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長寿企業の言い伝え(前編)

2022年09月23日 | 日本
数百年も事業を続けてきた長寿企業に学ぶ。永続的繁栄の秘訣とは。

(長寿企業の「三方よし」)
東京は日本橋堀留町に本社を構える「チョーギン」という会社がある。破綻した日本長期信用銀行ではない。アパレルやインテリア用品の製造・卸小売りを行っている。実はこの会社は創業が寛政10(1798)年で、ゆうに200年を超える歴史を持っている。

創業者は丁子屋(ちょうじや)の屋号で麻布などの行商を営んでいた近江商人の小林吟右衛門。丁子屋の吟右衛門を略して、丁吟、すなわちチョーギンとなった。初代は少年時代から行商を始めたが、その子、2代目吟右衛門の時代に京、大坂、江戸に店を構える大商人に成長した。

現在の社長は、8代目の小林一雄氏。小林社長が社員によく言うのは「三方よし」という、近江商人の経営理念として必ず出てくる言葉。「売り手よし、買い手よし、世間よし」という事で、商取引は売る方にも、買う方にも、そして社会全体にも利益になるものでなくてはならない、という意味である。

同様に「三方よし」を説くのが、秩父の矢尾百貨店の社長を務める矢尾直秀氏。矢尾家9代目の当主であるが、近江出身の初代・矢尾貴兵衛が寛延2(1749)年に秩父で酒造業を始めたのが、家業の始まりである。

チョーギンは200歳、矢尾百貨店は250歳を超える長寿企業だが、長寿の秘訣は「三方よし」の経営理念にあるようだ。

(「世間よし」による長期的繁栄)
事業を永く続けるには安定した収益が必要だから、「売り手よし」が大事な事は言うまでもない。しかし、お金を払ってくれる買い手がなければ、そもそも事業が成り立たないから「買い手よし」でなければならない。買い手を騙したり、犠牲にしたりする事業が長続きするはずはない。買い手が喜んで買ってくれるような商品やサービスを提供してこそ、事業が長続きするのである。

「世間よし」については矢尾百貨店の矢尾直秀氏はこう言う。
うちは他国者だったが故に地元の商人以上に、地域社会に神経を使って、その役に立つことが必要だと考え、代々それを実践してきました。

明治17(1884)年、松方デフレ(明治14年10月の政変で大蔵卿となった松方正義によって行われた紙幣整理を中心とする財政政策の通称)で生活に困窮した秩父地方の農民が暴徒化して、高利貸しや富裕商店を襲撃して打ち壊しを行った。秩父困民党事件である。この時、矢尾商店は炊き出しこそ命ぜられたが、打ち壊しは免れた。天保の飢饉の時には飢えた人に米を配ったり、金利が急騰した時も暴利を貪ったりしなかったので、その「世間よし」の姿勢が地域住民から高く評価されていたのである。

「世間よし」は秩父事件のような非常時ばかりではなく、平常時にも大切である。地元の商店街と張り合うよりも、商品構成などで補完しあえば、両者一体となった大規模なショッピング・ゾーンとして、より多くの買い手にサービスすることができる。また地域での雇用を拡大したり、自然環境を大切にしたり、地元の文化行事に協賛したりすれば、地元住民も贔屓(ひいき)にしてくれる。

(「暖簾(のれん)は心に懸けよ」)
京都で箸屋を営む市原平兵衛商店も、創業は明和年間(1764~72)で初代・市原平兵衛はやはり近江出身だという。現在の当主は7代目の市原廣中氏である。氏が後を継いだのは、昭和38年のこと。先代に仏間に呼ばれて、突然、今日からおまえが後を継いでやれ、と言われた。この時、先代から言われたことの一つが「暖簾(のれん)は家でなく心に懸けよ」ということだった。

暖簾とは「信用」である。長年「買い手よし」を実現していれば顧客から信用され、また「世間よし」を続けていれば、社会から信頼される。その信用の象徴が、暖簾である。

しかし、暖簾を家に懸けておけば、信用が自動的に守られるというわけではない。先祖代々営々と築き上げてきた信用も、顧客を裏切るような商売をすれば、一朝にして失われてしまう。店に懸ける暖簾を守ろうとすれば、まず心の中に暖簾を懸けて、それを絶対に汚すまいという覚悟が大事なのだ。

(「暖簾分け」)
これまた京都で呉服卸問屋を営む千吉(ちきち)も、応仁の乱後の弘治年間(1555~58)に、初代・貞喜が京都で法衣を商ったのが始まりである。本家は千切屋与三右衛門と言ったが、この家は断絶して、3つの分家が呉服の商いを継いだ。千切屋治兵衛が千治(ちじ)、千切屋惣左衛門が千総(ちそう)、そして千切屋吉右衛門が千吉(ちきち)である。これら三家が揃って今も家業を続けているというから恐れ入る。

その千吉の会長で第12代目の西村大治郎氏は、永続的繁栄の秘訣の一つが「暖簾分け」というシステムにあったとして、こう語っている。

かつては12,3歳で丁稚奉公に入った。そして30歳くらいまでの間働いて手代や番頭に昇進し、功績が抜群であれば暖簾分けをして独立することができたんです。この仕組みは組織の新陳代謝となり、働いている者には独立するという明確な目標を与えることになり、また暖簾分けという形で社会的な信用を付することになり、合わせてグループ全体の相互扶助にもなるという、双方にとってメリットのある仕組みだったんです。

「暖簾分け」とは、まさに本家の信用を分家に分け与えることである。新しく独立した分家は本店から与えられた信用を商売に生かしつつ、その暖簾を汚さないよう励まなければならない。
西村氏はさらにこうも言う。

よく暖簾と申しますけれども、私は暖簾をまず信用の象徴と、次に外に向かっては闘志の象徴と、そして内に向かっては人の和の、よき人間関係の象徴と、捉えています。

暖簾分けによって生まれたグループは、信用を共有するだけでなく、外に向かってはその信用を守るべく奮闘し、内にあっては互いに助け合う。暖簾はまさにグループの絆である。

-owari---
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