ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“争う” ことを止め “競う” ことにしよう

2017-11-24 08:01:47 | 自分史
 AAではさまざまなテーマを立ててミーティングを持ちます。先日のテーマは「 “争う” ことを止める」でした。ときに、“闘う” というテーマもあるのですが、“争う” としたことになぜかシックリするものがありました。

 生物が背負う最大の宿命は “生き残る” ことで、すべての生物の遺伝子にこの命題が刷り込まれています。上を目指して張り合うのはその現れで、他者を蹴落としてまでも “争う” 闘争なのか、自分自身を磨くことで他者と “競う” 競争なのか、そのどちらも駆使しての生き残りなのだと思います。人の生き様は、この “争う” と “競う” のどちらに比重を置くかによって決まるもののようです。

 思えば上昇志向に駆られていた頃の私は、例に漏れず他人との競争 / 闘争に明け暮れていたようなものでした。

 生まれ育った岩手の田舎では、なまじっか勉強がよくできた方だったので、小学生の頃から教師はもちろん近所の大人にも一目置かれていました。それが内心得意でなりませんでした。

 中学で不登校になったとき、校長がわざわざ家庭訪問にやって来て、旧帝大にも入れるぐらいの実力とおだててくれました。登校を促すためとは薄々気づいていましたが、このように直に褒められてはその気にならないわけにいきません。

 丁度その頃、夏休みを利用して次姉のいる東京に遊びに行ったのですが、次姉の勤務先は最高学府とも言われている一流大学の目の前にあり、初めて見る大学の偉容に心を鷲掴みにされました。これが直接の動機となり、“豚もおだてりゃ木に登る” 物語が始まりました。

 成績順にクラス分けしていた高校では、実力試験の度に学年順位が壁に張り出され、2年のときに常時2番をキープするまでになりました。これで一層馬車馬のような勉強三昧に拍車がかかりました。自分の身の丈を弁えずに勉強での成績を実力と勘違いし、愈々彼の一流大学を目指すことになったのです。この頃までが私の人生で純粋に “競う” 競争時代だったと思います。

 2年の浪人生活を経て、どうにか志望大学に入ったのですが、上には上がいるものだと否応なしに思い知らされました。生まれ育った文化的素地の格差にすっかり自信をなくし、大学時代は劣等感から大人しくしていました。ところが新卒で入った会社では、同期の学歴をみるにつけ自分が上で当たり前という傲りに目覚めてしまったのです。たったこれだけの理由で再び競争 / 闘争心に火が付き、今度は明らかに “争う” 闘争モードに入っていました。

 楽な生活には高い給料、高い給料には昇進するしかありません。業務知識の習得にはそこそこ努めたつもりでしたが、そんな勉強だけでは昇進させてはくれません。なかなか結果が伴わず、これはという業績を出せないことに焦りが募りました。それでもしばらくして小さなプロジェクトで小さな成功を収めることができました。そんな時です、とんとん拍子に昇進する先輩社員を見て、どうにもならない嫉妬心を覚えるようになったのです。

 本来 “争う” のはほぼ同じレベルの者同士がするのであって、レベルのはっきり違う相手にするものではありません。先輩とは業績の格が違っていたのですが、嫉妬心はそんな違いなどお構いなしなのです。仕事のしんどさにも加勢され、そんな心のざわめきをうまく抑え切れませんでした。

 そんなわけで、唯々好きな酒に縋るばかりになりました。その挙げ句の果てがアルコール依存症となった無残な自分の姿だったのです。まさに “生き残る” という命題に裏打ちされた上昇志向のなせる業でした。

 一旦上昇志向に駆られると、次から次へと新たな競争 / 闘争相手が現われ、どこまで行っても終わりはありません。それでも “生き残る” という宿命を背負っているからには死ぬまで競争 / 闘争から逃れられないのです。

 他者と張り合うことは進歩を促すプラスの働きもしますが、下手をすれば相手を蹴落としてでも・・・という “争う” 闘争になりがちです。それならば、他者に学びひたすら自分自身を磨き高めて “競う” 競争の方が、同じ張り合うのでも自分の努力次第という含意があり遙かに道理に適っています。

