ご近所のしだれ桜です。
素晴らしく美しい!!歩くのをやめて見とれてしまいました。
大きな木で、そこに無数の花が咲いていました。
近寄って見ると一見同じように見えて、そのじつ、ひとつとして同じものはないのです。
その造形の圧倒的な素晴らしさに感動しました。
調度、最近ずっと読んでは考えている「命はどこから来るのか?」について、はた!と実感するのもがありました。
この小さな花の真ん中に雄しべと雌しべがあって、そこには花粉があって
その雄しべの花粉が雌しべに着いたら受粉して実ができて・・・って考えると理科で習った通りのことで
別に驚くこともなくなってしまいます。
だけど、この糸よりも細い雄しべの先に肉眼では見えない粉があってその粉の中にも
雌しべの先の中にも命があって、やがてそれがまた命になっていくのですけど
その命は誰の命なのでしょうね?
そうその花ひとつの命じゃなくて、茎をたどり、小さな枝をたどり、大きな枝をたどって行くと
桜の「木」にたどり着く。
桜の木の命が無数の命の素だっていうこと?
でも桜の木も地中に根を張り、空に枝葉を広げ
日光と雨と地中の栄養で命を紡いでいるとすると
その命の素は太陽の光であり、空気であり、水であり地中の沢山のミネラル分だったりするわけです。
ということは一見命がないように思える土や水や空気や光やミネラル(金属など)などに命の素があるんですよね。
命の素は「命」じゃないですかね?
だとするとこの世の中に命じゃないものは何一つとして存在していないことになります。
まあ、これは「極楽飯店」などの本からの受け売りなのですけど
そのことを、本の内容としてでなく、自分ものとして「ストン!」と「腑に落ちた」瞬間が
この桜の花を見たときなのです。
黒斎さんが言う「私という肉体が命を持った」のではなくて
「命が私という肉体を持った」という感覚・・・それが分かりました。
その後のことはまだ思索中です。理解はできるけどまだ「腑に落ちてない」状態。
何度も本を読み返し、いろいろなことを体験する中できっと腑に落ちていくことと思います。