ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その6)時代は国際標準を要請していたのに・・・?

2014-11-15 17:45:30 | 自分史
 私が新カルシウム(Ca)拮抗薬PのPMを兼任するようになったのは38歳になる年の1月からでした。専任となったのは1年1ヵ月後の39歳の時からです。

 Ca拮抗薬としての新しい特徴は、新剤型薬LAと同じ1日1回だけの服用で十分という点だけで、対象領域も新剤型薬LAと同じ高血圧症、狭心症という循環器領域です。1日1回服用のCa拮抗薬としては、PMを引き継いだ時点ですでに5成分が販売されていました。

 開発中のものもゾロゾロ続いていました。化学構造的には本格的新薬ではあるものの、このように類似薬がすでに出回っている新薬を製薬業界ではゾロ新と呼んでいます。ちなみに、後発薬(ジェネリック)のことはゾロ(me too drug)と呼んでいます。新Ca拮抗薬Pもいかに早く承認・発売に持ち込めるかが最重要課題でした。

 新Ca拮抗薬Pの目標とする適応症は高血圧症と狭心症でしたが、兼任の時は高血圧症だけを担当し、専任となってから狭心症も担当しました。その当時、新Ca拮抗薬Pの治験で一体いくつの治験数が立ち上げられたのか、から話を始めます。ちょっと長くなりますが、超が付く多忙さをご想像ください。

 治験は治験実施計画書(プロトコールとも言います)という文書に基づいて実施されます。治験実施計画書は治験を実施する上で守らなければならない事項(治験の目的、対象患者の選択・除外基準、試験のデザイン・方法、併用禁止薬、検査・処置の実施時期と手順・方法、評価方法と評価基準、中止基準など)を取り決めた文書で、治験の憲法兼手順書のようなものです。治験の数とは、すなわち治験実施計画書の数(本数)のことです。

 38歳の時はちょうど臨床開発の後半段階に入る時期でしたので、10本と多数の治験が立ち上がり、その後39~41歳時にそれぞれ5本、4本、2本と開始本数は減っていきました。治験の本数が多いのは高血圧症と狭心症という評価方法が確立された適応症だったためで、他の適応症を狙った化合物なら2~3成分に匹敵する数の治験数でした。これらの治験は、先行する治験成績に基づいて治験実施計画書が作成され、その治験実施計画書どおりに実行されることになります。

 承認申請時に根幹データとなる特に重要な治験はすべて、目標患者数(症例数)、病院数ともに大規模なもので、38~40歳時にそれぞれ10本中7本、5本中3本、4本中2本が立ち上がり、41歳時になってやっと開始すべき重要な治験がなくなりました。大規模な根幹データとなる治験の参加病院はほぼ固定的(50~70病院/治験)で、開発段階が進んでも新規参加病院は少ないのが普通です。

 治験は開始されるとそれぞれで患者の参加が進み、やがてデータのまとめの時期を迎えることになります。臨床開発の最終段階では、必然的に治験成績のまとめ作業だけとなる場合もあり、40~42歳時にそれぞれ3本、9本、5本の治験がデータ回収と成績のまとめだけの作業になりました。

 治験実施計画書を立案するに際し、先行する治験成績のまとめ作業が必ずセットで伴います。治験成績のデータのまとめ作業に許される時間は、290例ぐらいの患者数でも実質3ヵ月に満たないということもザラに有りました。

 治験実施計画書は、原案を我々製薬会社の臨床開発担当PMが作成します。先行する治験成績と原案とをセットで代表世話人と主要な医師の幹事役からなる中央委員会に諮り、内容の検討と文案の推敲を経て最終案となります。最終案はさらに治験参加医師全員の承認を得て完成版となります。

 特に代表世話人と主要な医師の幹事役で構成される中央委員会は要の研究会で、全く気が抜けないものでした。中央委員会のメンバーは高血圧症で10名、狭心症で9名でした。全国的に見ても医学会の重鎮であり、地域的にも地方の医学会や医療界への影響力大の方々です。

 このような医師の方々の信頼を得るためには、研究会資料(特に、先行する治験の問題症例検討資料)は正確かつ要点が分かり易く、検討に要する時間は概ね2時間以内となるように作成することが必須条件です。正確であって一々読まなくても一見して分かる資料を目標に、いかに工夫をこらして作成したかがお分かりいただけると思います。

 原案や最終案の検討時には、参加医師の方々に化合物名を冠した研究会に出席してもらうのですが、研究会の日程は会場の予約状況と多忙な医師の都合を考慮して概ね2~3ヵ月以前に決定します。

 研究会では1回の会合で3~4本の治験実施計画書が議題となることもあるので、必ずしも治験の数だけの研究会が開催されるわけではありません。それでも、38歳から42歳までの期間に、規模の大小はありますが、およそ1~2ヵ月に1回の頻度で研究会を開催していました。

