十人といふ大勢でありました。私共女生は米国公使デロング夫婦の帰国を幸に、其の保護を受けて渡米の途に就きましたことでした。一行の中には、留学生も大分あったのですが、中には女子の留学生は吉益りやう、上田貞、山川捨松(大山侯爵夫人)、永井繁(瓜生海軍少将夫人)と私の五人にして、慥 たしか この事は、黒田(時の開拓使次官清隆)さんが、北海道に女子の学校を建て度 たい 其御考へから起ったかと存じます。そして女子も男子と一緒に、海外留学を命ぜらることになったのだそうですが、十五歳を頭に、十二三の小供はかしで、私は七歳でした。尤 もっとも どういふことから、私が其の中へ加へられたかは存じませんが、兎に角其の時分には、洋行を希望するものは、今に較べると余程少数なものであったので、縦令 たとへ 当人が進みましても、親が不承知だとか、何だとかいふ故障が起ったりして、誠に稀なことでしたから、況 ま して女子の留学などいふことは、別して珍らしく、私共留学に付、前には例 ためし のないことがありましたのです。
 出立前即明治四年十二月に 皇后陛下に拝謁を仰せ付られ其時紅白の紋縮緬一匹を下し給りました。申すも畏れ多いことでありますが 皇后陛下が、其の頃から女子教育のことに、御熱心にあらせられたことは、誠に難有 ありがたき 次第でして、華族だとか、又官位のあるものならば兎に角、我々の如き只の士族どもが、拝謁仰せ付けられたといふことは、感泣感喜の外ない訳であります。
 それから又政府から辞令が下りましたが、其の文言 もんごん なども今から見ますると、余程変で珍らしく感ぜられます。たしかかういふ風でした。
   其方女子にして洋学修行の志誠に神妙のことに候追々女学御取建の儀に候へば成業帰朝の上は婦女の模範と相成候様心掛け日夜勉励可致事
       辛未十一月       太政官
 扨 さて 彼地に参るについては、一度外国の様子を知って置くが善いといふことで、其の時分には米国公使館は横浜にあったものですから、横浜へ連れて行かれて、始めて西洋館へ入ったことでした。凡てがかういふ風で、何も解らなかったのですが、それは女だけではなくて、同行の男子の方も大抵は何も解らずであったので、又服装だといっても、元より和服で、男子の方は大小の二刀をたばさんで、頭 かしら には「とんぼ」を戴 いたゞ いて居ったのであります。
 当時新橋と横浜の間の鉄道が出来上りまして、まだ旅客を一人ものせませんでしたが、岩倉公使始 はじめ 一行出発につき、特別に発車しましたが、是が日本の汽車ののり初で御座りました。愈船に乗りましたが、丁度適当な室が無いものですから、我等五人は同じ狭い部屋……尤他の室に較ぶれば大きいのでしたが、二人か三人はいれば充分の所へ、五人も入ったものですから、如何にも窮屈で、二人は腰掛の上へ、一人は普通荷物などを入れる床の上へ、私と吉益さんといふ方とは、一人寝の寝台へ眠ることに致したことでした。
 この吉益りやうさんといふ方が、一番年長 としかさ であったものですから、色々な世話を受けたのですが、皆が舟に酔って一時は随分つらく感じました。勿論語学は誰も出来ませず、世話する女中が、食事のことや其の他のことを尋ねに参りましても、何をいふやら解りません故「エース」だとか、「ノー」だとか答へる許 ばかり で、手真似でやって用を弁じます様な次第で、食事をしますのにも、食器 うつは の用ひ方を誰も知らないものですから、何でも掴んで食べたのです。黄色なものがあるものですから、何だらうといって「バタ」を匙で甞めたりしましたやうなこと、又髪は御互に結ひ合ったのです。
 廿五六日も経まして、サンフランシスコに着きましたが、見物人の夥しいことといったら実に非常なものでした。それから「ホテル」へ着きましたのですが、見るもの聞くもの、一として珍しくないものはない。殊に最異様に感じたのは「ホテル」の給仕が皆黒奴 くろんぼ であったことなんです。物珍しくもあるが、何だか恐ろしかったでした。
 何処へ参りましても大層珍しがられまして、「ホテル」へは沢山な人が尋ねて来まして、私共をいろんな所へ連れて行って、様々のものを見せて呉れ、手真似で以て何やかやの説明をして、私共を喜ばさうとせられました。私共が彼地に着きます少し以前に、大陸鉄道は出来上って居たのでして、すぐ其の鉄道に乗りましたが、大雪の為に不通となったものですから、ソールト、レーキ、シチーに暫の間滞在して居ました。
