(日本神道のなかに一本入っている「人間のもとは光だ」という考え)
日本神道というのは、そのなかにあるアニミズム的なもの、動物信仰のところは別に置いておくとして、人間が教えたものの教えとしても、はっきりとまとまっていません。
中心的に流れているものとしては、例えば江戸の後期からある教派神道というのもありますけれども、黒住教や天理教、あるいは、大本教や成長の家などの日本神道系の「教派神道」といわれてきたものがあります。
そのなかでも、多少、種類は違いますが、シンプルに言えば、「とにかく、明るい心を持てば幸福になれるのだ」というような思想も、一本、わりに強く出てきています。
例えば、黒住教などもそうでしょう。教祖が大病し、死にかけの病になりましたが、「『明るい心を持つ』というようなことで、カッと豁然大悟(かつぜんたいご)したら、病気が治った」というあたりから宗教が始まっているはずです。
また、天理教なども、「陽気ぐらし」ということをはっきりと言っていて、「陽気ぐらしをすれば、人生が明るくなってよい」というところに重点を置いているような気がします。
一方で、大本教には、そういう考え方は非常に少ないのです。どちらかというと、砂漠のほうの『旧約聖書』の預言などに近くて、「この世のお立て直し」に関して、「悪いものが来るぞ」といいような悪い予言等をいろいろしています。そして、それは実際に来たのですが、教団は弾圧を受けたりしているので、『旧約聖書』系の預言のような感じにも見えなくもないところがあります。ただ、これも宗教の一つではあるでしょう。
日本人は「救世主」というと、「人々を助けてくれる、よい神様の代理人」というぐらいに思っていることが多いのですが、西洋のほうでは、救世主が出てくるというのは大変なことなのです。
「神罰が起き、天変地異がたくさん起き、人が大勢死ぬような病気が流行ったり、大洪水や大火災、地震などがたくさん起きたりして、大勢の人が死ぬ時代だ」ということで、西洋では、救世主が生まれたら怖がる向きはかなりあるのですが、大本教などもそれに似た感じはあるのだろうと思います。
大本教は、「戦争が起きて不幸になる」というようなことをだいぶ言っていたために、警察、軍部系からの弾圧や迫害をそうとう受けました。そうした予言は、結果的には、事実として当たっていたのですが、「国家権力とぶつかってしまった」というところもあります。
それに対して、成長の家などは、戦争中は「行け行けゴーゴー」というように言っていたために、大きな弾圧は受けなかったとは思うのですが、戦後は共産主義が非常に広がったので、そのあたりとの戦いは、政治的にもそうとう長く続いたのではないかと思います。
このあたりのもとには、やはり、「光一元の教え」があるようです。日本神道のなかに一本入っているのは、天御中主(あめのみなかぬし)系統と思われますが、この「人間のもとは光なのだ」という考えです。
もちろん、「人間は神様から分かれてきた光である」ということ自体は正しいしものです。ただ、「光のみが実在で、闇は存在しない。闇というのは光の不在にすぎないのだ」という考え方があるのです。
---owari---
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