ベートーヱ゛ン後期作品研究発表
久野久子嬢告別演奏会
主催 東京音楽学校京都在住卒業生
賛助 日本女子大学桜楓会京都支部
京都音楽奨励会
会場 岡崎公園、京都市公会堂
時日 大正十二年三月六日 火曜日午後七時
ルードウヰ〔小文字〕ッヒ ワ゛ン ベートーヱ゛ン
(1770-1827)
一、告別奏鳴曲、作品八十一の甲、變ホ調
緩徐調 (千八百九年五月四日作)
快速調
表現的併歩調
最疾速調
ニ、ハムマーグラ井〔濁点あり〕ーア奏鳴曲、作品百六
快速調 (千八百十八年作)
諧謔調
緩徐調(音を支持して)
遁走曲
休憩 (十五分間)
三、奏鳴曲、作品百十、變イ調
唱謡中庸調 (千八百二十一年十二月二十五日作)
最快速調
哀歌調
遁走曲
四、最終奏鳴曲、作品百十一、ハ短調
壮厳調 (千八百二十二年一月十三日作)
快速調
小歌調
表紙には、「ベートーヱ゛ン後期作品研究演奏会曲目梗概 演奏者 久野久」とある。最終頁の終わりには、「(大正十二年 〔一九二三年〕 一月)」とある。18.5センチ、12頁。
下は、その冒頭である。
ルードヰツヒ ワ゛ン ベートーヱ゛ン(一七七〇 - 一八二八)は古来世界が出した最大の巨人中に数へらる。『独逸は滅びてもベートーヱ゛ンは滅びない。』とは独逸人の天下に傲語する言葉である。フレデリツク大王、ウヰルヘルム二世の鴻業も、ビスマークやモルトケの雄図も今は空しい夢となつた。併しベートーヱ゛ンは燦として、天日と共に光を改めない。全世界の音楽界は最大の礼を此巨匠が在天の霊に捧げることを永久に続けるであらう。
ベートーヱ゛ンは奏鳴曲に於て古今独歩の大家である。ハンス フオン ビユーローはバツハの『平均率洋琴曲 ウヲールテムペリールテクラフイーア』を評して、洋琴曲の旧約聖書となし、ベートーヱ゛ンの洋琴奏鳴曲はその新約聖書であると云つた。蓋し至言である。彼が此形式を特に愛し、之に不朽の生命を與へたことは何人も否むことは出来ないであらう。〔以下省略〕
〔以下、各曲目の梗概は省略〕
復活の久野女史
先年『月光の曲』其他の名曲を演奏して以来五年間、鳴かず蜚 と ばず専念研究中であつた東京音楽学校教授ピアニスト久野久子女史は一月下旬ヴエトウベン第三期の作品中大曲四曲を選んで之れを公演することに決定し、目下すべての来客をさけて猛烈な練習をしてゐらつしやいます。それを傳へ聞く音楽ずきは演奏の日を指折りかぞへつて待てゐます。
上の写真と解説は、大正十二年一月一日発行の『淑女画報』一月号 第十二巻 第一号 に掲載されたものである。
上左:『国際写真情報』 第二巻 第四号 〔大正十二年:一九二三年 四月号〕 「春の婦人界」の写真六枚中の一枚〔その一部〕。
近く音楽研究の為渡欧する久野ひさ子 〔久野久子〕女史の、送別演奏会に於ける同女史の演奏ぶり。
Miss Hisako Kuno, a talent pianist and professor of the Tokyo Academy of Music, held a farewell recital on Feb. 17. 〔17日は誤り?〕
上中:四月一日発行の『淑女画報』 四月号 第拾貳巻 第四号 の口絵「花環を受けて」にあるのもの。
今回渡欧することになつたピアニスト久野久子女史は久しぶりに東京音楽学校で送別演奏会を開きました。
上右:四月一日発行の『写真通信』 四月号 一百拾号 の「大正写真日誌」にある。
二月廿五日 久野女史告別演奏
欧洲留学を命ぜられた音楽学校教授久野久子女史は同校講堂で告別の演奏会を催した
