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お山にお宮がたちました

空也上人

愛媛県は札所が密集していて、一日で沢山まわれるので、頭の整理のために復習はとても大切です。復習しないと訳がわからなくなるのです。。

私自身の頭の整理、つまりお遍路の記憶整理のためにブログを書いているのですが、お付き合いくださっている方、写真ばかりのアルバムのようなブログを読んでくださって本当に有難うございます。読んでくださるだけでとても嬉しいです。

さて、浄土寺をお詣りした時のこと、納経所にて空也上人のポスターが目に飛び込んできました。
空也上人の事を私は知らなくて、口から何かしら仏様が出ていて何なんだろうと思いました。持っている杖も独特だし、身なりは質素で痩せているけど、何とも言えない力強い風貌をしていて、この方は一体何をされた方なんだろうと不思議に思いました。そして帰ってから調べてみました。

きっとご存知の方も多いと思います。日本史を学ばれた方は知っていると主人が言ってたので、つくづく私は知識が乏しいなぁと思いました。今からでも遅くありませんから学びます。

空也上人は平安時代の僧で六波羅蜜寺の開祖であります。自分で彫った十一面観音像を祀る道場として建立したのが西光寺(後の六波羅密寺)です。

当時荒れ果てていた京都市内を空也は台車にその十一面観音像を乗せて、念仏を唱えながら歩き、病気や貧困で苦しんでいた人々を癒したといいます。

わらじで鹿の角の杖を持ち、首から下げた鉦(かね)を鳴らしながら、念仏を唱え歩き、空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えるとそ の一音一音(南・無・阿・弥・陀・仏)が阿弥陀仏になったという伝説を空也像は彫刻であらわしています。

手に持ってある鹿の杖は、空也自身が貴船山にこもっていた時に可愛がっていた鹿が殺されてしまい、その鹿を空也が哀れんで自分自身の杖に付けたものと伝えられています。
痩せていますが民衆と共に生活した空也上人を人々は尊敬をこめて市聖(いちのひじり:市民のための聖者)と呼びました。

一説では皇室の出で、尾張国分寺で出家し空也と名乗り、若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い、貴賤を問わず幅広い帰依者を得たといいます。
その後70歳で六波羅蜜寺で亡くなるまで、身分や思想に関係なく多くの人を救われたようです。

早速、本を買いました。




凄い方だと思いました。いかにしてここまで精神性を高められるのか。
我を無くし慈悲の心で人々のために尽くす。まさに六波羅蜜の修行を成し遂げ悟りの境地に至った聖者。

心から尊敬するアフガニスタンで人道支援に取り組みお亡くなりになったNGO「ペシャワール会」の現地代表の医師の中村哲さんに重なりました。

今の時代は、空也上人の生きた時代とは違い、物が溢れ飽食であり豊かになったと思うのですが、違った意味で人は満たされず苦悩している方が沢山いらっしゃいます。

いつの時代にも形を変え苦悩はありますが、この本を読んで、如何なる境遇に生まれようとも、如何なる条件でスタートしようとも、そこから不平不満を言わず、いかに自分の魂を磨き高め生ききることが大切かということを教えて貰いました。
自分を高めることによってのみ、波のように美しい波動を広げ人をもプラスに導けるんじゃないかなって思いました。

いつまでも人々の心に残る生き方。
どうすれば人を救えるかということを追求し、自らを救った御方が空也上人。
生まれた境遇を苦悩し、自分を救い、名を空なり(空也)とし仏に導かれ愛を込め人を救い生き抜いたその生き様が美しくて心に響きました。

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