先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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大島製鋼所争議 1922年主要な労働争議⑭ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)

2021年11月19日 09時00分00秒 | 1922年の労働運動

大島製鋼所争議 1922年主要な労働争議⑭ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)

大島製鋼所争議
参照
「日本労働年鑑第4集」大原社研編
「本年の労働運動界」山川均

(姑息・卑劣な会社)
 東京大島の大島製鋼所では1920年にも賃上と8時間労働制を要求するストが起きたが、裏切り者の出現と官憲の弾圧により敗北した。以来大島製鋼所の労働者は心の内に満腔の怒りを抱きつつ、極めて低い賃金を耐え忍んでいた。本年1922年8月ようやく平均3割の増給が実現した。それなのに、9月14日の給料支払日、従来平均6分の歩合が、なんと2分3厘に減らされていたことが発覚した。総収入は増えるのではなく逆に減少していたのだ。労働者は会社のこの悪辣な手段に激怒憤激した。月2回ある次回の給料日の9月30日には動力部労働者7名の賃金支給袋から歩合金が丸まる消えていた。しかもそれは新任組長の高い給料の一部に引き当てられていたことも分かった。すぐに7名の動力部労働者は会社に組長排斥を申し出たが、会社は逆にこの7名をすぐに無手当のまま解雇してきた。ついに、ここに至っては長い間の憤懣の情をおさえていた大島製鋼所労働者ももう黙ってはいられない。260名の労働者は、10月5日「日給歩合4割増し、解雇手当・退職手当の値上げ」他の要求を提出した。7日、会社は歩合7厘の増額は回答してきたが、残りはすべて拒否してきた上、サボタージュ闘争への対抗として10日から工場全面閉鎖を断行し、12日には40名を解雇してきた。

(闘い・弾圧)
 労働者は大島労働会館に争議団本部を設置し抵抗に立ち上がった。とたんに多数の警官隊が争議団本部を襲撃し、争議団本部での集合の解散を命じてきた。ここで5名が検束された。10月20日夜の経過報告・会社糾弾演説会も官憲による解散命令で3名が検束された。30日の給料支払い日もさらなる警官との衝突がおきた。
 11月2日歩合金支払いの約束のため、労働者130名が会社に入場しようとするや警官隊は固く門を閉じて労働者の入場を阻止してきた。しかし、労働者は門を破り、なだれをうって突入し、事務所や工場のガラス戸を破壊し、官憲との間で大乱闘を演ずるに至った。この場で労働者のほとんど全員が検束され、63名は収監、13名が拘留とされた。

(解決)
 11月12日争議団代表と会社は以下の協定を締結して大島製鋼所1922年の争議は一応解決した。
  一、解雇された70余名に対して総計4千圓手当支給
  一、収監者63名に対して1千圓支給
  一、罷業(争議)団に対して1千圓支給

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(*山川均は言う)
「資本家階級の攻勢をもって開かれた大正11年の幕は争議団全部を検束し60余名の収監者を出した大島製鋼所の争議における、ブルジョアの暴虐をもって閉じようとする。我々は大正11年に与えられた経験を、最も有効に、大正12年の闘争に現はさねばならぬ。(*「本年の労働運動界」1922年11月13日)



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