先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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残酷非道な組合つぶしの住友財閥と闘った別子銅山争議(1925年~26年) 1925年主要な労働争議 (読書メモ)

2022年07月11日 07時26分12秒 | 1925年の労働運動


残酷非道な組合つぶしの住友財閥と闘った別子銅山争議(1925年~26年) 1925年主要な労働争議 (読書メモ)
参照 「協調会」史料(別子銅山労働争議顛末記)
   『足尾暴動の史的分析ー鉱山労働者の社会史』二村一夫著作集

 1、はじめに 余りにも残酷非道な住友別子銅山の組合攻撃

住友別子銅山争議
 住友財閥が経営した愛媛県新居浜(にいはま)の別子銅山では、賃上を求めた1907年(明治40年)の争議は暴動化し、弾圧のために軍隊が出動、同時期に起きた足尾銅山争議とともに重大な社会問題となった。1924年10月1日、日本鉱夫組合別子鉱山支部(総同盟大阪聯合会長山内鉄吉が組合長)が結成され、別子銅山労働者1,600名は次々と別子支部に加盟していった。1925年支部組合は、臨時雇い制度撤廃などを要求して闘いをはじめた。住友別子銅山側は職場に御用暴力集団を組織し、すさまじい暴力や買収で組合員の切り崩しを行ってきた。12月9日には御用組織「改善会」500名は支部組合事務所を襲撃し、組合員に大怪我を負わせた。この住友資本の暴力攻撃に、別子銅山労働者も必死に抵抗し、1,600名の全面ストライキで決起した。

 1926年に入るや、住友別子銅山側は争議団の中の労災・公傷治療中労働者の治療打ち切り、扶助停止と解雇を次々と発表してきた。その発表の仕方も、今日は2名、明日は5名、その次の日には1名・・・という残酷極まる発表のやり方であった。これほど非人間的な前代未聞の組合攻撃はかつてあっただろうか。こうして別子銅山は僅か2ヵ月余りの間に172名もの労働者を次から次へと解雇してきたのだ。しかもその多くは労災で傷病治療中の労働者であった。解雇された労働者の中には、家族ともども、泣き泣き仲間の元を去り山を下りる者も増えていった。組合は切り崩されていった。住友資本の本性、悪虐非道のやり方であった。これが「温情」を売り物にしていた資本家階級、住友財閥の本当の姿であった。

 追い詰められた争議団、というより争議を指導した総同盟と日本鉱夫組合の幹部が「最後の手段」を決意し、ついに住友男爵邸襲撃、発電所の水路破壊などの過激な行為で必死に反撃しようとした。しかし、これは余りにも悲しくも愚かな戦術であった。敵は大喜びをして弾圧と攻撃をエスカレートさせ、ついに争議団は全面敗北するのだった。

 結局、愛媛県知事の調停で、総同盟と日本鉱夫組合幹部は、大量解雇を認め、解雇者への金一封の支給を受けて争議を終息させた。

2、経過 1925年争議1,600名のスト
(日本鉱夫組合別子鉱山支部結成)
 1924年(大正13年)10月1日、約1,600名の別子銅山労働者が結集した日本鉱夫組合別子鉱山支部結成大会が開催された。

(臨時雇用制度廃絶を要求)
 別子銅山では前年以来、臨時雇い労働者2名の解雇を巡って争いが起きていた。銅山労働者は解雇撤回要求だけではなく、そもそも退職手当もないという差別制度の「臨時雇用制度」そのものの廃絶を求めた。また銅山の現場で頻発する労災の被害者に対する会社の非人道的対応に対して、「会社の負傷者虐待」だと怒った。いずれも人間として、ごく当然のあまりにも正しい要求であった。しかるに住友別子銅山は坑内に暴力集団を組織し、労働者のこの切実な声を暴力で弾圧してきた。

