だけど、この病は保険会社に雇われた医師が、交通事故の衝撃で髄液が漏れ出るといったことはあり得ないとの書籍を出していたことにより、保険適用もされておらず、殆どのお医者さんから、そんな病はない、そんな病だという病人はおかしな人といった感じの扱いでした。
一回の治療が30万円。私の場合、交通費も入れて一回の入院で50万円弱かかりました。
それが全て自費診療。
一回で良くなる人は少なくて、2回から3回繰り返しブラッドパッチをしなければならず、私の知る人は7回繰り返したという人もいました。
私は脊髄に針を刺す治療が痛すぎて、あと少し怖かったこともあり、回復を感じていたから、2回でこの治療は終了し、あとは自分の力を信じることにしました。
そんなこんなで、患者の置かれた状況は可哀想なもので、お金が無ければ助からないなんて酷いと、この病気の悲惨な状況を改善する為に、ある患者会が集めていた署名活動に協力することにしました。
自分が辛い悲しいを知ってもらいたいのではなく、この病気を知るだけでも、肉体的、精神的、経済的に今後助かる人が増えるかもしれないとの思いからの協力でした。
有難いことに、友人、親戚、近所の方など色んな方が協力してくれました。
その集めた署名を、国に提出する際に、ハンセン病元患者で国賠訴訟原告団の最初の13人のお一人である竪山勲さんが協力してくださる事になり、そのご縁で知り合うことができました。
竪山さんと何度が電話でお話しするうちに、私の事を気にかけてくださるようになり、体調が悪く、ダウンしていた時に、私を喜ばせようと、お忙しい中、鹿児島から高知に車で来てくれたりしました。
どこか芯のとおった凄みがある方なのですが、本当に気さくでお優しくて、人の為に真心で行動する、全く我欲のないその姿に、この方は生き神様だと思いました。
その頃、何もできない私は実家でお世話になっていて、遠方から来てくださったので、実家の2階が空いてるから泊まっていってくださいと言ったのですが、忙しいから泊まれないとその日に帰られました。
後に、自分はハンセン病で隔離されてた身だからそんなことはできないと遠慮した、でも、その泊まっていってくださいの言葉がどれだけ嬉しかったか。。
と仰ってくれて、本当にお忙しいから帰られたと思っていたのに、そんな事思われていたのかとびっくりしました。
ハンセン病元患者の方を差別するような気持ちは、自分の中に微塵もありません。
ただ、国が取っていたこんな酷い隔離政策を私は知らなかったのです。
母と同じ歳生まれの竪山さんの事を、私は心の父だと思っています。
私たち双子の事を娘と思っていると言ってくださり有難いです。
隔離なんかされなければ子供くらい持てただろうに。。。と仰ってたのを覚えています。
塀の中で外から見えないようにされ、人権を奪われ、子供をつくって育てることも許されなかった元患者さんたち。
竪山さんは13歳で隔離され40年塀の中で、生き延びてこられました。
その、理不尽極まりない人生被害を受け、それすらも今となっては面白い人生を歩んだと言う心の父を、尊敬しています。
その竪山さんの持つ、国との大きなパイプのお陰で、脳脊髄液減少症患者さんとその家族が集めた10万筆を超える保険適用を求める署名を国に提出することができました。
当時はNHK19時のニュースとかでも取り上げられました。
あれから10年以上たって、昔よりは認知され理解も進んでいるようですが、まだまだみたいな感もあり、こういう利害が絡む病への対応は難しいですね。
私も元気になって、離れていた部分もあって、喉元過ぎたら熱さ忘れる自分を反省することもあります。
続く