 私の臨床開発チームのスタッフ数は、私を除いて39歳時3名、40歳時から5名、それに内勤の女性社員1名の体制でした。チームのメンバーは、根幹データとなる治験については共同担当として地域を分担し、他の治験1~2本を一人で主担当とすることを原則としていました。これでスタッフ数と治験数とを概ね合わせました。

 この人員で治験実施計画書の立案、治験毎の進行状況把握、安全性に問題が発生した時の対応、データの回収から入力と解析、データの問題点の炙り出しと検討会用資料作成、解析結果をまとめた成績資料作成、さらに主要医師へ出張面談、研究会日程の調整、研究会案内状の発送、研究会開催次第の詰めなど業務は多岐にわたります。

 最も時間を要するデータの回収から入力までの作業を以下に示します。

 ○症例毎のデータ回収(大部分、各支店の協力スタッフが担当;最も時間を
  要す)
 ○回収したデータ点検(未記入、治験実施計画書からの逸脱、矛盾した記述→
  問題症例)
 ○問題症例について担当医師へデータ確認・修正依頼
 ○PCデータ入力(2人が独立して入力し、両者が合致して完了→データ固定)


 これらの作業は平行移動で行われますが、患者数が100例以上だと最短でも2ヵ月は掛ります。さらに、患者データの問題点の炙り出し作業は、治験実施計画書から逸脱した症例の問題点を分類し、類別した問題点ごとに該当する症例を個々に抽出するもので、パソコンがあまり普及してない時代ですから最も集中力を要しました。それでも症例の大部分が回収されてから、一括してこの作業に当てられる時間はせいぜい1~2週間ぐらいでしょうか。これでほぼ3ヵ月が経過します。研究会開催日の期限が決まっていますから猶予は一切なしです。

 臨床開発部門トップ、専務のK氏の方針で “少数精鋭” という美名の下、私たちは残業も厭わずギリギリの所で仕事を凌いでいました。まさにフル稼働状態です。PMの私は代表世話人と幹事役の主要な医師全員を全面的に担当し、全試験に責任を負い、当然口も出しました。

 臨床開発部門トップ、専務のK氏はかつて自社開発治療薬2号品MのPMだった人です。「スタッフ人員を増員して失敗でもしたら人員整理の対象になってしまう」が密かな口癖で、業界情報や臨床開発現場への関心が薄く、大胆に改革しようという気概など全くない人物でした。そのスジの人のようなコワモテの外見とは裏腹に、自分が現場で働いていた時代の成功体験を引き摺り、保身だけを気にして社長の顔色ばかり見ている小心者でした。直接の上司であるN先輩もその点で全く同類でした。

 社長も10数年足らずで自社開発品を5成分も承認取得できた実績から、臨床開発体制を改革する必要性を感じていなかったと思います。社長の関心事は専ら米国でした。日米同時開発≒国際臨床開発を謳っていたにしては国内への危機感に乏しく足元がお粗末でした。

 上司の無理解のために、38歳の時から承認申請作業が収まる43歳の春までの5年間余、私は手に余るほどの仕事量を、“少数精鋭” の不条理な環境で凌ぐ日々が続きました。

 国内の製薬企業に世界標準の臨床開発体制を迫る法律の改正(GCP:医薬品の臨床試験の実施に関する基準)の動きが始まっていました。時代は製薬業界に大胆な改革を要請していたのです。GCP体制下の現在では、たとえ掛持ちのメンバーがいたとしても、規模に関わらず一つの治験で当時の倍の7名程度の人員が最低限必要となります。

 会社が法改正(GCP:’97年3月、46歳時)への備えに着手し始めたのは、法施行の半年前からだったように思います。39歳の時に国際標準を簡略化した日本版GCP(旧GCPと呼んでいます)の行政通知が出されたのですが、これに対しても本気で会社が取組み出したのは41歳の時と遅かったのです。

 このような過酷な状況下でも、酒なしの日々を過ごすことができるでしょうか?酒害をはっきりと知った今なら、あるいは耐えられるかもしれません。素面になった今から考えてみても、肝毒性と離脱症状の他にアルコールがどのような毒性を持っているのか知らなかった当時、酒なしで重圧の懸かるストレスに耐えることは到底不可能だったと思います。

 仕事で長時間にわたって神経の緊張を強いられたことに加え、習慣的飲酒も加勢して寝起きに身体、特に背中の鈍い重苦しさと怠さが続き、直ぐには起き上がれませんでした。内勤の日にはほぼ遅刻していたと思います。39歳になる年の1月から昇格して出勤簿が免除されていました。これは幸運でした。

 人間ドックでは血圧と血糖値が怪しく上がり続けていましたし、ストレスと酒で体重も増えていました。意外なことに肝機能検査値は基準値(正常範囲)の上限付近で問題なしでした。自覚していませんでしたが、気持ちに余裕がなくなり微妙に(?)か、相当に(?)か、心・精神も歪み始めていたと思います。渦中の者には自分の精神状態などまったく分からないものです。


アルコール依存症へ辿った道筋(その7)につづく


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コメント (1)
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