(総同盟25年大会鉱山闘争方針決定 神戸又新日報記事1925年3月18日付)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00773736&TYPE=HTML_FILE&POS=1
 1925年3月の日本労働総同盟全国大会の三日目に、「婦人及少年が鉱山に於いて虐使されつつある」とする「女性と少年坑内就業禁止」と日本鉱夫組合加藤勘十から鉱山病『ヨロケ』の件について「不衛生な坑内労働の実況や同病による死亡率は坑夫の全死亡数の六割を占めると満場を戦慄」させた報告があり、また別子銅山の暴力的組合弾圧問題や長崎県先戸炭鉱の坑夫虐待問題が緊急動議として提出され、いずれも日本労働総同盟大会として今後鉱山闘争を全力で闘う方針を可決した。

(日本鉱夫組合別子鉱山支部)
 1925年には、別子銅山全労働者5千名中、約1,600名が日本鉱夫組合別子鉱山支部に加盟し、銅山側の暴力や不当解雇を糾弾し、4月に入ってからは連日多数で組合旗を押し立て鉱業所門前に押しかけた。

(「飯場制度」と「友子同盟」)
 全国の鉱山にある「飯場制度と友子同盟」(*注)は会社の労働者支配の道具であった。住友別子銅山でも200年来続いているこの「飯場制度と友子同盟」で銅山労働者を支配し、この中間搾取制度を擁護し続けた住友資本の御用暴力団組織結成もこの飯場制度と友子同盟を利用した。
*注『足尾暴動の史的分析ー鉱山労働者の社会史』二村一夫著作集
(「飯場」・「友子同盟」)
http://nimura-laborhistory.jp/ashio-2-2.html
http://nimura-laborhistory.jp/ashio-1-3.html

(会社、御用暴力団「改善会」を組織する)
 会社は、日本鉱夫組合別子鉱山支部に対抗するために、1925年2月に職場にいる在郷軍人の「帝国在郷軍人別子工場分会」を結成し、続いて9月に新たな約3,000名の「改善会」なる御用労働団体を大々的に組織した。
決議
「・・・陛下のご慈愛と祖国及大和民族の将来に対する御深憂とを拝して・・・一致団結して・・・部落の改善と産業の発達と国家の興隆に資すんことを期す。右盟約す。大正十四年九月十五日」

 これ以後、全山の職場においても、また生活している各地域においても御用組織「改善会」と日本鉱夫組合別子支部の組合員の間で衝突が頻発した。また、会社は、臨時雇用制度を改める必要と根拠はない、「負傷者虐待」についても誠意をもって救済に努めている。また、解雇した2名は本人らの不良性や凶暴性に原因がある。2名は労災で休業中にもかかわらず、大酒をくらい不詳事件を起こしている。銅山の秩序維持のため2名の解雇は正当だと等々、労働者の要求をことごとくはねつけた。そして御用組織「改善会」を使って盛んに別子鉱山支部の切り崩しを起こしてきた。

(労働者の抵抗)
 1925年11月1日、鈴木文治、山内鉄吉、安芸盛ら総同盟と日本鉱夫組合幹部が18名来山し、別子労働組合大会創立一周年記念演説会と大会を開催。組合幹部を熱烈歓迎した鉱山労働者が多数押しかけたこの大会で、一、不当解雇の件、一、負傷者虐待の件、一、臨時雇用制度撤廃の件他が決議された。

 11月2日より大衆闘争始まる。
 11月21日、10月26日に組合員が別子黒石駅員に傷害を加えたとされ、2名が検挙される。
 11月24日、組合幹部鈴木悦次郎ら20名が所長に面会を要求するも拒絶される。この際鈴木悦次郎が一時検束される。組合は持久戦を予想し物販や炊き出し体制の準備をはじめる。
 11月25日、東京からは加藤勘十らが応援に来山。
 11月30日、別子銅山労働者向けビラ2千枚配布。
 12月1日、演説会開催。聴衆約600名。組合は多くの労働者の連判状と12か条要求を決議。
 12月2日、御用組織「改善会」に鷲尾労働課長自ら出向き講演。
 12月3日、組合は毎日組合員宅を個別訪問し、連判状の署名を集める。
 12月6日、夜に馘首された3名が肥料製造所工場に立ち入ったとされ検束される。組合は鉱業所長に対し、嘆願書の受理と面会を要求し夜を徹して闘う。
 12月8日、組合は鉱業所長にこの日も夜を徹して嘆願書の受理と面会を要求した。
 
