ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

道徳教育はゴミ拾いの体験学習で

2017-03-28 06:26:09 | 世相
 ポイ捨ての現場でいつも痛感することがあります。ポイ捨てに共通したヒトの習性です。ゴミ拾いをしていると、それらが嫌と言うほど透けて見えてくるのです。ゴミ拾いを体験すれば、道徳教育の大切さが一発で理解できると思います。

 ポイ捨てに共通したヒトの習性とはこんなものです。

 ● 同じ場所で同じことを繰り返す
 ● 他人のやることに釣られやすい
 ● 人の見てないところ(状況)でやる
 ● 疚(やま)しいことは隠す

これらに加え、もしも咎められでもしたら、すぐその場で言い訳を思いつくというのも共通しています。

 上の二つは生活習慣そのもののようです。下の二つは悪事を犯すときの心理と全く同じものに思えます。悪事は人の見てないところで隠れて犯すというのが共通しているからです。これらの習性は広い意味でヒトの動物的防御本能の一部なのかもしれません。

 私たち人間には、咄嗟に人を助けてあげようとする惻隠の情を初め、思い遣り・慎み・慈しみ・労(ねぎら)いなど美しい心が備わっています。その反面、後ろめたいことや疚しいこと、疎(うと)ましいことは、無意識のうちに隠すという醜い心もあります。この醜い心もヒトの動物的本性のようです。私たちの中では、美しい心とこれら醜い厄介者とが同居しています。私には、これらの動物的本性が美しい心の反転した陰画のように思えてなりません。

 私たちの脳は、見たくないものなら無意識のうちに見えないように処理するようです。これも習性の一部で動物的防御本能なのかもしれません。

 写真でなら街中の電柱や電線は目障りに見えるのに、普段、街中を肉眼で見ているときはちっとも気にならないのが良い例です。道に落ちているゴミも同様で、普通に歩いている分には多少のゴミなど全く気にならないものです。無意識下で処理してしまう脳の習性はかくも根が深いのです。

 ところが、ゴミを拾うつもりで意識的に見始めると事態は一変します。ゴミが思いの外あちらこちらに落ちているのを見つけると、つい怒りがこみ上げて来るものですし、目に余る散らかり様なら怒りを超えてつい絶望的な気分に落ち込んでしまいます。

 戦後世代の私から見て、規律を守ろうとする気分が40~50年前の昔に比べ世の中から薄れてきているようです。自由や権利の主張こそが善と囃し立ててきた教育現場やマスコミと、科学技術の進歩を後押しに生活の利便性を追い求めてきた産業界とが時代背景にあります。それらが自分勝手は許されるという思い違いと、面倒なことは御免という風潮を形作ったのだと思います。

 ゴミのポイ捨てなどはそんな世相の現われで、いつの間にか世の習性になった感がします。ポイ捨てには公共心の欠片もなく、幼稚性と言えばまだ聞こえがいいものの、野生本能丸出しの行為にさえ見えます。他を思い遣り、自分勝手な振る舞いを自重するのが公共心です。公共心は慎みある人間の道徳そのもののハズで、民意の程度も現します。

 習性というのは無意識でやってしまう行動習慣です。無意識でやる行動だけに根が深く厄介なものです。悪い行動習慣を矯正しようとするなら、行動が容易く習慣化するという習性を逆に利用するしかないと思います。

 ゴミのポイ捨てをなくすには、ゴミ拾いの体験学習を学校教育で徹底するのが一番と考えています。週1回で十分なので、一つの学期全部の週1コマを野外学習に当てたらどうでしょう。精々二人一組で地域の一区画を分担させ、順繰りに分担地区を代えるローテーションを組むのが良いと思います。一定期間定期的に繰り返し体験することが重要で、公共心を体得できるばかりか道徳の何たるかを理解するまで到達できるかもしれません。

 道徳は口でいくら説いても聞かないでしょうが、この体験学習なら公共心が道徳の核心であることを一発で理解できると思います。繰り返します。民意の程度は公共心に現われるものです。



いつもお読みいただき、ありがとうございます。
ランキングに参加中です。是非、下をクリックして順位アップに応援お願いします!
クリックしますと、その日の順位が表示されます。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ
    ↓    ↓
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする