先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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最終回『溶鉱炉の火は消えたり』浅原健三著(十五~十七) 

2021年08月10日 08時14分00秒 | 1920年浅原健三の『溶鉱炉の火は消えたり』

最終回『溶鉱炉の火は消えたり』浅原健三著(十五~十七)
―八幡製鉄所の大罷工記録—

十五 遂に再爆発

 爆発の時が来た。
 爆発すべき、総ての、必然の条件に押し詰められた労働者が、止み難き欲求と自棄的××心とを、××の形に於て、叩きつく可き、最後の時が来た。しかも、県当局は二十二日、五日以来継続して来た、水も漏らさぬ厳重な警戒を解き、各地から召集してゐた警官も憲兵も撤退させた。乗ずべき絶好の機会である。
 二十三日、労友会診療所で協議会。集る者二百余。無条件、満場一致で再罷工を議決した。幹部――加藤勘十、浅原鉱三郎、工藤勇雄、加藤義雄、井上伊三郎、森安国平、友愛会の藤岡文六等は別室で作戦を練る。
 総指揮者井上の所属する第一中型工場で××挙げ、×××××。加藤(義)の工場これに響応(きょうおう)、工場外へ殺到、各工場を順次に×××職工を狩り出す。×××××××××、×××××も亦やむを得ない。全部が工場外に押し出したら、群集を率いて構外、市内へ。
 大体の順序は定めたが、初回の如く計画的組織的ではない。
 中心人物の井上は年齢僅かに二十一歳、優型(やさがた)の、顔色の青白い青年であったが、落ち着きのある、仲々のシッカリ者。在監一年六ヶ月、獄中、「出たら×××」、「きっと×××ってみせるぞ」と言い続けていたそうだが、肺結核が昂進し、重態になって出獄後、間もなく、郷里佐賀で死んだ。二月五日一緒に検束せられた時、見張りの巡査の眼をぬすんで、「あとは大じょうぶ。やります」と私に囁(ささや)いたが、それが彼と私との永遠の訣別であった。工藤、森安、彼等も亦二十二歳の弱年、工藤は小柄で童顔、人を喰った顔、チャ化す、皮肉る、一種型の変った男だが、運動には熱心、懸命に働き、勇敢に戦いぬく生来の闘児であった。加藤(義)は一番の年長者とはいえ二十四五歳。文字どうりの熱血児、喧嘩腰の強い男で、獄中では、よく暴れて重閉禁の喰いどうしだった。
 これら血気の青年が中心人物だ。第一次の罷工後は、宛然(さながら)戒厳令下にある労働者である。組織的な行動はもう取れない。自暴自棄、×××、何のそのゝ意気組(意気込み)だ。
 二十四日、飛雪霏々(ひひ)。
 朝の交替時間、予定どうり、第一中型で喊声が揚った。雪崩出た職工は、順次に、各工場に××、××― ××する者、××する者は××××××××。××××は容赦なく××××。その度毎、ドッと喊声、歓呼。駆り立てられ、追い立てられた群集は、一群、又一群、通用門に集合。やがて、東門、南門から堰を切って落とした様に流れ出る。
 不意を撃たれた八幡警察は警官の非常招集を行い、各門から押し出す群集を喰い止めようと、必死だ。××××。××飛ぶ。×××雨が降る。××、××。×××だ。
 大河の決する勢い、とても制止し得べきでない。
 一万五千の大群は、遂いに、警戒線を突破して、市内に溢れ出た。井上、加藤(義)は先頭に立って、春ノ町の購買組合事務所に群集を導く。見渡すかぎりは人の波。商店は戸を閉ざし、幾十台の電車が立往生だ。
 酒樽を演壇に、演説ではない、唯、絶叫、怒号、叱咤。熱狂した群集は購買組合を××せんとする気勢が見えたので、加藤勘十が指揮して豊山公園へ。幾十人が演説。中に二人の×××がいた。彼等の演説は最も××であった。白仁をシラミともぢり、「世の為め、人の為めに××××」などゝ言って、喝采を博した。
 第一回の要求を多少修訂し、更に、伍組長公選、年二回の賞与支給、三大節公休、通用門の検査廃止、等、々、九項の附帯要求を加えた決議で、ひと先づ解散。
 その夜、代表者は再度長官と会見、折衝三時間余、だが一歩も進展しなかった。
 二十五日朝、無期休業を宣す。
 製鉄所は再度死骸と化した。流言ひごは飛び、全市民は極度の不安におののく。八幡市は再度暗黒街になった。
 その日の午後開かれた長官との会見顛末報告演説会では、中止相継ぎ、×××××××××××が起った。当局の弾圧は第一回に倍加した。それに勢いづけられて、××会九州支部が策動、幹部に対してはお手のものゝ暴行、脅迫、仲裁の××を始めた。
 内に鞏固(きょうこ)な統一なく、外に当局の頑張りと官憲の弾圧がある。暴力団はのさばり出した。形勢は刻々非である。