(会社側暴力団「改善会」500名が組合本部を襲撃)
 12月9日夜半、会社側が組織した職場内暴力団「改善会」約500名が組合本部を襲撃し暴力・暴行の限りを尽くした。たまたま本部事務所にいた10数名の組合員は必死に防戦するも大怪我を負わされた。警察が「改善会」多数と組合員8名を検束した。組合はその夜非常召集をかけた。

(全面ストライキ決行)
 12月10日、日本鉱夫組合別子鉱山支部は臨時大会を開催し、ストライキ決行を決議した。そのまま多数の労働者は鉱業所門前に押し寄せ、昨夜の銅山「改善会」の組合事務所襲撃を糾弾した。このまま夜を徹して闘争を繰り広げた。また、檄文を四方に飛ばして応援を求め、12月11日夜から約1,400名の全面ストライキに突入した。本社の大阪住友総本店への要請行動も決めた。

 麻生久、山口常吉ら来援に駆け付けるも住友銅山側は頑として総同盟と日本鉱夫組合との面会・交渉を拒絶し続けた。

 12月12日、銅山側(改善会)と組合側両派互いに対峙。
 12月13日、争議団大阪総本店へ向けて出発し、16日に総本店側と正式に面会した。

(坑道入口ピケ闘争敢行)
 12月14日から連日、争議団数百名が、第4通道抗前でスト破り(入坑)阻止の大ピケスト決行。これを弾圧する官憲と衝突。
 12月22日、麻生久来山。
 12月23日、加藤勘十以下百余名と「改善会」60余名が対峙し、あわや衝突となり、組合側の2名が治安警察法違反で検挙。
 12月24日、争議団、婦人労働者代表5名を住友夫妻宅へ派遣し、直接面会し早期の解決を求めることに決定。
 12月25日、婦人代表派遣演説会開催。

3、会社、労災労働者の治療・扶助打ち切りと大量解雇攻撃
 12月27日、71名の組合員に解雇攻撃がでる。住友別子銅山は、公傷休業中の労働者に対し、「大多数は仮病患者だ」「労災ではなく自己の過失なのに、偽証している」「傷病はすでに治癒しているのに疼痛を訴え、治療期間をわざと伸ばしている」と扶助打ち切りと解雇を通告してきた。71名の解雇者の中の49名が公傷で治療中の労働者であった。61名が家族持ち、単身者は10名であった。なんという非道な仕打ちでしょう。

 12月28日、争議団、71名の解雇通知をまとめて突っ返す。重役私宅包囲闘争、4名が検束。
 12月29日、争議団、重役私宅への抗議行動、面会要求。

4、総同盟と日本鉱夫組合幹部のあまりにも誤った戦術
(住友男爵邸など襲撃と発電所水路破壊計画)
 1926年(大正15年・昭和元年)1月1日、午前4時、年賀と称し数百名争議団が鉱業所前で示威行動、また労働課長宅周辺で糾弾闘争。数名が検束される。午前11時総本店小倉理事宅に2名が侵入し、家財器具などを破壊して去る。午後2時半、住友男爵の住吉本邸を5名が襲撃し家具などを破壊。この場で2名が逮捕されるが3名は逃亡。
 1月3日、午前3時争議団100余名が出撃しようとするも官憲によって阻止される。
 1月4日、住吉本邸と小倉邸襲撃で、3名が警察署に自首し検挙される。
 1月6日、応援演説会開催。続いて8日尼崎、9日住吉、12日神戸、13日高砂、14日加古川と連続演説会を開催。この日争議団数百名が発電所に向かおうとして官憲に阻止され、数名が検束された。西九條青年会館において、大阪電線工組合と機械工組合島屋支部主催による応援演説会開催。聴衆約200名弁士18名。
 1月6日、争議団40名、発電所襲撃を試み警察隊に阻止され、解散を命じられる。
 1月7日、争議団2回の示威行動で数名が検束される。
 1月8日、小倉理事宅襲撃で一人検挙。組合演説会約400名で結束を固める。
 1月9日、日本総同盟本部より激励電報と大阪方面よりカンパ届く。
 1月11日、日本総同盟鈴木文治会長ら争議団本部に来て、別子鉱山争議を全力で応援すると声明。 
 1月12日、検束者3名。夕方神戸で演説会聴衆約300名、弁士麻生久など。
 1月16日、尼ヶ崎図書館において住友糾弾演説会約300名。
 1月17日、争議団は、「戦勝祈願」と称する示威行動を一本松で計画。「改善会」が襲撃。殴る蹴るの暴行を加え、婦人労働者土井ヤクが重傷を負わされる。