 それからシカゴへ行って洋服に着換へたのです。最サンフランシスコへ着けば、すぐ洋服に替へる筈であったのでして、其のことはデロング夫婦に頼んで置いてあったのですが、デロング夫婦は却って和服の方が善いといって、容易に買ってくれないのです。強 たっ て頼まうと思っても、言葉が通じないものですから、とうとう岩倉さんにお願い申して、漸うシカゴで買ってもらったのです。もとより洋服の着様さへ知らなかった、又品だとか恰好だとかいふやうなことも分りませぬに、それにまた気候が大層寒かったものですから、赤い「ショール」をひっかぶって旅行をしたのでありますから、あちらの人には如何にも野蛮の状態に見えましたことでせう。
 それからワシントンへ連れて行かれました。此地で大使の一行と別れて、其の時の米国臨時公使森有礼さんに、我々五人は預けられたのですが、森さんには私共が随分迷惑をかけましたので、こんな赤坊などよこしてどうするのですかといはれたこともあったさうですが、兎に角一つの家を借りて、其処へ五人のものを入れて、教師を傭ひ入れ、其処で教育しやうといふことで、一人の女教師は私共と同じ家に起臥して私共を監督することとなり、他の職員は通ふことになって教育を受けたのですが、何分教師のいふことが全く通ぜぬものですから、我々は勝手なことばかりして居るのです。それで教師が夜分になれば、早く寝ろと申して二階の寝所へ入れる。けれども我々は寝所へはいれば、おとなしくして寝なければならぬのだといふことも知らぬものですから、瓦斯燈抔 など をつけて、寝所で以て色々な遊をして、大騒をやるのです。それで何時かかういふ所へ、教師が上りて来て見付けられたこともあるのです。かういふ風にして、半ケ年程続けましたが、併しこれでは言葉も日本語を使ってるし、国ぶりの風俗を続けてゐるといふ有様で、甲斐が少いといふ所から、みんな分れ分れになりまして、私は日本公使館の書記官で、著書などもしてる一寸名の聞いたチャレス、ランマン(ダュールウヱブストルの秘書官たりし人)といふ方の宅へ世話になることとなり、「ジョジ、トウン」の小学校へ入学したのです。又其の中で二人の方は向ふへまゐりましてから、一年ばかし経った時分に、病気で帰朝しましたから、後には今の大山侯爵夫人(捨松)と、瓜生海軍少将の夫人(しげ子)と、私と三人残ったのですが、かく分れてしまひましたけれど、休暇の時には必一つ処へよって、海辺へ参ったり、又避暑に行きなどしました。
 私の世話になったランマンといふ方は、小供のない御夫婦でしたが、初めは迷惑ながら兎に角世話を願ったので、他の所を見付けるまで、暫くといふ約束であったのですけれども、段々と馳 な れるに従ひ、非常に親切にして下さいまして、とうとう永く御世話になることとなったのです。併慣れるまでは、随分双方とも困難は一通りのことではなかったので、通弁はありませず、手真似ばかりですから、ランマン夫婦もよい御迷惑でしたらうが、私も実に窮屈なことでした……それで公使館へ遊びに行くのを一番に楽 たのしみ にして居ったのですが、全権公使の吉田(清成)さんにも、色々御世話になったのです。
 彼の国の人にも、亦日本より御出の皆さんにも親切にして貰ったのでして、それに、あちらにいまだ日本人などといふものは、決して知られてゐなかった。支那と日本との区別すらつけられなかった位の状態でしたから、大変に妙に思はれ、珍しがられまして、のみならず米国人は、新奇なもの、変ったものを好く方ですから、学校へ入りましてからも珍重されまして、多くの人々からも日本は支那のどちらに当るか抔、其の他妙な質問を時々受けましたが、決して軽蔑されることはなくて、内国人同様、寧ろ同地人民よりも格別の扱 あつかひ を受けましたので、大変な同情の下にあったのでした。
 それで私はいつもかうおもひます。今日朝鮮や支那から我邦へ留学に参るものに、我邦人が其等の留学生を軽蔑することはあるまいか。又よし軽蔑しないにしても、私共が米国で受けた様な同情を以て、親切にしてやられるであらうかといふことは気遣はれます。
 それから私は、「ミシス、ヱル、アーチャル」の女学校を明治十五年に卒業して、翌十六年に帰朝しましたが、あちらへ渡ったときと同様の不便を感じまして、帰りましても、父母に挨拶一つも出来ないやうなことでしたから、習字を始めるやら、裁縫の稽古にかゝるやら、非常なものでした。
 又一昨々年向ふへ参りましたが、私が居ました時分とは、余程進歩して居て、何もかも大層相違して居ました。一昨々年は米国に居りました時、英国の貴婦人より招待をうけまして、英国に渡り、彼の国にて有名の人々に面会いたしましたが、其節ナイチンゲール嬢にも御逢ひ申して、親しく御話しを承ったことでした。(記者云其詳細ハナイチンゲール伝に記すべし)

 上の文は、『女子之友臨時発刊第九十二号 第四才媛詞藻』 東京 東洋社 明治三十四年六月三日発行 の 附録 に掲載されたもである。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。