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ご報告

2008-08-11 01:21:00 | 闘病記
ご報告が遅れましたが、7月15日(火)午前5時35分 りょりょが永眠いたしました。
今まで励ましいただきありがとうございました。
葬儀も多くの皆様に参列いただき滞りなく執り行うことができました。
しばらくは、娘の思い出と共にゆっくりと過ごしたいと思っております。
HP上に今までの経緯を載せてまいりましたが、更新が滞り概要が分かりづらくなっています。
本来は私があらためてご説明するべきところですが、葬儀の際に主人が参列の皆様にご報告した内容を一部加筆修正して記載させていただきます。
主人の想いが含まれますことをご了承下さい。

病気のこと、どう闘ったか
 娘は北海道の旭川市で1992年12月の寒い日に第二子として生まれました。その日私は朝から札幌での会議に出席していました。病院から電話が入り「おめでとうございます。元気な男の子です。」えっ?超音波検査では、女の子と聞いていたのに。仕事を早めに終え病院に駆けつけるとやった嬉しい4182gの大きな女の子。やさしく理知的な人に育って欲しいとの願いを込め名前を決めました。
 1歳になって旭川から鎌倉市に引っ越し、それから間もない夏、右の耳の中にできものができていることに妻が気付きました。近くの市民病院で簡単な手術だからとりましょうと言われました。手術が始まり、1時間、2時間なかなか終わりません。やっと先生が出てこられると、「すべて取ることができませんでした。」とのことでした。
 僅かに取れた細胞を検査したところ、悪性のものだろうとのことで、築地の国立がんセンターに移り最初の闘病が始まりました。まだ、母親のそばを離れられない年齢ですが、完全看護の病院です。3時から7時までの僅かな面会時間が終わりバイバイの時間になるとぐずります。その様子を見て胸を裂かれる思いをしたことを今でも覚えています。
 抗がん剤治療・放射線治療・自家骨髄移植と1歳の赤ちゃんには過酷な治療ではありましたが、先生方の献身的なご努力の甲斐があり、約1年間の入院生活で腫瘍細胞が完全に消え、晴れて退院となりました。その後、再発に怯えながらも元気な生活を続け、外来検査だけの通院で、1年、2年と過ぎ、笑顔の耐えないとても元気な子に育っていきました。
 もう大丈夫だろうとすっかり安心していた11歳の春(2004.3、H16)、顔の右側が痛いと訴えるため、国立がんセンターで検査を行ないました。2次がんと思われる再発が右のほほの裏側に見つかりました。
 簡単な生検手術でその部分の細胞を取ることが難しく恐らく悪性であるとのことで辛い抗がん剤の治療を開始しました。東京医科歯科大学に手術の可能性を相談したところ、大変な手術にはなるが大丈夫とのお話。目の前がパッと明るくなる思いで全てを託しました。女の子なので術後に傷を残さないようにとの配慮で、頭頸部腫瘍の権威である先生の考案された手術法で腫瘍を摘出し、丹念な縫合をしていただきました。(2004.6、H16)
 術後の回復も早く、その後のがんセンターでの抗がん剤治療も嘔吐、骨髄抑制と辛いものでしたが治ると信じられたこと、また、病院で多くの友達に出会えたことで、本来辛いはずの入院生活が外泊を嫌がるほど楽しく過ごせました。順調に治療が進み、冬にはまた普通の生活を取り戻しました。
 元気に学校に通う日々に慣れた頃、再び顔が腫れてきました。12歳の晩秋(2005.11、H17)の頃です。学会出張中の私に妻からの悲痛な声の電話がかかってきたことを良く覚えています。再発が分かりました。完治させるには手術が必要でしたが、以前手術していただいたあのすばらしい技術をもつ先生からも「残念ながら手術をすることで生活の質が著しく落ち、また命を落とす可能性が高い。」とのこと、他の施設を訪ねても同じ答えでした。他の治療法も探りましたが、両目の失明が避けられないし治るとは限らないと言われ断念しました。
 それからは完治が望めないけれども、薬をうまく使い、できる限り生活の質を維持する治療をしていきましょうということになりました。治ることのない、辛い治療の繰り返し。でも娘は泣き言一つ言いませんでした。その後、サイバーナイフという極めてピンポイントで腫瘍部分に放射線を照射できる装置を使った治療法があると教えられ、14歳になった正月に茨城県の病院に救いを求めて治療を受けに行きました。その効果はとても高く、照射した部分のがん細胞は小さくなります。しかし治療の際、放射線がどうしても口の粘膜を通過し、照射後1,2週すると口の粘膜が炎症を起こし、食事をするたびに悲鳴をあげるほどになります。