十六 万事休す

 時も時、二十六日、午後八時、果然!「衆議院解散!」の号外! 普選尚早論を以て原敬がこの暴挙を敢てしたのだ。二十四日、事件を議会に持ち込み、政治問題化すべく浅原(鉱)、田崎の二人が上京して、各政党幹部を歴訪している真最中に、この解散だ。議会利用の途も絶えた。予算は通過しない。一縷の望みは断たれた。世は挙げて総選挙の渦中に巻きこまれた。万事休す。
 その夜開かれた幹部会は再度要求条項を改定した。譲歩、又譲歩。
  第一、賃金に関する要求は、長官の責任支出とし、四月一日から支給せられたし。
  第二、奨励金に関する要求は撤回。
  第三、労働時間は緊急に調査会を開き、八時間制を採用、四月一日より実施せられたし。
  第四、住宅料支給の要求は固執せず、但し新住宅一千軒を増築のこと。
  付帯条項
  二十四日以降、製鉄所の自発的休業以後の賃金全額支給。

 委員は二十七日三度長官と会見し、交渉を試みたが、争議団最後の努力も効を奏しなかった。
 罷工団は今や自滅のほかはない。二十七日からの一斉検挙で四百名の主要人物を拉致され、二十八日には、涙をのんで、戦意を放棄するほかなかった。
 二十九日、製鉄所は「三月二日から一斉に作業開始、休業中の日給は支給せず」と発表した。
 罷工団は、矢尽き、刀折れ、万斛(ばんこく)の恨を吞んで旗を捲いた。
 三月二日、大半就業。休業中の日給は奨励金、割増金等の名目で支給せられたが、一日から四日までに馘首せらるゝ者二百二十四名、起訴せらるゝ者六十三人。斯くて、歴史的の大争議は幕を閉ぢた。
 以上、私が、寒風吹きすさぶ小倉監獄の独房に、世間と隔絶せられていた間の出来事である。
 未決、受刑、前後在監七ヶ月、私は八月三十日出獄した。
 争議には敗れ、幹部は投獄せられ、敗残の労友会は火の消えたような寂しさ。私は無念の涙をのんだ。
 第一回の罷工後第二回の罷工に至る迄に、会員は八千に増し、入獄者救済金は一千八百円も集るの盛況を呈したが、第二回の罷工後は、洪水の引くが如き頽勢。当時精製工場に働いていた笠置卓雄、修繕工場の東藤年の二人が、旭ガラス工場所属組合員の援護の下に、落日の孤城を守った。
 当時二十歳の笠置は、爾(じ)来十年、北九州に頻発した、総ゆる争議に参与、果敢に、執拗に闘争を続け、今日もなお解放戦線の闘士である。幹部の入獄中は石鹸の行商によって、健気にも本部を守り、毎晩のように、ストライキ、監獄、裁判所に関する寝語を言い続けていた東藤は、その後戦線から消え、今はそのの消息を聞かぬ。
 在監七ヶ月は私の志気に微動だも与へなかった。しかし、労友会の衰退は、私を打ちのめした。

十七 労働者は勝てり

 前後二回の罷工のために工場を追はるゝ者三百余、投獄せらるゝ者七十三名。人は労働者の惨敗と言うであろう。しかし、労働者は負けない。正味二週間、前後一ヶ月に亘る血みどろの闘争を通じて示現せられた、彼等の威力によって労働者は勝った。
 四月上旬、製鉄所はいわゆる優遇案なるものを発表! 実施した。
 二交替十二時間労働は三交替八時間労働制となり、労働賃金率は職工の要求に近く改定せられ、我等が要求条項の本体は、殆んど完全に獲得せられた。
 見よ! 労働者は、ついに勝てり。
 犠牲は彼我共に深刻であった。しかし、労働者の××××と雖(いえど)も無意義には消えぬ。
 ××者は必ず××! 敗くるは××ないからである。××のある所、そこには必ず××がある。
 製鉄所の大ストライキ! 前後僅かに一ヶ月であつた。しかしながら、この争議こそは、全九州に頻発した、労働争議の烽火であった。犠牲者よ嘆く勿(なか)れ! 無産階級運動の火焔は燃え立った。兄等の××××と雖も無駄にはならぬ。
 三百の首なきしかばねよ! 七十四名の囚徒よ! 彼等の犠牲の×は、涙は、十年の今日まで、否、×××××解放の日まで、脈々として生き続ける。
 この大争議の一兵卒たりし私に、不抜の信念が植えつけられた。「×××必ず××!」労働者は遂いに勝つ! 私は勇敢に闘える戦友に感謝する。××によりて×てる全製鉄所の労働者諸君に限りなき敬意を表する。
 十年! 或は病魔に倒れ、或は戦線を退き、或は今なお解放運動の先頭を往く幾十百の同志兄弟の膝下に、この拙劣な記録を献げて、言い難き友愛の衷情を披(ひら)く。
 されば、同志よ、健(すこや)かなれ!
 筆をおかんとして、我等が当面の闘争相手たりし白仁武氏をおもう。製鉄所長官から日本海運界の王者郵船会社の社長に転じ、在任幾年、今は郷里柳川に老いを養ふ白仁氏、ひとたびは製鉄所の大ストライキにさいなまれ、ふたたび、昭和二年の海員大争議に苦汁を嘗めた氏は、郵船を退くに際し、「今後は静かに社会問題の本でも読んで暮らしましょう」と新聞記者に語ったと聞く。果たして然るか。若し然らば、既往を顧みて感慨浅からざるものがあるであろう。やがて西郷吉之助と地下に相見えん時もあらば……。

 我等は三度(たび)叫ぶ!
 富と××を闘ひ護るものは労働者なり!



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