 我欲だらけのゴツゴツした心で “争う” 闘争を止め、自分自身を磨き高めて “競う” 競争だけにしよう。これが断酒を通して心底気づかされたことでした。



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ヒゲジイのブログが開設して丸3年経ちました(中)

2017-09-15 06:06:24 | 自分史
 自分史『アルコール依存症へ辿った道筋』シリーズを始めて半年ぐらい経った頃、シリーズの締めは実質的にサラリーマン人生が終わった時期にしようと決めました。閑職に異動させられた時期に当たります。

 この時期を境に仕事上のストレスが軽くなり、深酒の挙げ句の連続飲酒に陥ることがなくなりました。アルコール依存症(アル症)を悪化させずに生活できていた時期で、その分書くべき事件(?)があまりなかった時期でもあります。漫然とシリーズを続けても退屈されるのがオチという思いがありました。

 シリーズを通じ様々な “気づき” がありました。その時々の “気づき” が溜まりに溜まって、自分史以外のことも書きたいという欲求が募ってきていたのです。

 特に断酒して以降、情動不安定な状態や記憶(想起)障害には散々苦しめられて来たという思いがあり、思考プロセス障害についても薄々気づかされていました。これらの障碍が遅発性離脱症候群とも言うべき急性離脱後症候群(PAWS≒ドライドランク)と知ったのも大きかったと思います。

 そこでブログ開設10ヵ月後(断酒1年8ヵ月)からは、アル症に特有の病状を自分の体験に当てはめて記事に取り上げることにし、特に渦中にあったPAWSは再々題材にしました。

 理屈好きな私は、回復途上の脳では領域間に回復速度のアンバランスがあり、情動不安定などの障害はそのアンバランスによるものなどと屁理屈を捏ねてもみました。素人考えの自己満足でしかないのですが、そうすることで不安な心を紛らわせていたのだと思います。

 PAWSの中でも記憶(想起)障害や思考プロセス障害は老人ボケと何ら変わりありません。両親ともに認知症で亡くしていますから、私にとって老人ボケほどの脅威は他にありません。深刻な老人ボケに備える意味で、記憶力活性化を目的にこれらの障害をよく題材にしたのです。

 これらに加え “認知のゆがみ” が回復を邪魔する最大の障碍であり、アル症となった要因であることも知りました。ブログ開設8ヵ月(断酒1年半)が過ぎた頃から、変な思い込みがものごとをややこしくしている要因とハッキリ気づき始めました。この変な思い込みに囚われていることが “認知のゆがみ” と知ったのは断酒3年過ぎのことです。こうして “認知のゆがみ” の事例が新たな題材となりました。

 こうして現在に至ります。断酒期間も丸3年(ブログ開設2年2ヵ月)を過ぎたら精神的に少しゆとりが生まれてきたようです。これを機にその時々の関心事を題材とし、自分なりの “気づき” を週2回の頻度で投稿することに変えました。

 現在、私の一番の関心事は “認知のゆがみ” の矯正と記憶(想起)障害・思考プロセス障害の進行抑止です。簡単に言えば、どうしたら老害をまき散らす老人ボケを遅らせられるかです。これが目的の投稿となりつつあります。

 “認知のゆがみ” の矯正と言ったら性格の改造と同じこと、無理に変えようとしてもうまく行くものではありません。当たり前ですが、自分で出来ることなど限られています。手始めに、“認知のゆがみ” と思しき事例を拾い集め、それらを自戒の糧とするつもりでいます。これらを記録していけば、記憶(想起)障害・思考プロセス障害の進行抑止にもなると考えました。目出度く一石二鳥となれるかは請うご期待です。
(この項まだつづく)



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ヒゲジイのブログが開設して丸3年経ちました(上)

2017-09-08 05:27:39 | 自分史
 私がgooブログに個人用サイトを開設して丸3年経ちました。今回が203回目の投稿になります。振り返ってみると、私が心懸けていたのは次の3点です。

