『溶鉱炉の火は消えたり』浅原健三著(十三~十四)
―八幡製鉄所の大罷工記録—
十三 一歩退却
七日、第三日目、職工はやはり入門しない。罷工(スト)は続く。
朝から検束を解き始め、昼頃までに百余名を帰す。
昼食を食っていると、野村署長がやって来て、製鉄所から回答のあったことを知らせた。
八時間労働制は調査の上で回答する。割増金は本給に繰入れる予定で第四十二議会に予算案提出中である。割増金の不平等は仕方がない。宿舎は建て増すが住宅料はやれぬ。職夫賃金の割増はこれも予算に計上している。
だから、「罷工なんて不都合なことはよせ」という「回答」でない「諭告」と称するものが発表せられたのだ。
「これで職工は納得すると思うが、君はどうだね。」
「私は承知するもしないもない。検束せられているんだから。」
「罷工はやめるだらうか。」
「一応はやめたことになるかも知れん。しかし、又やるかもしれませんね。そんな人を喰つた回答では……。」
「いや、もうやらない。」
製鉄所は右の「諭告」を出すと同時に、九日までの臨時休業を宣した。当局は毎日、今日は何百何千入門した、罷工団は崩れたと盛んに新聞宣伝をやっていたが、空宣伝だった。トウトウ甲(かぶと)を脱いで休業してしまった。
八日、第四日目の昼頃、誰からともなく、応援の巡査がサボリ出したという噂がたった。当時は、福岡県下一円、九州中、広島、姫路あたりからまでも応援巡査が繰りこんでいる。総勢約一千人が天幕(テント)張りの宿所に殆ど野宿も同然だ。食事は製鉄所工余倶楽部からの焚出しだが、駅売弁当の半分量位の飯におカズは梅干と沢庵きりで、検束、捜査、工場内外の警備等、不眠不休で働き続けているのにこの粗食、冷遇。グズり出したのも無理はない。待遇改善を叫ぶ者を××する者から待遇改善が叫ばれる。皮肉な。
三時頃、福岡刑務所小倉分監送りの示達を受けた。巡査三人、憲兵二人に護られて警察署を出る。旭座前の停留所に来ると、「労働組合同志会発会式」の戸板一杯の大広告が出ている。同志会はその翌、二月九日、記録工の勝部某を会長とし、後に同志会の主事、国際労働会議の労働代表顧問として鈴木文治に随行したことのある中田末三郎を中堅として発会式を挙げた。これぞ製鉄所長官が労友会に対抗せしむべく計画していた協調組合である。時は二万の職工が死活を賭しての罷工真最中、我等十人が小倉分監に入監式をやった翌日、今の社会民衆党八幡支部の母胎、官業労働連盟の一構成分子たる同志会は生れ出たのである。労友会の残留幹部は此の発会式に抗議すべく立会演説を申込んだが、勿論拒絶せられた。余憤(よふん)を猛烈な弥次に爆発させて、遂いに発会式を押し潰して仕舞った。翌日、荒生田に設けられた同志会本部の看板は、誰かに引き剥がれ、鉈(なた)で散々に打ち割られて路傍に棄てられた。その後も労友会と同志会との対立抗争は一層深刻になりストライキ終熄後も工場内で双方の会員のなぐり合いが絶えなかった。じらい十年、両者間の溝は塞がれないで、二つの左右両翼に対立する無産政党として抗争が続けられている。
休業明けの十日、罷工開始後六日目、職工の大半は入場した。指導者を失った罷工団に是れ以上の持久力は無い。今はひと先づ罷工を打切るの余儀なき羽目に陥った。
だが、この罷工には必然の根拠があった。彼等の胸裡(きょうり)に鬱積(うっせき)する不満の消え去らないかぎり、抗争は熄(や)まぬ。××××××××××威圧に極度の憤懣を抱きながら、不承無精(不承不承)に職場に就いたが、怠業(サボタージュ)だ。彼等は屈服してはいない。血みどろの身を振い起して、再度、必死の闘争を開始すべく身構えていた。
十四 余燼(燃え残っている火)
寸時(しばらく)、焔は消えた。しかし、余燼は、消え果つべく余りにその根源が深い。
