*増上慢(ぞうじょうまん):仏教で、まだ悟らないのに、悟ったと思って、おごり高ぶること。転じて一般に、十分な力が無いのに、自信の強いこと。
(理想が高くなるほど、愛の器を広げる努力を怠らないこと)
自己イメージが高くなればなるほど、理想が高くなればなるほど、「何だ?あいつ」という感じになってくることはあります。
これを避(さ)ける方法は、「愛の器を広げる」という、この一点です。自分の理想が高くなればなるほど、また実績がついてくればくるほど、才能が光ってくればくるほど、愛の器を広げていく努力を怠(おこた)らないことです。
「理想が高くなる」ということは、一つの山の高さが高くなるということです。山が高くなりすぎて、鋭角(えいかく)に尖(とが)ってくるわけです。尖ってくるがゆえにどうなるかというと、ほかの人が登ってこられなくなるのです。山が尖っているから転げ落ちていくわけです。そして、自分だけがそこの上に住んでいればよいという感じになってきて、近寄りがたくなっていくのです。
山が高くなっても尖らないようにするためには、裾野(すその)を広げていく以外にないのです。そうしたら、なだらかな大きな山になります。
この「裾野を広げる」という仕事が、結局、愛の器を広げていく仕事なのです。
それはどうしたらよいかというと、常に、「一人でも多くの人のためになるようなことをしていきたいな」と思って実践していくことです。
小さく言えば一日一日、今日は、「どれだけの人のためになったかな」「役に立ったかな」「よいことが何かできただろうか」「よい思いを出しただろうか」と、こういうことを実践していくことが愛の器を大きくしていくことになるのです。
今日はどれだけの人に愛を与えられたか。これを積み重ねていって、広げていくことです。そうすると、必ずしも増上慢にはなりません。
そういう努力をしていけば、必ず“理想の高さ”が“山の大きさ”になっていきます。そう言うことだと思うのです。
「自分が増上慢になる場合はどういうことか」というと、他人(ひと)の自分への評価ばかりが気になり、それがよくなればうれしいし、悪くなれば悲しい、もうそればかりが気になっていって、“尖って”いけば、そのようになると思います。
しかし、責任感という観点から、「自分には、その理想に伴う、使命に伴う責任があるんだ。その理想が高くなればなるほど責任も大きいんだ。多くの人を屋根の下に雨宿りさせなければいけないんだ」という気持ちが強くなれば、やはり「まだまだだ」という気がするものです。
ですから、高くなればなるほど広げていく工夫をする必要があります。
これですね。「高さ」と「広がり」、もうこれだけを考えていけばよいのです。
---owari---
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