 ● アルコール依存症回復への闘病記録
 ● 認知行動療法・“言語化” の実践記録
 ● 自分の “認知のゆがみ” を知ること

 断酒3ヵ月頃から記憶力が全く当てにならないという自覚が強くありました。専門クリニックでは「酒害体験を決して忘れずに!」という指導を受けていましたが、酒で危うく死にかけた体験もこんな状態では忘れるのも時間の問題だろうと危機感を持つようになりました。

 断酒6ヵ月から参加し始めた自助会AAですが、その回復プログラムではアルコールに纏わる過去の過ちを洗いざらい棚卸しし、その結果を第三者に開示することを勧めていました。

 これら専門クリニックやAAの回復プログラムの教えを実行するには、酒害体験を文章化してブログに投稿することが最も理に適っていると考えたのです。このように最初は結構切羽詰まった思いが動機でした。

 断酒3ヵ月頃からAV動画に嵌まってしまいました。どうにもならない窮地に立たされると決まって性的妄想に囚われてしまうのが私の習性でした(です?)。形を変えた飲酒欲求だったのか、あるいはよく知られるクロス・アディクションの現われだったのかはわかりません。どうにもならない性的妄想にやけくそになった挙げ句、動画の内容を丹念に(?)文章化したのです。その数20本以上に上りました。

 このお陰で断酒10ヵ月に “憑きもの” が落ちたように性的妄想から解放され、同時にアルコールに囚われていた考えも綺麗さっぱり消えてしまいました。動画を文章化したことが “言語化” に当たり、それが効いたのだと医師から教わりました。 “言語化” という認知行動療法を知ったのはこのときが初めてでした。

 断酒開始直前の時期に底着きを体験していましたが、この断酒10ヵ月の時期も私にとっては第二の底着き、いわば精神的底着きだったと考えています。これ以降、酒害体験を本格的に文章化することで “言語化” を実践してみようと決めました。動機がさらに強固になったのです。もちろん、うまくいけば承認欲求が満たされるかも(?)というチャッカリした胸算用もありました。

 酒害体験とは言うまでもなくアルコール問題のことです。手始めに記事にしたのは典型的な酒害体験、即ち、ドライドランク、底着き体験、ブラックアウト、急性離脱症候群 でした。これらがキッカケとなって過去の様々な出来事が思い出され、アルコール問題を縦糸に、それぞれの時期に起こった出来事を横糸に自分史を書くことになりました。より深く酒害問題を掘り下げようと思ったのです。これが35回に亘って連載した『アルコール依存症へ辿った道筋』シリーズです。

 「外聞の悪さを気にして変に取り繕ってないか? 誤魔化してないか? 本当か?」これがシリーズを書いていたとき、いつも自分に問い続けていた言葉です。聞こえはいいものの、今読み返してみると、くどくどしく冗長で単に読みづらいだけなのですが・・・。愚直なまでにバカ正直に書いていたと思います。

 もう一つ強調しておきたいことがあります。客観的で正確な個人史年表を作り、出来るだけ正確な記述を心懸けていたことです。

 このお陰で少し視野が広がり、その当時の自分を客観的に見渡せた結果、記憶が随分偏っていたことに気づかされました。しんどい状況だったにもかかわらずよく頑張って来たものだと、自己肯定感を持てたのもこの年表のお陰でした。自責の念ばかりに陥りがちだった私には、これは思いがけない贈り物でした。
(この項つづく)



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回復の邪魔:「“古い考え” を引き摺る」って?(下)

2017-04-21 06:17:27 | 自分史
 専門クリニックの院長によれば、何かにつけ「・・・でなければならない」と考えてしまうのは、 偏った認知パターン “認知のゆがみ” による自動的思考だそうです。
現実を受け容れられない心がそうさせるのだと言います。私はこれを「・・・でなければならない」病(?)と呼んでいます。


 さて、積み上げ方式の思考パターンを引き摺った頭でゴールまでの計画を立てようとすると、最初の段階から不備な部分がどうにも気になって堪らなくなるものです。

 不備と見るや「これじゃマズイ、何とかしなきゃ(ならない)」と、課題がどんどん増えるばかりです。「必要最小限の条件を満たせばこれでも十分イケる」という発想があればまだ救われるのですが、抜け道を探す器用さを持ち合わせていないと悲惨です。

