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聖徳太子の叡智(前編)

2016年05月03日 | 歴史

聖徳太子は日本の礎を築いた大功労者だと、まず言わねばなりません。

太子は系譜を見ても分かるとおり、用明天皇の長男として生まれています。従って、生まれた時から、 将来は天皇になるべく英才教育がなされていたのです。

 

用明天皇も太子を非常に可愛がったということが書紀に出ています。 要するに、今上天皇(その時の天皇に在位する天皇の呼び名)の期待はもちろん、蘇我氏の期待も一身に受けて生まれてきました。いわば期待の星です。蘇我氏のリーダー、大和朝廷のリーダーとして生まれながらにして大いに期待されていたのです。

 

太子の功績を語る前に、片づけておかなければならない、ふらちな言いがかりがあります。

ネットでもテレビでも一部の歴史学者や教育者が「聖徳太子」は存在しなかったと言いふらしているのです。大した根拠もなく、自画自賛の説をまことしやかに語っているのです。

まことに嘆かわしいと言わざるをえません。

聖徳太子を歴史から亡きものにしようとしている自虐史観の人たちがいるのです。

 

聖徳太子ほど、実在した証拠がたくさんある人はめったにいないのです。聖徳太子については、妻や子供の名前、行った仕事なども、全部、史料として遺っていますし、前述の通り「誰の子供か」ということまで書いてあります。

 

生きていた証拠があまりにも多く出すぎているので、「聖徳太子が架空の人物であった」ということは、無理があるように思います。

それでも、「聖徳太子がいなかった」と述べているのですから、「書いてあるものでも信じない」という勢力がいたのです。

 

私はそれらの勢力は歴史学者や教育者ではなかったのかと思います。

ではなぜそのような説が出てきたのか、といえば、それは、

聖徳太子は、「憲法十七条や冠位十二階の制度を制定したり、その他いろいろと改革を行った」ということになっているわけですが、これも、日本人にしてはあまりにも鮮やかにいろいろなことができすぎているので、今の歴史学者は、「そんなことがあってはならないのではないか」と思うようです。

 

そして、ついに、「聖徳太子は架空の人だった。想像上の人物で、存在しなかった」というようなことまで言い出しました。

結局、「日本は駄目な国で、最低・最悪でなければいけない」という史観からいって、「そんな偉い人が、過去にいてはいけないのだ」という強い信念の下に書けば、そういうような人を全部否定していくことになるのでしょう。それを左翼史観と呼びましょう。

 

左翼史観には、「偉人や英雄・神仏」を認めない心があります。

気をつけなければいけないのは、左翼史観のなかに、「人間というのは、みな平凡で、変わらないものだ。給与も一律、家の大きさまで一緒で、"美人でない"奥さんも同じようにもらわなくてはいけない」というような、原始共産主義のような感じの"民主主義“がまかり通ってくることです。

それは、人間社会を蟻の社会のように見ているということでしょう。だいたい、同じような動きをしているからです。

 

しかし、人間社会をそのように見るのは、自らを卑下する行動にもなっているのではないでしょうか。私は、優れた人物は過去にいくらでもいたと思いますし、そうした、「偉人や英雄を否定する心」は、やはり「神や仏を否定する心」に完全につながっていくものだと思います。

 

そういうものを否定して、「自然に“空気”で民衆が動き、革命が起きて、国が変わってきたのだ」というようなことを言う人が、だいたい左翼史観であるわけですが、やはり、その底には、優れた人を認めたくない心や、「人間の力を超えた、大きな力が働いている」ということを認めたくない心があるように思います。

 

そこには、「古代にそんな立派な日本人がいてたまるか」という気持ちが入っています。「古代の人は野蛮な原始人でなければいけない。古代に立派な国家があり、立派な人が出現しているのは許せない」と思って、戦後「ずっと原始的だった民族が、第二次大戦の敗戦によって、やっと近代化して民主主義の国家になり、欧米並みになった」という考え方を押しつけようとしたのではないでしょうか。

 

だまされてはなりません。彼らの卑下した、偏った歴史観で日本の歴史を貶められてはならないのです。彼らは、戦後のアメリカの占領政策によって、日本は駄目な国、悪い国であるということに洗脳されている人々なのです。

 

そのような考え方では、日本の誇りや自信を取戻すことはできません。

本当に戦後レジームを脱却、清算するためには、このような左翼史観を排除し、自虐史観を排除し、東京裁判史観も見直さなければならない。そして、日本の国民が反日日本人になるという自縛を振り払い、日本人に正しい歴史教育を教え、偉人を知り、偉人をたたえ、日本に誇りと自信を取戻さなければ、真の日本国の発展はない。日本を貶める勢力に敢然と立ち向かい、真の世界平和に貢献し、21世紀を日本の輝かしい時代にする必要がある。

 

すみません、肩に力が入りすぎました。

話しは少し(大きく?)ずれましたので、太子のお話に戻ります。

聖徳太子の時代(六百年前後)に、隋の煬帝に宛てて、聖徳太子が国書を送ったのですが、このときに、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」と書いているわけです。傲岸無礼と言えば傲岸無礼な、自信満々の言葉でしょう。本当にスカッとします。

 

今の日本人のように卑屈ではありません。

さらに、「恙無きや」ですから、隋の煬帝は怒って国書を破り、焼き捨てようとしたらしいですが、「まあ、まあ」と諌められたため、いまだに遺っています。

「架空の人物が中国に送った国書が、届いて遺っている」などというようなことが、あろうはずもないので、実際にいた人物なのです。

 

また、大阪にある「四天王寺」は聖徳太子が建立したとされる七大寺の一つです。

現在も寺に伝わり国宝に指定されている「四天王寺縁起」は聖徳太子の自筆とされ、聖徳太子の手形が捺され、巻物の最後には聖徳太子のサインもあるという国宝です。1007年、金堂内で発見されました。四天王寺に参詣した後醍醐天皇は聖徳太子の「四天王寺縁起」を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している。後醍醐天皇は、これより後は聖徳太子の「四天王寺縁起」は寺の宝物として保管し、私が筆写したものを見せるようにしなさいと言い渡したと伝えられているのです。

 

それでは、太子の功績を列記します。

・日本で初めての女帝、推古天皇の摂政に就任しました。

・出身や身分に関係なく、能力の高い優秀な人材を登用する冠位十二階を制定しました。

・随に支配をされないように国をしっかりとまとめておく必要があったため、役人の心構えを記した十七条憲法を制定しました。

・東アジアでの日本の立場を有利にするために中国の進んだ文化を取り入れようとして、遣隋使を派遣しました。

・三経義疏の執筆しました。

三経義疏とは、『法華義疏』、『勝鬘経義疏』、『維摩経義疏』の総称です。仏教に研究熱心だった太子は、『法華経』、『勝鬘経』、『維摩経』の三経の注釈書を書き、日本に仏教を広めるために、布教活動に力を注ぎました。

 

続きは後編へ・・・・・。

 

---owari---


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