(解雇と扶助・治療打ち切り続く) 
 1月19日、組合員2名を解雇、公傷者30名の扶助打ち切り。
 1月20日、会社公傷者治療の打ち切り5名。6名の組合員解雇。
 1月21日、私傷病者13名を仮病と決めつけて治療を打ち切り。
 1月22日、組合員5名解雇、公傷者扶助打ち切り3名。
 1月23日、会社公傷者8名の扶助打ち切り。16名の私傷病者は全治したので私傷病扱いを打ち切る。争議団、六甲登山と称して住吉本家付近への大示威行動計画し、官憲から阻止される。
 1月24日、公傷者1名の扶助打ち切り。
 1月25日、組合員4名解雇、2名の公傷扶助打ち切り。
 1月27日、組合員4名を解雇、11名の公傷者扶助打ち切り発表。争議団天王寺公会堂において総同盟大阪聯合会主催約800名で糾弾演説会開催。
 1月28日、公傷者4名の扶助打ち切り発表。
 1月30日、組合員3名解雇。
 1月31日、公傷者3名の扶助打ち切り。
 会社はその後も公傷休業中の労働者を「公傷は全治した」と次々と治療と扶助支給を打ち切り、解雇してきた。また解雇した公傷中の労働者の治療と扶助支給も打ち切ってきた(最終的には解雇者は172名にものぼった)。
 2月2日、公傷者1名の扶助打ち切り。
 2月3日、公傷者15名の扶助打ち切りと3名を解雇。天王寺公会堂で労働立法反対労働者大会と演説会1200名で、緊急動議として別子銅山争議へ激励電報が決議された。
 2月4日、組合員6名を解雇、この時点で解雇者は昨年12月27日以来計110名にのぼった。

(組合員各自こん棒携帯を決める)
 2月5日、争議団、「改善会」の襲撃に備え、各自こん棒一本を携帯することとした。
 2月6日、公傷者5名の扶助を打ち切り6名を解雇。組合員山本耕馬の葬式に争議団は支部旗を立て労働歌を高唱して皆で参列。
 2月7日、組合員7名を解雇。
 2月8日、多くの争議団員が手に手にこん棒を掲げ発電所襲撃を叫び向かおうとしたが、警官隊に阻止される。組合員17名が解雇される。この日、大阪区裁判所で検事は、小倉理事宅襲撃事件などに対し懲役1年等の求刑をした。
 2月9日、争議団20名はそれぞれこん棒を持ち気勢をあげつつ「登山」を行い、2名が検束される。組合員2名が解雇される。
 2月10日、別子銅山、この日さらに15名を解雇、内9名は公傷中で休業している労働者だ。警察は争議団に、こん棒の携帯や夜間の行動を禁止した。
 2月12日、組合員5名解雇される。

(発電所水路破壊)
 2月13日午前3時半、鉱業所発電所貯水池の水路を破壊していた応援者6名が現行犯逮捕され、別の施設を破壊した応援者3名も西条警察に自首した。 会社、公傷者6名の扶助を打ち切り、解雇。
 2月14日、発電所水路破壊事件で警察の介入と弾圧がますます激しくなる。水路破壊を争議団に無断で行った事に争議団内部でも非難の声が強まり、県知事への調停依頼が決定される。会社はこの日さらに組合員5名を解雇する。これで解雇者は合計172名にのぼった。