 結局、「これじゃとても実行は難しい」という悲観論に陥ってしまうわけで、自力で何でもできるという自惚れと、経験不足の頭でっかちが嵌まりやすい落とし穴です。

 自分でもこんな状態に呆れ、「これじゃあ “石橋を叩いて渡る” ではなく、“石橋を叩き壊して” 渡れなくしている」と自虐的気分に苦笑いしていました。想像力には限界があるという、現実に即した経験が欠けていたのです。

 会社の業務を進める上で、私が葛藤に苦しみ始めたのは開発プロジェクトを率いる立場になってからでした。プロジェクト・リーダーは開発スケジュールと予算を毎年自力で策定しなければなりません。絶対に成功させなければならないというストレスに加え、その都度立ちはだかったのが例の積み上げ方式の厄介な思考パターンだったのです。

 積み上げ方式で構想した望ましい組織・体制と、組織上の不備や上司の無理解などの現実とが年々軋轢を増し、さらに上昇志向の虜であった私のプライドが歳の近い直上の上司に嫉妬するよう仕向けるなど、葛藤は縺れにもつれた凄まじいものとなりました。どうかすると孤立無援と思い込んでしまい、従前にも増してアルコールに走って行きました。そうでもしない限り現実と折り合いが付けられなかったのです。私も経験不足でしたが、教育システムがお粗末だった会社も経験不足でした。

 そのアルコールが曲者で、いつの間にか悪循環を拡大させて行きました。アルコールは、部下の女性社員へ恋心をけしかけるなどさらに複雑な葛藤を生み、果ては妻をも巻き込んでの家庭崩壊へというお決まりのコースへ導いてくれました。そんな悪循環の中で、“認知のゆがみ” による「・・・でなければならない」病が定着して行ったのだと思います。仕事絡みのマイナス要因がすべて解消された後になっても、「・・・でなければならない」病はそのまま続いていたのです。
以上が「“古い考え”を引き摺る」の一つの事例、私が辿った姿でした。

 ところで上で述べたように、“古い考え”( 固定観念)のせいで、否応なしに駆られてしまうのが「・・・でなければならない」だそうです。
言い換えれば、“認知のゆがみ” がさせる自動的思考です。

 断酒を始めて10ヵ月もの長い間、私が囚われていたのは「酒を絶対に飲んではいけない / 何としても断酒を続けなければならない」でした。このことに初めて気づいた時は、依然としてアルコールに囚われている証拠と考え、皮肉を込めて「・・・でなければならない」病と名付けたのです。

 改めて考えてみると、雁字搦めにされていたのはまさに “古い考え” を引き摺っていたせいで、アルコールというよりもむしろ “認知のゆがみ” がその黒幕であったと気づきました。

 そう気づいた今、私は “認知のゆがみ” を何とかして手懐けようと、日々あれやこれや工夫をこらしているところです。そのお陰でしょうか、“認知のゆがみ” にリアルタイムで気づけることが多くなりました。
(この項おしまい)


“認知のゆがみ” 回復の最難関にどう向き合う?(下)」(2017.2.10投稿)もご参照ください。


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回復の邪魔:「“古い考え” を引き摺る」って?(上)

2017-04-14 05:58:23 | 自分史
 アルコール依存症者にとって、回復の邪魔をするのも、否認や再飲酒に誘うのも “認知のゆがみ” が黒幕なのだそうです。

 鶏が先か卵が先かはわかりませんが、“認知のゆがみ” と先入観との関係も同じようなものだろうと思います。どちらも成長過程で育まれ、偏って刷り込まれたものの見方・考え方(思考パターン)のことです。今回テーマとした “古い考え” とはこの偏った思考パターンのことです。

 毎日の晩酌が欠かせなくなり、1本の大瓶ビールが2本以上に増えたのは一体、いつ頃からだったのか思い出せません。どうも会社で業務の独り立ちせざるを得なくなった30代半ばからだったような気がします。そんないい加減な記憶ながら、その頃私が引き摺っていた思考パターンの癖についてはしっかり覚えています。

