先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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野田醤油争議(その四) 資料  1927年の労働争議

2023年10月26日 08時34分37秒 | 1927年の労働運動

野田醤油争議(その四) 資料  1927年の労働争議
参照「日本労働年鑑第10集/1929年版」大原社研編
  「協調会」史料
  『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
  『野田大労働争議』松岡駒吉
  『野田争議の顛末』野田醤油株式会社

野田醤油株式会社
 千葉野田の地に醤油醸造が始ったのは300余年の昔のことで、特に名が知られたのは徳川時代の中頃であった。特に利根川、江戸川の間にあって舟便の良さと近辺農村の小麦、大豆の生産、そして大消費地たる江戸に近かったことで隆盛を極めた。
 1917年(大正6年)、千葉県野田町の茂木家など八大醸造家が合同し、野田醤油株式会社を創設した。1925年(大正14年)には3か年を費やした最新鋭の機械化された第十七工場を建て、野田町に16ヵ工場を持ち、行徳町にも1工場、流山に萬上味醂会社、そして朝鮮仁川に「朝鮮日本醤油株式会社」として大々的に進出した。醸造工場の下請け企業や丸三運送店など陸運・河川運送の会社や樽製造会社、機械工場や醤油・味噌問屋や商店のみならず、野田町の料亭、映画館、劇場、旅館、町唯一の金融機関野田商誘銀行や野田病院なども茂木一族や会社が経営していた。茂木家の勢力は絶大で、1927年当時の資本金は3千万円、年間50万石の生産を誇り「亀甲萬(キッコーマン)」の銘は全国で有名になり、海外にも年30万樽を輸出し、皇室に醤油を提供する大御用商人でもあった。野田本社と東京、大阪、横浜、京城、奉天に出張所、仁川に支店を置いた。

茂木一族
 野田醤油株式会社社長 茂木七郎右衛門
 同常務取締役 茂木七左衛門、茂木佐平治
 工場課長 並木重太郎
 顧問 太田霊順(元牧師)
 嘱託(元協調会) 矢吹一夫
 
 町長 茂木要右衛門
 区長 茂木熊蔵
 町会議員 茂木一族多数
 その他学務委員、在郷軍人会、野田町軍友会長、消防組組頭らを茂木家が占めていた。

 茂木家の結婚式には、町の中央通りを白砂を撒いて一般人の通行を禁止し、その道を花嫁ら一行が進んだという。茂木佐平治の大豪邸は、総工費100万円を投じ、表門だけでも一万円を費やしたという。

野田町民 1万6千7百名
 その内、野田醤油会社従業員2,092名、樽製造労働者1,171名、陸・河運送労働者250名その他100名計3,613名。

労働条件(前述「野田醤油争議(その一) 奴隷から人間へ)
リンク

従業員数
 社員(職員)300名
 労働者約3,000名

労働組合 日本労働総同盟野田支部(のち日本労働総同盟関東労働同盟会関東醸造労働組合野田支部)
 結成 1921年(大正10年)12月15日
 野田支部委員長 小泉七造
 争議団長(野田支部主事) 小岩井相助 
 副争議団長(関東醸造組合主事。直訴事件) 堀越梅男

 1921年、日本総同盟野田支部結成時300名 組合費毎月40銭(闘争資金の積立)
 1922年、行徳第十六工場労働者も加盟、白木工場、南盛堂印刷所、中葱味噌工場、岩名工場(大日本醸造株式会社)、丸三運送店、野田運輸会社等全部の労働者が組合に加盟した。組合員約1500名突破。
 1923年、関東醸造労働組合を結成。27年には14支部組合員3,245名。関東醸造労働組合は総同盟関東労働同盟会(会長松岡駒吉)に属した。野田支部は、日本総同盟関東労働同盟会関東醸造労働組合野田支部となった。

野田支部結成以来の争議
 1922年 樽工問題、御用団体結成粉砕闘争、小泉七造暗殺謀略事件
 1923年 待遇改善闘争 2400名、28日間スト
 1924年 会社の食言問題(約束不履行)
 1925年 小麦過剰問題

1927年野田支部の要求
要求項目(その一)
 丸三運送店問題の解決要求(1927年9月13日)
 一、今迄通り全部の荷物を丸三運送店に!
 二、組合切り崩し攻撃の中止!

要求項目(その二)
1927年4月10日第一回提出。9月13日再提出
 一、賃金値上げ(女性2割、男性1割)
 二、解雇手当・退職金等の増額
 三、各工場の樽工を会社が直接正社員として雇用し養成すること
 四、年末賞与、最低賃金の一ヶ月分の支給
 五、すべての労働者を入社4年で熟練工と適用すべし
 六、日雇い労働者に対しても扶助規定を適用し、現在の半額から全額支給すべし
 野田支部は5月1日からのストライキを決めていたが、総同盟本部は野田支部の要求の保留とスト中止を決めさせた。9月13日野田支部は「団体協約権」を追加し再度要求を会社に提出した。

戦前最長の216日ストライキ(1927年9月16日~1928年4月20日)
 野田醤油         216日
 浜松日本楽器       105日
 横浜ライジング石油    105日
 日本紙業株式会社大阪工場 103日
 大阪大理石工場        86日
 東京池貝鉄工所                    77日

1927年の野田争議参加者数
スト参加者 1,409名(第一~第十六工場)
 丸三運送店    97名
 舟業(スト参加者) 139名
 製樽工場 195名
 白木工場  約70名
 日雇い、自由労働者 約180名
          計1,853名

脱退者(スト破りの裏切者) 計341名

非組合員(もともとスト不参加)
 第十七工場 320名
 修理工場   34名
 試験場    10名
     計364名
 
スト破りの為の新雇用労働者(1927年10月~12月) 計562名

ストによる損害
 会社   200万円以上
 争議団 50万円以上

争議中、会社側が暴力等で官憲に検挙された人数
 会社側の暴力団などの検挙者数。殺人未遂3件(1名)、傷害4件(7名)、暴力行為10件(59名)、不法監禁1件(2名)、銃器違反3件(8名)、船舶侵入1件(1名)、誣告1件(1名)、その他5件(38名)の計28件117名。

争議団が官憲に検束された人数
 官憲によって争議団が検束された件数と人数は、騒擾罪1件(96名)、暴力行為13件(32名)、傷害4件(4名)、営業妨害2件(2名)など総計39件191名。他に直訴事件の堀越梅吉は懲役6ヶ月、硫酸事件の野口三郎(懲役8ヵ月)らは獄中にいる。

争議中の解雇総計 1,047名

1928年4月20日争議解決
 300名復職 747名解雇
 解雇手当一人平均413円、総額45万円

以上

次回予定
野田醤油争議(その五) 憎さ百倍となった会社の大巻き返し 1927年の労働争議(読書メモ)



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