(明確な悪に対しては「祈り」や「戦い」も必要となる)
基本的に、私は、「人の粗(あら)、悪口、嫉妬(しっと)に、いつも心をとらわれていると、あなたは幸福になれない。祝福の心を持ちなさい」と述べたいと思います。
ところが、「では、正真正銘(しょうしんしょうめい)の悪とぶつかったら、どうする? 悪を目撃したり、まったくの悪人と会ったりしたときに、それでも『祝福しろ』と言うのか」と問う人もいるでしょう。
例えば、「連続殺人犯が知り合いにいるが、その人のことも、ほめたほうがよいのか」という質問が出たとします。しかし、絶対的に悪を犯(おか)している者を肯定(こうてい)し、ほめるのは無理です。そういう人をほめれば、その言葉は嘘(うそ)になり、その態度は不正直になります。
そういう人に対しては、少なくとも祈ってあげてください。「あの人が善の道に入れますように」「あの人が悪をやめますように」「あの人の魂が救われますように」と祈るのです。そして、それ以外にも自分にできることがあったら、それをしてあげてください。
それから、強い明確な意志を持った悪に対しては、戦わなければいけないこともあるでしょう。
それは、仏教的には「破折(はしゃく)」や「折伏(しゃくぶく)」というものです。仏であっても、歴史上、明確な悪や悪魔に対して、強く破折したことがあります。
「これは明確な悪だ。悪を増大させてはいけない」と思うときには、パシッと戦います。当然、反作用を受けて苦しむこともありますが、必要なときには戦うのです。そういう余地も残しておかないと、悪が増大してしまいかねません。
それに関しては、「善か悪か」「正義か否か」ということを突き詰めて考え、判断すればよいでしょう。
ただ、各個人を取ってみたら、「人間は間違いを犯す存在だ」ということをよく知り、ある程度、それを受け入れる寛容さが必要です。「相手を善導し、少しずつ変えていこうとする心」「相手のなかに、よりよきものを見ていこうとする気持ち」を持ったほうがよいと思います。
(嫉妬を感じる相手への「祝福」は自分自身を救う)
「愛の反対は憎(にく)しみである」と言われることも多いのですが、「愛の反対は嫉妬である」と言う人もいます。確かにそうかもしれません。
嫉妬の思いを持つと、苦しくて、夜、眠れないものです。
そういうときに、自分自身を救うためにも必要なものが「祝福の心」なのです。
口に出して祝福できないならば、心のなかで祝福してもよいと思います。あるいは、自分一人だけのときに、言葉を出して祝福してもよいでしょう。
それによって、自分自身がかなりよくなると思いますし、相手に対しても祝福の念波(ねんぱ)が必ず通じていくと思われます。
また、今までに、子供の善悪に対する親の評価の問題や、明確な悪人に対する破折の問題についても述べましたが、仕事の面においては、「仕事ができたか、できなかったか」ということが大きな問題でしょう。
仕事で失敗すれば、それを追求しなければいけないこともありますし、仕事で成功すれば、それを明確に評価しなければいけないこともあるでしょう。それをねじ曲げて正反対の評価をするのは間違いだと思います。
ただ、「行為を憎んで、人を憎まず」ではありませんが、仕事の実績や内容について、それを批判し、否定することがあったとしても、相手の深い人間性のところについては、包み込むものを持っていなければいけません。すなわち、相手を批判する際には、「あくまでも、これは、仕事の面に限って言う」ということにするわけです。
それから、自分が嫉妬を感じるような人に対しては、やはり、「才能を愛する」という気持ちを持ったほうがよいでしょう。
もし、その人に優れた実績や功績、才能があるならば、その人は、仏や神に愛された人であるのかもしれませんし、過去世(かこぜ)での積み重ねがずいぶんあったのでしょうから、そのことについて祝福してあげるとよいと思います。
「自分のほうが頑張っているのに、向こうのほうが成功している」と見える場合には、「おかしい」と思うかもしれませんが、実は、今世限りの問題ではなく、過去世からの積み重ねによって、そうなっていることがあります。要は、その部分について、今、分からないだけなのです。そのように考えてあげたらよいでしょう。
この「祝福」ということも一つの悟りになります。
これまでのことを参考にして、自分自身の持っている「人生の問題集」を解いてみてください。
---owari---
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