 何か新たに始めてみようとするとき、誰でも先ずやるのがゴールまでの行程をシミュレーションしてみることだと思います。私がシミュレーションする場合は、念頭にゴールはあるものの、最初の一歩から一つひとつ積み上げて行く方に比重を置きがちでした。

 積み上げ方式の思考パターンでは、先ず土台(基礎)から固めなければならないという考え方が支配的になります。基礎から積み上げて万全を期する受験勉強のやり方と同じ教科書的な考え方で、まさしく保守的思考パターンです。

 オーソドックスで着実と言えば聞こえはいいものの、はっきり言って融通の利かない頭でっかちな石頭の発想です。こんなタイプは、発想を変えて抜け道を探すなどの器用さを持っていないのが普通で、私もまさしくこのタイプでした。

「先ずやってみてから考えよう」という前向きな発想はまれでした。
「やる前に先ずよく考えてみてから・・・」が幅をきかせていたのです。
そのためどうしても埒の開かない堂々巡りの循環思考に陥りがちでした。

 万事がこの思考パターンでしたから、日常生活ではぐずぐず屁理屈を捏ねては選択肢を狭めるばかりで、結局、面倒くさがりのやらずじまいが多かったように思います。条件が揃えさえすれば、容易く引き籠もりになる一歩手前の危うい状態だったと思うのです。

 ところが、会社で担当した臨床開発業務では真逆の発想が求められていました。開発計画を立てる際の実践的な考え方と手順はこうです。

 先ず、ゴールまでの必要十分条件を詳細に分析した上で達成目標を明確にすることから始めます。これをマスタープラン(基本計画)とも言います。次に、ゴールから順に逆算して各段階に必須な課題を想定して行きます。最後に、各段階について効率よい手順とスケジュールを決めるというわけです。ゴールまでのビジョンがしっかりしてないと希望的観測のいい加減な計画になってしまい、経営が立ち行かなくなるからです。

 それに気づいたのは一通り仕事をやり遂げた後のことで、当時の私はそんな教育も訓練も受けたことがなかったのです。
(この項つづく)



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再び “生き残る” について

2017-03-24 07:23:00 | 自分史
 「生き残らねば・・・」と意識すると途端にプレッシャーを感じるのは私だけでしょうか。何としてでも “生き残る”、これは生き物に共通して課せられた厳粛な宿命です。恐らく、全ての生き物の遺伝子に組み込まれている共通した本能だと思います。今回は、この言葉に込められている因縁について考えてみます。

 ただ生きられればいいのであれば、最低限の衣・食・住がありさえすれば事足れりのはずです。極端な話、そこそこの水と食べ物があれば済むはずなのです。ところが “生き残る” となると、
「これでは足りない。もっともっと余分に欲しい」と考えてしまうのが世の常です。そこで考えるのが、
「人より優位に立てれば、もっと楽にいけるだろう」なのです。これが人生最大の柵(しがらみ)ということに気付きました。

 人より優位に立てた方が好都合とは思いますが、何をもって優位とするのか、本来その正解はないはずです。人それぞれが求めた解は各人の持つ価値観次第です。その価値観は認知の仕方如何によります。各人の認知がどのような生い立ちで形成されたのかが、ここで問われるのだと思います。

 思春期は多感な時期のはずでした。私は、そんな時期の16歳から19歳までを受験勉強一辺倒で馬車馬のように過ごしていました。だからでしょう、私は学業成績の善し悪しだけで人の優劣を決めつけがちでしたし、社会人になってからもこの性行を引き摺ったままでした。どこの大学のどの学部の出身なのか、入学試験の学力偏差値ランクキングを物差しに人物評価をしていたのです。この物差しは明治以来社会通念として大方の人が備えているもので、私のような青二才は決して珍しくはなかったのです。むしろごくありふれたケースだったろうと思います。

 会社員時代、社歴で5年、年齢で2歳しか違わない先輩社員とそりが合わず、疎ましく思っていました。その原因も突き詰めればこの物差しでした。とんとん拍子で昇進・昇格していく姿に、知らず知らず嫉妬していたのです。「あいつにできたことなら、学歴が上の俺にできないはずがない」これが私の本音でした。独りよがりで高慢ちきさが鼻につく先輩でしたが、何を隠そう私の正体そのものでもありました。当然、人間関係がギクシャクし、周囲にも悪影響が及びました。