製鉄所は従業員の、切実、必死の要求に報くうるに「諭告」をもってした。諭告とは何か。一枚の紙片であり、一片の儀礼を装う、労働×××である。労働条件はすこしも改められない。予約でさえもない。予算に計上せられてはいるだらう。しかし、不通過にならぬ、修正されぬと誰が保証し得よう。しかも、第四十二議会は解散の危機にある。労働者はこの諭告に、何の希望も、曙光も認められない。前途は暗澹(あんたん)だ。所詮、要求は拒絶せられたのだ。労働者の血の叫び、××の欲求も当局者の官僚的打算の前には、何の人間的価値も、社会的意義もない。
加うるに、復業以来、強制労働だ。憲兵は××××を擬して要所要所に見張ってゐる。巡査はサーベルをガチャつかせて××を張る。賃金奴隷の余りにも惨めな姿。憤懣は高潮する。無理解、無誠意、理不尽な弾圧は労働者の××心を唆(そゝ)るのみだ。第二の爆発は必然だ。然り。××と××とは、火に注ぐ油である。
私に万一の事があった場合、誰に後事(こうじ)を委ねるか。私はその人選に苦心した。そして、熟慮幾夜、旧友加藤勘十を選んだ。彼は当時、東京毎日新聞の労働記者をしていた。昨年末上京の際加藤にその旨を語り、検挙せらるゝ直前、幹部にも言い残して置いた。加藤は急電を受けて、十日来幡。労友会々長代理として、統制の任に就いた。
二月十日、午前中、労友会の残留幹部は長官に会見して、要求に対する長官自身の明答を求めた。長官は七日の諭告以上一語の附加すべきものなしと峻拒(しゅんきょ)した。
午後、労友会及び友愛会本部の二個所で、長官との会見顛末報告演説会。席上、主務省並びに議会へ愬(うった)えるための委員、浅原鉱三郎、工藤勇雄の二名を選定。友愛会からは藤田俊二郎、木村錠吉の二人が上京することに決定。鉱夫協会からも本田真夫が同道した。
上京委員は十五日友愛会本部に鈴木会長、松岡主事と会合、協力を求めて、十六日、浅原(鉱)、工藤、本田の三人は鈴木文治を介添役として貴族院内の大臣控室で当時の農商務大臣山本達雄、四條工務局長等と会見した。詳(つまび)らかに状勢を述べて、誠意のある処置を希望したが、内心当惑しきっていながら、山本は木で鼻をくゝるような挨拶。委員は「今のまゝでは第二回の爆発は到底避け得べくもない。しかも、今度は×××する傾向が顕著であるから」と、切々献言したが、山本は、「それも仕方がない」と取り合わぬ。その筈だ。当局の態度はガムシャラな××、徹底的な××ときまっている。
それは二月六日、第一回争議勃発の翌日、山本農相が東京朝日新聞記者への談話でも明瞭である。
「何等の要求も示さないで、唯当局に対する反感から突発したような罷業なら考慮の余地もあるが、あゝいう要求を掲げ、しかも、計画的に暴動をやったのだから、厳重に取締まる外はない。事件は内務省の手に移し、警察は無論、軍隊までも出して高圧手段をとって貰うつもりだ。一時間も休めぬ溶鉱炉を中心とする製鉄所が八時間労働なんて例は世界のどこにもない。暴動の首謀者は直ちに処分し、煽動者、雷同者もどしどし検挙する。」
×××――と××――の手による弾圧、それで事件を解決すべく、又解決し得るという腹でいる当局に、職工の心理、現下の情勢が認識出来る筈はない。何時でも、何処でも、強者は弱者、支配者は被支配者の×××を軽量する。而して遂いには×××される。
委員は更に当時の警保局長川村竹治、警務課長横山助成に会って、福岡県警察部の不当な弾圧に抗議したが、固より耳を傾けない。上京する筈の白仁長官を待ったが、彼も来ない。彼等は万策尽きて、後事を鈴木文治に委任して帰幡した。
上京委員の報告演説、或は八幡に於ける当局との再三の折衝、その報告、連夜、演説会が続く。その間、職工の第二罷工への熱意は次第に昂騰する。二十一日夜、東京から「談判破裂」の飛電。