屋代教会
1910年大逆事件 新村兄弟のお墓
<禮誉救民忠雄居士><賢誉至徳善雄居士>
以前、朝日新聞夕刊一面の<ニッポン 人・脈・記>で「大逆事件残照」シリーズが掲載されました。竹下夢二も大逆事件で逮捕されたひとりだそうです。
私は10年前、長野県屋代の生蓮寺にある大逆事件の新村忠雄と善兵衛、新村兄弟のお墓を訪ねました。弟の新村忠雄は幸徳秋水と同じ死刑になっています。現在は合併して千曲市ですが、当時は更埴市でした。その「更埴市史第3巻近・現代編(平成3年発行)」によると、新村忠雄は、長野県屋代町(旧更埴市現千曲市屋代)に生まれ、内村鑑三のキリスト教やトルストイの影響から日本メソジスト屋代教会で洗礼を受け、日露戦争による国民の生活の「悲惨な状態をみて、その救済策をいろいろ考えましたが、社会主義を実行するほかに途はない」(新村忠雄予審調書)と幸徳秋水らの「平民新聞」を拡げ、自ら長野県下で「高原文学」を発行するも検挙。出獄すると同時に平民社で生活し幸徳秋水・菅野須賀子と親しくなりました。
大逆事件
1910(明治43)年、大逆事件が摘発され、幸徳秋水らが逮捕され、翌年1月、天皇暗殺を企てたかどで12名死刑、12名無期懲役。兄善兵衛と共に逮捕された新村忠雄は幸徳秋水ら死刑になった12名のひとりです。
事件後、新村兄弟の母校である屋代小学校の宮入校長は「斯かる逆徒新村兄弟を屋代町から出し、また、屋代小学校に学びし事ありしは如何にも不名誉なり」と談話を発表しています。
新村兄弟の墓が建てられたのは、大正の末ごろで、「更埴市史」は、「国賊」扱いの新村兄弟に<救民・至徳>の戒名がつけられたことは注目すべきことと言えよう。と記しています。
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1910年とは
足尾鉱害とのたたかい、農民、命がけのデモ
数千の足尾の農民が地元から東京へ押し出し、議事堂前等で座り込み闘争
1897年から1902年まで5回の「押し出し」大闘争
1898年第3回目1万人。
1900年第4回目1万2千名、川俣で官憲との死闘逮捕者300名の<川俣事件>
1902年第5回目は5千名
伊藤博文内閣成立・治安警察法公布1900年
幸徳秋水 内村鑑三 木下尚江 川上肇 キリスト者 仏教者 石川啄木
当時の農民運動・労働運動・全国で女工など大ストライキ頻発
田中正造天皇直訴の闘い1901年(直訴状の文章は幸徳秋水に頼んだ)
内村鑑三らが組織したキリスト者・仏教徒の学生1200名の「鉱毒被災地救済団」大挙して被災地へ 古河駅から現地へ大デモ
川上肇ら帰京した学生ら多数は、こぞって街頭集会・宣伝・カンパ活動。キリスト教婦人東京で大支援集会。
石川啄木の歌
盛岡中学3年生のときに天皇直訴に感動しカンパ活動をした啄木
「夕川に葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びの など悲しきや」
全国の農民・学生・民権知識人に共感・支持が拡がっていることが想像できます。
1902年、利島・川辺村村民1000名の「納税兵役拒否」村民現場大会決議
「政府が堤防を築かずば、断然納税兵役の二大義務を負わず」
あわてた行政は堤防工事に着手した。利島・川辺村民の勝利です。
日露戦争の一年3ヶ月前のこと。田中の反戦・反軍思想も併せて考える時、この決議と闘いはなんとすごいことでしょう。
1907年、足尾鉱山大暴動・ストライキ、同年原大臣谷中村廃村強制立ち退き執行
古河町町長
「谷中村ぶち壊しの人夫に雇われるなとはいわないが、募集に応じる人には、立ち退き料を与える故に、古河町より他へ移転してもらいたい」
古河町全体が足尾や田中の闘いを断固支持していることが伝わります。
1909年 安重根、伊藤博文射殺
1910年 韓国併合
石川啄木「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつゝ 秋風を聴く」
1917年 ロシア革命
1918年 米騒動
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青年、新村忠雄が生きた1910年とはこんな時代でした。1900年の治安警察法公布。日露戦争後の不況下で、集会・結社・言論の自由は剥奪されながらも労働者のストライキや農民の小作争議が頻発し、一方では朝鮮侵略・韓国併合。安重根の伊藤博文射殺に象徴される日本・韓国民衆の反発と闘いに対する国家権力の策謀、菅野須賀子が言うところの「真相は驚くばかり馬鹿気たもので,…たとえば軽焼き煎餅か三文小説見たようなものであった」国策でっちあげ事件であったことは今では多くの人が語っています。
それにしても、この時代に<禮誉救民忠雄居士><賢誉至徳善雄居士>の墓を建立し守り続けた屋代の新村家、人々、生蓮寺に心からの敬意を表します。私は屋代町・屋代教会・屋代小学校で育てられ、こんなに近い縁があったのに、当時は何も知りませんでした。近くなのに一度も生蓮寺の新村兄弟のお墓を訪ねたこともありませんでした。今回、はじめての新村兄弟の墓<禮誉救民忠雄居士><賢誉至徳善雄居士>に向かった時、あらためて故郷屋代の人々をとても名誉に思った一日でした。