 ― 勉強して成績がよければよい大学に入れる
 ― よい大学に入れば偉くなれる
 ― 偉くなれれば楽に暮らせて生き残れる

幼い頃から知らず知らず私に刷り込まれた三段論法の思い込みです。

 学歴など、人としての資質のごく一部分でしかないはずです。学歴だけを後生大事に人物評価をするなどは、明らかに “認知のゆがみ” そのものです。それほどに、「生き残らねば・・・」という宿命の首枷が首根っこにガッチリ嵌められていたのだと思います。

 “生き残る” という宿命が首枷なら、「人より優位に・・・」は軛に当たるでしょうか。飽くなき上昇志向とその裏表の劣等感とが軛となって、私につきまとって離れませんでした。

 なかなか受け容れにくいのですが、自分の得手・不得手いずれの場面でも、自分より上と察するや、その途端劣等感に狂わされ人に嫉妬していたようなのです。私が今でも難儀しているプライドは、この「人より優位に・・・」の虜だったことがその正体の一部と思います。

 首枷にせよ軛にせよ、がんじがらめにされるのは何とも厄介なものです。どうにも抗えない難儀な首枷と軛とは、どうにか折り合いをつけながら、生きている限り向き合っていくしかありません。


“生き残る” ― この言葉に想うこと(隠居の雑感)」(2016.4.1投稿)もご参照ください。


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心模様が映す世相

2017-03-14 07:07:42 | 自分史
 私の40歳代はバブルが弾けた後の‘90年代に重なります。仕事も家庭も、もうムチャクチャで、今思うとアルコール依存症に一直線の生活を送っていました。

 その頃、道を歩いていてどうにも気になっていたことがありました。行き交う通りすがりの人々が妙にみすぼらしく見えたのです。ビンボクサイと言った方がピッタリでしょうか。どこか自信なさげでいじけて見えました。顔に覇気がないは、シャキッとしてないはで、とにかく皆が皆、くたびれた表情だったのです。縮こまって背を丸め、俯きかげんにセカセカ歩く姿が目障りで仕方ありませんでした。

 お辞儀という独特の礼儀作法を文化にもつ国ですから、この国特有の身に染みついた姿勢のせいと言っていた外国人がいましたが、外国暮らしをしたことがない私になぜそんな風に見えたのかわかりません。私自身、慢心するやら落ち込むやらで、精神がズタズタの状態でしたから、やはり私のゆがんだ精神状態が周りに投射されていたのかも知れません。あの時期の私の心象風景だったとしたら、おぞましいと言うべきか・・・。
 
 あれから20年以上経ちました。経済状況も、人々の暮らしぶりも、あの頃とあまり変わっていません。それでも人々の顔にはみすぼらしさが感じられないのです。変わったことと言えば、私が退職して年金生活者になったことと酒を断ったことだけです。

 そう言えば、もう一つ変わったことがありました。当時、奇妙な夢をしょっちゅう見ていたのです。幽体離脱をしては、ピョ~ンピョ~ンと垂直飛びのように空気を蹴って空を飛び回る夢でした。会社の同僚に、「空を飛ぶ夢を見たことがあるか?」と尋ねられたことがあったのでよく覚えています。あれが一体何を意味していたのか今でもわかりません。

 周囲の風景が、自分の心模様がそのまま投射されて見えることってあるんですね。一浪して大学入試に落ちた日もそうでした。早春の日の昼下がり、まだ肌寒い晴れた浜辺で見た光景がなぜか陰画のように見えたのです。ふとそのときの孤立感までもが思い出されました。

 流行や世相というのは、その時代に生きる人々に投影されるばかりでなく、一人々々の心模様が投射された総体なのでしょう。一人々々がお互いを意識し合って醸し出し、社会全体を覆ってしまう、一種独特の気分の集合体と言われているのは当たっています。つい、そんなことを考えてしまいました。