 ようやく副作用の症状がなくなり落ち着いてきた頃、一度死んだふりをしたがん細胞は再び活動を始め、容赦なく体を蝕み、夏ごろ口の中に現われました。高校進学基準のための大事な試験がすぐそこに迫っていました。妻はなんとか高校進学の可能性を残しておきたいと考えていました。娘も高校進学を目指して嫌いな勉強も一生懸命やってきました。その努力を無駄にしたくない、でも病気は待ってくれない。進学は諦めようか、しかし二人は諦めていませんでした。そこで、午前中の試験が終わったら大急ぎで藤沢の学校から茨城県の日立市まで行き放射線治療を受け日帰りする。それを試験期間中繰り返し必要な科目をクリアして高校進学を果たしました。
 その後、試練は続き右目の視力を失いました。しかし、周りの人にはそれを感じさせないほど明るく元気な姿を見せていました。その後も放射線治療・抗がん剤治療を繰り返しました。副作用を心配する先生にはやめた方が良いのではと言われましたが、その反対を押して治療を受けました。「辛い治療を受けさせてごめんね。」と話しかけたとき、「だってやらないと死んじゃうもん」と答えを返してきました。副作用の辛さから治療を途中でやめてしまう人もいるのに、平然と治療を続けました。なんて強いんだと胸がいっぱいでその後何も言えませんでした。
 幸いなことに、楽しみにしていた修学旅行に参加することができました。でもとても仲良しの友達が体調不良で一緒に修学旅行に行けなかったことが心残り。そのため治療の合間のクリスマスに仲良しのお友達と一緒に二泊三日の箱根行きの計画を考え、無事に行ってきました。
 高校の入学が近づく頃、左の目も見えなくなりました。娘の病床での大きな楽しみは、インターネットでのゲームでした。ゲーム中に参加する友達と会話することで精神的な安定を得ていました。それが、両目が見えなくなることでできなくなりました。娘の治療期間の中で一番辛い時期がこの時期だったと思います。目が見えないと泣く娘に、何もしてやれない空しさを最も感じた時でした。
 5回目の放射線治療の後、口の中に穴が開き食事が不自由になりました。固形の食べ物が取りづらくなり、やがてほとんど取れなくなりました。サイバーナイフの治療も回数に限界を迎え、抗がん剤も効果が期待できなくなり、ついに治療の方法がなくなりました。
 娘は病院での生活よりも自宅での生活を望みました。自宅で痛みをコントロールしなくてはならず、しかも小児の末期がん患者でありとても大変なことです。そこで自宅を訪問してもらえる医療のチームを妻が探し、その先生達のお世話になるようになりました。
 5月の最後の土曜日娘は強い痙攣に襲われました。普段はとても冷静な妻もさすがにひどく動揺し、救急車を呼びましたが、訪問の先生が早く到着し処置を行って下さいました。しかし、これから痙攣を抑えるための薬も使い続けなければならなくなってしまいました。腫瘍が脳神経を強く圧迫しているということです。痙攣の時、娘はもう死ぬんだと思ったそうです。ところがまだ死ななかった。その時、自分は死ねないんだと思ったそうです。次の週でしょうか、妻に点字の勉強をすると言ったそうです。まだまだ生きていかなくてはならないのだから、生きるために必要な勉強をしておかなくてはと。どこまで前向きに次の自分を考えることができるんだと思いました。
 6月を過ぎたころ私に話があるといいます。聞くと、「わがままをいつも聞いてくれてありがとう。」と言います。次は兄が呼ばれ「お兄ちゃんいつも遊んでくれてありがとう」と言います。死ぬ前にきちんとお礼が言いたいと妻に言っていたそうです。
家族に残してくれたこと
 私たち家族はかけがえのない存在を失いました。でも、娘が諦めないでどんな辛い治療に対してもくじけなかったこと。自分が置かれる現実を受け入れようとしていたこと。自分が辛くても周りの人のことをいつも気遣ったこと。自分がいなくなっても悲しむことは望んでいなかったということ。を思えば、本当にものすごく寂しいですけれど、娘に恥ずかしくない生き方をしないといけないし、残されたものが頑張って生きなければと思います。
友達へのメッセージ
 お友達に対してもすごく気遣う子でした。自分が死ぬとひどく動揺する友達のことをとても心配していました。どんな状況におかれても苦しいことばかりに目を向けないで楽しいことを考えて欲しい。強くなってね、私は負けなかったよと言いたかったようです。娘は自分の死でお友達が悲しみに暮れることは決して望んでいませんでした。
最後に
 娘は長い闘病生活を送るうちに、病院で仲の良かったお友達を何人も見送りました。そうするうちに、自分の死も冷静に見つめるようになったようです。そして、寂しい別れはいやだよ、私の分も楽しんで生きてねと妻に言っていたようです。娘は7月15日午前5時35分に家族に見守られ、自宅のベッドで永眠いたしました。辛かった治療がうそのようにきれいな寝顔をしています。

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