蔵書目録

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「帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料」 1 (1938.5)

2021年02月08日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 

 下の資料は、昭和十三年五月一日發行(非賣品)の 『昭和十二年中における社會運動槪況  昭和十二年中に於ける左右社會運動關係者消息一般(四)』 社會思想對策調査會調査 に掲載されたものである。

附錄(四)
 帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料

二・二六事件後一年

     二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の感想集錄

(1)「幸樂」の女將佐藤らくさんの感想談

 雪の思出の日「二・二六」のカレンダーが無殘にひきちぎられてからもう一周年、さまゞの感情をこめた追憶で、無限に膨んだその日、一年の回顧を通じて、刻まれた歷史の齒車の痕を眺める多くの眼に浮ぶものは冷微な批判か、或は言葉もない感慨か、ーそれゞの立場によって異ることだらうが、先づ何よりも溢れるばかりの思出に胸をふさがれるのは、當時あの事件の空氣を最も身近に呼吸した人達だ。その一人赤坂「幸樂」の女將佐藤らくさん(三九)を訪ねてきく。「もう一年ですか、初めはあんな大きな問題だとは思はなかったし、‥‥‥何んだか暮の樣ですわ」と記憶の糸をたぐる樣に投げる眸の彼方、中庭を披露の花嫁さんが美しい晴着姿で靜かに過ぎて行くのが見える。柔かな初春の陽射が、緣側のガラス戸を通して流れてゐる。
 「私の所で忙しかったのは二月廿六、廿七、廿八の三日間、随分賑かでした。退去を命ぜられる迄は少しも恐くなかった。本當にお祭り騒ぎとでもいひたい位で、私の所は三日天下でしたわオホ‥‥‥」と微笑で語る落着には大きな時の流れが感ぜられる。
 「廿六日朝十時ごろ中橋さん(元中尉)が陸軍の自動車でやって來て、お握り五百人分、酒一樽、味噌汁、牛の串燒を注文されました。蟇口を開けたから金を呉れるのかと思ったら、またパチンと閉めちゃいました、私の所は近歩の方も、步三の方もみんな掛けでしたから、安心してゐましたが‥‥‥味噌汁は酒の空樽に入れて、うちの男が四人がゝりで、トラックで首相官舎に持って行きましたみんな何も知らんものだから喜んで行きましてね『これがすんだら、大宴會があるから女將に宜しくいっといて呉れ』なんと云はれ、歸りには官舎のガラスの碎片まで喜んで拾ってきました‥‥‥」「大きな宴會は取消されましたが、その晩は明大ラグビー部の送別會があって、お客との間になぐり合ひがあったり、慶醫會の集まりなどもあって、普段と變りはなかったが、重大ニュースがあるといふラヂオの發表もきかずに、みんな寢ちまひました‥‥‥」
 記憶の斷片が次第に生々とよみがへってくる。
 「兵の宿舎に當てたいから用意して呉れと電話のあったのは、廿七日の夜、下檢分に來た將校さんは、充分に御馳走して呉れ、酒は絶對に出してはいかん。若い連中だから、特に女中さんなどにも注意して呉れ、なんていふので随分御念の入ったことだと、そのときは思ひました。雪はやんだけど殘雪が玄關前に光ってゐる中を、陸軍の提灯をつけラッパを吹いて午後八時ごろ兵隊さんがやって來た‥‥‥お湯に入る。煙草をのむ。手紙を書く。キャラメルをしゃぶるといふ和かなもの、お客さんもどんゝやって來たし、『しっかりやり給へ』なんて兵隊さんの肩をたゝいて歸って行ったりした。若い兵卒の方は一晩中電話の周りをとりまいて『お母さん‥‥‥』『叔母さんか‥‥‥』『をぢさんか‥‥‥』などゝ一晩中寢ないでかけてゐる樣です‥‥‥家にサイン狂がゐましてね、將校さんの全部に字を書いて貰って喜んでゐました。家中の人が一番恐い人だと思ってゐた澁川さんも『俺も書くのか』といひながらサインしてゐました。
 この頃から帳場をつとめる山田君が話に加はった。
 前日に引きかへ、形勢ががらりと變ったのは二月廿八日朝のこといつのまに來てゐたか宇田川さんといふ人が、絶對に兵卒に電話をかけてはいかんと命令するし、家の交換台を私にやらせ、私の後でポケットをガチャゝさせながら立ってゐた。この人は帳場に來たときは、何時も先づピストルをポケットから出して置き、話がすむとまたそれをポケットに入れて歸って行きました!群衆心理とでもいふんですかね女中など一寸も恐がらず、キャラメルかなくなると、兵隊さんに貰ひに行ったりしてゐました。夜の八時ごろ山本さんといふ人が大きな日の丸の旗をかついで醉っぱらってきて『これから世の中が變るから、お前だちは氣の毒だなあ一々宴會などしてはいけないんだよ』などゝいってゐました。‥‥‥」『廿九日のあけ方兵隊さんはいつのまにか引揚げた樣でしたが、うちの者は誰一人知らなかった‥‥‥その朝の八時頃、憲兵と警官がやって來て、眠り込んでゐた私達を叩き起して呉れたので、それからはだしで逃げ出したんです。その後でやって來た兵卒が安藤さん(元大尉)の申付けだからといって、泣きながら新しいシャツ股引、晒布に香水をふりかけて、澤山持って行ったさうですが‥‥」語る聲も靜かに潤んでくる。
 「安藤さんのお父さんは、慶應の英語の先生で、うちの子供は幼稚舎時代から知って居りましたしお氣の毒で‥‥‥」と結んで顔を曇らせた。當時を想ひ起させる唯一の名殘は、別棟になった「アカツキの間」の後小高い丘の板塀の破れ、多分兵卒がこゝから山王ホテルに去って行ったゞらう通路である。