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あの日 1995年1月17日

2017-01-17 06:54:22 | 自分史
 1995年1月17日(火)午前5時46分、兵庫県南部地震(M7.2、最大震度7激震)が発生。死者6,434人、倒壊・焼失家屋15万余棟。 当時、戦後最悪といわれた阪神・淡路大震災の始まりでした。

 今日であの日から丸22年経ちました。あんな激震クラスの地震では最初、地震などとはとても思えません。生半可な揺れではない、とにかくメチャクチャな揺れなのです。あの日もドーンという音が聞こえ、何か大爆発でも起こったのかと思ったものでした。

 2年前、断酒を始めて丁度1年3ヵ月。やっとアルコールが抜け切ったばかりの頭で地震当日の出来事を書きました。書き出すや、地震当日のことが鮮やかに蘇って、それがとても不思議でした。夢中で一気に書き上げたことを覚えています。

 今でも思い出すのは緊迫した周囲の空気と、何よりも奇妙に醒めていた自分の意識です。自分に起こったことなのに、自分は当事者ではない感覚です。当事者でいながら第三者のよそ者の目で見ているような、奇妙な感覚でした。目の前に危険が迫っているのに、その危険を認めようとしない正常性バイアスの真逆で、恐怖の感情さえも封じ込められた、とても冷静な目だったのです。だからこそ、地震直後の出来事を克明に覚えていられたのだと思います。

 息子たちと言葉を交わしたり、会社へ電話したり、ヘリコプターの爆音が喧しかったりで、この感覚はいつの間にか普通の感覚に戻っていました。今の私は、“醒めた頭で 醒めた目で” 物事をありのままに見ようと努めている毎日ですが、あの日の感覚こそその完成型ではなかったかと思えるほど不思議な体験でした。

 昨年も、熊本地震をはじめ台風による洪水被害など、各地で大災害がありました。大災害に遭った人は皆、おそらく同じような奇妙な感覚を体験したのではないか、と私は密かに考えています。ひょっとすると、大災害の被災者にしかわからない感覚なのかもしれません。とは言っても、当たり前のことながらこんな経験はしないに越したことはありません。


 今回は、2年前に書いた大地震当日についての手記を添付しました。是非、非常事態で私が味わった奇妙な感覚を共有してみてください。


アルコール依存症へ辿った道筋(その16)阪神大震災、地震の当日
私自身、経験したことのない大災害の現場に居合わせているという自覚はありましたが、日常とは全くかけ離れた、異質な世界となってしまった現実を、第三者のように醒めた眼で眺めていました。恐怖感も湧かず......



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感謝の気持ちの反対は?

2017-01-13 05:42:10 | 自分史
 『ひこばえ倶楽部』という読者投書欄が産経新聞にあります。
25歳以下の年齢制限があり、主に高校生以下の子供たちが投稿しています。真っ当で素直な考えの投稿が多いので、いつも読むのを楽しみにしています。

 だいぶ前のことになりますが、その欄に中学生の投稿がありました。『感謝の反対は当たり前』という見出しで、日常の心がけを書いた投稿だったと思います。母親からそのように教わったそうです。この言葉には目から鱗の思いをしました。

 中学生といったら最も難しい年頃です。テーマの捉え方もさることながら、母親の諫めを素直に語る姿勢にいたく感心したものです。同時に、どんなきっかけで母親がそのように教えたのかにも興味津々でした。相も変わらず余計なお世話の私の癖です。ところがしばらくして、次のようなことを考えてしまいました。

 思えば、結婚生活の破綻は相方を “空気” のように感じたことから始まったようです。やってもらうのが “当たり前” と見做し、感謝の気持ちを忘れたままでいたのが危険信号だったのです。私たち二人の破綻はこれが始まりでした。 

 世の例に漏れず、私も仕事にかまけてばかりで妻を “空気” のようにしか感じていませんでした。しかもそれが “当たり前” の夫婦の姿だと思っていました。異変に気づいたときは既に遅く、事態は取り返しのつかないことになっていました。6年間の別居生活を経て、一応元の鞘に収まってはいますが、それから16年経っても、一旦割れてしまった茶碗を元に戻す作業が続いています。