下は、大正十二年三月廿五日号の『サンデー毎日』二巻十四号に掲載された「◇婦人の世紀◇今泉静江◇ 独身の淋しさも覚えず たゞ 芸術に精進する久野久子女史 不具の身の煩悩は今日の地位を占める基石 ベートーヴエンを弾き得る日本での第一人者」中の、女史の発言と思われる部分全てと訪問した記者の記述などである。
一天才ピアニストと親しく語り得るといふ歓 よろこ びを胸に包んで、久野久子女史のお宅を訪れたのは、音楽学校に職員会議のあつた午後でした。〔以下省略〕
女史の音楽談
「私は作曲が出来ませんから、作られたものを弾きこなす丈 だ けなのですが、それさへ只 ただ 、無暗 むやみ に練習して弾くに過ぎませんでした。和声学によつて、一小節づゝの音譜を分解し、研究するやうになつたのは、極 ご く最近の事で、二三年前まではほんとうに幼稚なものでした。この前大正七年に、ベートーヴエンの前期作品を発表いたしました時などは、矢張り、その幼稚な考へで練習してゐたのです。丁度身体の組織を知らない医者が、腫物 しゆもつ を治療するのにその下にどういう腺があるかを研究しないで、単に出来た腫物を切り取るのと同じやうなものでした。一昨年の夏頃それがはつきりと分りましたので、本式に勉強し直して今度の告別演奏会で、ベートーヴエン後期の作品を弾きました。演奏には気分といふ事も非常に大切な事で、曲がしつかりと自分のものになつてをりましても、その時の気分で思ふやうに参りません。この間の会も、自分では失敗だと思つてゐます。ベートーヴエンの物を弾く方がお聴きになつて、嘸 さぞ あはれに思はれた事だらうと恥 はず かしくなります。欧洲へ行けば私位の弾手 ひきて はざらにある、いやざらにゐる方 かた でも私よりずつと優れた腕を持つてをられるでせう。いつでも会の後には恥 はぢ を残します。けれども、以前の時より今度の方が失敗が大きかつたといふものゝ、自分の考へが一歩進み、練習の方法も深い処へ手が伸びたのですから、それだけ、進歩したといふ事が出来るでせう。そして私が全く二心 ごゝろ ない真剣さでピアノに向ふといふ事は、誰れの前にも誇り得ると思ひます。二心を持たぬと云ふことは何でもないやうでありながらなかゝ六ヶしい事で、上手下手は別として、芸術に対する純真な心持ちにおいては、私のやうな小さい一女性でも、ベートーヴエンやゲーテ、ミレーにしろ、ロダンにしろ、どんな大聖人大芸術家とでも伍し得るものだと信じます。どうしても音楽に一生を捧げねばならぬとか、何でも彼でもピアノに全身を委 ゆだ ねゝばならぬものだと、自分を励ました時代もありましたけれど、今ではさういふ消極的な考へはなくなつて、心の全部が音楽に向ひ、真剣に研究する事によつて幸福を感じ、歓 よろこ びが湧いて来て、独身の淋しさも思はねば、世俗の辛さも一向感じられません。私はまだゝ学ばねばならぬ事がたくさん残つてゐますから、これから独逸へ行つて満二年間勉強する積 つも りです。〔以下は、記者の記述と思われ、省略〕
邦楽から洋楽へ 〔下は、その一部〕
来 きた る四月十二日に故国を後にして、渡欧せられますが、途中満州方面で演奏会に臨み、上海に出て独逸に向はれるのでの、渡欧は往復を除いて満二ケ年の予定ださうです。出発迄には長崎へ演奏旅行せられるのですが、腕を少し損 いた められたので、しばらく磯部温泉で静養する事になり、私の伺つた時には、既にトランクが二つ玄関先で女史待つてをりました。四時に上野を発 た つといふので、如何にもお忙しさうでありましたが、不自由な足で廊下を走りながら、先客の去つた応接室へ招じて下さいました。