(2)「兵に告ぐ」の一文起草者大久保少佐の感激談

 殘りの淡雪が街々に凍りついてゐる廿九日の朝、市内の交通はピタリと止まり、叛亂軍に對して最後の行動に出でようとして、重苦しい空氣が三宅坂一帶を中心にみなぎってゐる時「兵に告ぐ」の哀調を帶びた名調子が、廣聲機から流れ出た。
 之を聞いた叛亂軍の親達は泣いた。市民も泣いた。併しそれよりも心を打たれた者は。眼の血走った兵達だった。四日間の自分達の行動が、誤ってゐたことをはじめて知ったのだー間もなく陰鬱な空も晴れて、帝都は元の「殷賑」に返って行った。
 一代の名文「今からでも遅くない」の語調は、一ヶ年回り來っていよゝはっきりとわれゝの耳朶に甦って來る。この文の作者こそは誰あらう。陸軍省新聞班「つはもの」編輯主任、陸軍少佐大久保弘一氏(四四)だ。少佐を杉並區松庵北町一一一の自宅に訪ふと「私はあの事件は初めから衝突は起きないといふ豫感がありました」と陸軍省から歸ったばかりで、軍服のまゝ物靜かに語り出した私は廿六日から憲兵司令部に居りましたが、廿八日は夜遅く九段方面の狀況を視察して歸ると、戒厳司令部から直ぐ來て呉れといふので、とんで行くと最後の手段として、
 飛行機から兵に勸告文を撒く事にしたから、書いて呉れとのこと、書き初めたのが廿九日の午前三時ごろで、五時ごろからそれを印刷して、朝の八時ごろ一應飛行機で撒布したのですが、間もなく麻布の聯隊區司令官が來て「兵の親達が聯隊に押しかけて來て、自分達の子供等は何うしてゐるのでせうかと口々にいってゐます。」と話してゐるのを聞いてゐた。當時の根本新聞班長があわてゝ兩手を振りながら
 「いゝ事があるラヂオで放送しよう」と云ひ私に放送を命じました。そこで撒布したビラを讀返へして見ると、わたしは昔から漢文で、育ってゐるので、何うも語調が堅い。直ぐ筆を取って柔かく書變へました。原稿は二枚でしたが、一枚私の直したのを、傍から中村アナウンサーがむしり取るやうに放送しました。放送してゐるのを聞いてゐると、ひとりでに涙がとめどなく出て來ました、當時は自分で自分が何を書いてゐたか判りませんでした。と口を一文字に堅く結んで、緣なし眼鏡の奥にじっと一隅をみつめて、光ってゐる眼は、一年前の「思ひ出」を呼び戻して、感慨にふけってゐるやうだ。
 「私は戦端を開かせないといふ一念からやったのです。午後四時ごろ叛亂軍が全部歸順したと聞いた時は、嬉し涙がこぼれました。これも皆誰のお蔭でもない。只御稜威の賜だと信じてゐます。これは日本の一番有難いところです。私は日頃これといふ特別の宗教は信仰して居りませんが、神を信ずる氣持は人一倍です。當時は無念無想で全く「祈り」の境地でした」
 冴えゞと冷く澄んだ月影が、空邊に忍びよって少佐の心境を照らし出してゐるやうだ。靜まり返った應接間には、ガスストーブの湯のみがしんゝとたぎってゐる。少佐は床の間に掛けてある墨畵を指して、
 「これは吉武元同といふ變り者の畵家が、私のあの文を見て、わざゝ九州の高千穂の峰に登って書いて呉れたものです」と説明したが、その傍には上海で不慮の死を遂げた少佐の恩師、白川義則大將の溫顔が少佐をじっと見下してゐる。
  昨年は大雪であんなに寒かったのに、今年はこんなに暖かいのも何かの因緣でせう。死んだ人々には種々追悼の會が催されるさうですが、全くお氣の毒にたへません。只私達はじっと世の遷り變りを見守ってゐるだけです。」と靜かに眼をふせた。

 〔蔵書目録注〕

 上の文中にあるラヂオ放送やビラについては、『昭和十一年中ニ於ケル社會運動ノ狀況』 内務省警保局 にその内容などの記載がある。下の写真参照。

 



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