 『感謝の反対は当たり前』は立派な警句です。人にやってもらえることが “当たり前” なのは、実は一対一の関係にしか当てはまりません。しかもそう思えるのは、二人が幸せの安定期にある時だけに限ります。幸せとは幸せだと気づいていないこと。何とも皮肉なことです。

 幸せを鈍感にさせるのは油断や慢心です。“当たり前” ではなくなった時が二人の仲に相当ヒビが入ったときなのです。油断や慢心とは “当たり前” と見做す心のことなのですね。

 普段、やってもらって “当たり前” と見做していることに手抜きが感じられたら、超多忙のせいか、意図的な意地悪か、いずれにせよ異変だと察知すべきです。そして、相方へ率直に語りかけ尋ねるべきです。“当たり前” と見做せること自体が、実に有り難い貴重なことなのです。少なくともこの自覚さえあれば必ず態度に出るハズです。そんな自覚さえもないとしたら、ひどいしっぺ返しを喰っても、それこそ “当たり前” なのです。

 以上は、感謝の気持ちを言葉で口にすれば済むだけの話です。感謝の気持ちを口にするなんて恥ずかしいなどと、暢気に言っていられる場合ではありません。感情のこじれを放置していた頃の自分を改めて振り返り、ついこんなエラそうな屁理屈を捏ねてしまいました。

“親しき仲にも礼儀あり” 
偏屈でひねくれ者の私としては、精々こんなところで手を打ちたいというのが本音です。投稿した中学生のような素直な感性は、遠の昔に錆び付いてしまったようなのです。

 最後に例のごとく余計な一言を。
やってあげていることが自分で “当たり前” と思えているなら、何ら問題ありません。心おきなくご随意にお続けください。



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これって言いがかり?

2016-12-20 06:53:25 | 自分史
11月末にしては日差しが温かい日だった。
スーパーの店頭のベンチで昼食を摂っていると、一人の老婦人が声をかけて来た。
「ご一緒してもよろしいですか?」
私は素早く荷物を片付け、席を空けた。
「外で食べるのは美味しいでしょうねぇ!?」
「家の中で一人で食べるより格段に旨いですよね。」
「いつもお一人なんですか?」
「昼間は一人です。」
しばらく他愛のない話が続き、現在、彼女は85歳と教えてくれた。
肌に張りのある顔からは、10歳ほど若く見えた。

いつの間にか身の上話になった。
「私は、生まれてずっとここで暮らして来たけど、・・・
 住めば都と言うでしょう?! あなたにとって、どうですか?」
「ここはとても住みやすい所ですよねぇ。ずっとここでお住いで?」
と相槌を打った。
「私は一人娘で、ずっとここなんですよ。」
「一度も家を出たことがないんですか?」
「そう、一度も。女学校を卒業すると、すぐにお見合いで、婿を取ったんですよ。女学校は18歳まででしたから、その頃は私も女らしいふっくらした体型だったんですよ。・・・」
どうやら彼女は女学校卒が自慢らしかった。

一人娘、女学校卒、婿取りと聞いて、私はつい自分の母親を思い出してしまった。
「ウチの母親も全く同じでした。一人娘で、婿取りで、我儘放題で、・・・ 自分の思い通りに成らないと父に当り放題でした。父が可哀そうで、・・・正直、自分本位のところが心底嫌いでしたね。」
これで彼女は明らかに気分を害したようだった。
「さぁ、主人が待っているから帰って夕飯の支度をしなきゃ・・・。主人は93歳になるのに元気でネ、今はTVの相撲観戦に夢中なんですよ。」こう言うと、献立の予定を尋ねても答えず席を立って行った。

一人娘だからと言って我儘だと決めつけられては、誰だって堪ったものではないだろう。母親のことになると、ついムキになってしまうのが未だに直らない。初対面の相手ということを弁えず、先入観だけで決めつけてしまう。・・・と反省してもどうにもならない。平常心で他人に応対などと、一体どこの誰が言っていたのだろう? 何とも罪なことをしたとは思う。
それでも気になるのは(彼女にとって)、はたして、お門違いの言いがかりだったのだろうか?



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