5、惨敗
 2月16日、愛媛県知事が争議団側西尾末広ら2名、銅山側は所長、労働課長を知事室官邸に招き調停し、争議団が「解雇を認め金一封の支給」を受け入れて争議は終息した。この日の夜8時からの全組合員集会では幹部の報告に激昂する争議団員により一時喧噪状態となるが、ついに明け方午前4時に至り惨敗のやむなしと幹部の処置を承認し、知事の斡旋案を全面的に受け入れることとなった。

 2月18日、入獄中の組合員山内鉄吉や鈴木悦次郎ら7名は保釈釈放された。21日、水路破壊で更に2名検挙。
 2月22日、23日と加古川、高砂において別子銅山大争議報告演説会が開催された。
 2月24日、中之島中央公会堂おいて総同盟主催による別子銅山大争議報告演説会が約1,200名参加で開催され、鈴木文治、麻生久、西尾末広などの弁士が登場した。

(総同盟幹部の総括発言)
 2月24日別子銅山糾弾演説会  大阪市中央公会堂 約800名  入場料30銭 (検束者西尾ら2名)
西尾末広「(一)御用組合の弊害、(二)住友の暴に報いるに暴をもってした。(三)今回の争議は我々の階級意識をためされた」
麻生久「今回の争議は新旧思想の衝突であった。」
鈴木文治「(一)団結権の必要、(二)今回の争議は大正労働運動の哀史を飾るものである、(三)今回の争議は、黄金の力と正義の力の戦であった。」

6、私の感想
第一に、別子銅山労働者の要求について
 現代の私たちが苦しんでいる非正規差別を100年近く前の先輩鉱山労働者が、「臨時雇用制度撤廃」を要求し、かの住友財閥という日本資本家階級の最大のボスの一つと真正面から文字通り体を張って、これほどの血を流す闘いを繰り広げていたのです。なんと先駆的な要求と闘いでしょう。

 非正規差別を、派遣労働者差別を一刻も早くこの社会から無くそう! 

第二に、住友資本の悪虐非道について
 住友資本は、ストライキをつぶす為に、銅山の過酷な労働の中で怪我や病気の労災治療中の労働者の扶助と治療を打ち切り、その上解雇してきます。しかもそのやり方が連日何人づつというえげつなさです。解雇された総数172名にものぼっています。御用組織を使っての暴力襲撃もあります。資本家階級の残酷性、無慈悲性の本性そのままです。職場の中の御用組織を使うやり方は、現代の「二組」「御用組合」にも通底しています。 

第三に、総同盟幹部らの誤った戦術について
 住友資本の連続した暴力と非人道的組合つぶし攻撃に対し、たまりかねた総同盟幹部らは発電所水路破壊や住友男爵邸宅襲撃で反撃します。西尾末広は、「住友の暴に報いるに暴をもってした」と言っています。仲間を助けるために、こちらも必死に力で対抗することは、それ自体はあり得る話です。しかし、ここではあまりにも稚拙な戦術です。誰が考えてもこれで勝てるとは思えません。しかもこれらの戦術の実行者は外から駆け付けた応援者がしていたようです。これでは仮に一時的に勝てたとしても、誰の勝利なのか分かりません。どんなに苦しくても、どんなに時間がかかろうとも労働者自身の全員の闘いと持久戦で、現場で闘っていく。たとえ敗北するにしても闘っている当時者自身が選択決定していく、その道があったはずです。

 西尾ら幹部の「大衆蔑視」が生み出した「代行主義」による発電所水路破壊や住友男爵邸宅襲撃だったのではないでしょうか。ですから、解決の時も「ボス交渉」で終わらせています。後で争議団員から激しく非難されています。

 大衆蔑視と代行主義は今の私たち自身も真剣に考えなくてはいけない問題だと思います。



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