有志舎の日々

社長の永滝稔が、 日々の仕事や出版・学問などに関して思ったことを好き勝手に 書いていきます。

専門書は電子かするべきなのか? 

2017-10-10 11:29:21 | 出版
日経新聞電子版に「専門書の電子化を(十字路)」という記事がありました。

「専門書の謝辞には必ずと言って良いほど「出版情勢が大変厳しいなか」という文言が登場する。そうだとすれば、学会誌などと同様に専門書の出版は電子書籍を基本とするぐらいの発想の転換が必要ではないか」。
だそうです。

つまり、そんなに専門書が売れなくて厳しいのならば、コストが低い電子書籍にして、安い定価で売ったらよいだろう。その方が沢山売れる。と思っているわけですね。
ところがそうはいかないのですよ。
専門書というものは定価が高くても欲しい人は買うし、安くても欲しくない人は買わない。
もちろん、定価が安ければ少しは買う人は増えるでしょう。
でも、定価を安くした分をカバーできるほど売れるのだろうか。それは極めてあやしい。
だから、専門書の電子出版をするというベンチャー企業は出てきにくい。商売にならないわけです。
だったら、NPOや図書館などの機関がオープンソースにして無料で配ればよいという意見もあります。
たしかにそうすればタダですから懐はいたみません。研究者にとって有り難いことこの上ない。
そして学問は別の形で生き残るでしょう(しかし、そこには学問的な評価だけで公開される世界しかなくなりませんか。学問の政治性・社会性を考慮した公開もありうるのでしょうか)。

一方で、新刊専門書を低価格の電子書籍にするかどうかは企業の経営判断次第ですが、オープンソース化したら学術出版社は傾き、あるいは潰れ、日本の表現の自由の一部を担ってきた出版文化は変質します。
それでいいんだったら、そうすれば良い。
商売にならなくても、学問を広めるのは我々の使命だ、という心意気だけでやっている出版社はたくさんあります。
そう、我々学術書出版社は、そういう商売にならないことを敢えてやっている「拗ね者」なのです。逆にいえば「拗ね者」でなければこんな商売つとまらない。
それを誇りとしているのです。
それを無価値だとするのならば、そうすれば良い。それがあるべき日本の公共性であるならば。

私は死んでも新刊の学術書を電子書籍で出すなんてことはしませんので、反動派で結構。
ただ、言っておきますが、私も永久にオープンソースにしなくて良いと言っている訳ではありません。著作権法の範囲で、著者が亡くなって50年経ったらオープンソースで公共物の扱いにするという考えは理解しますし、重版分からは電子化するという考えはあり得ます。
しかし、新刊を電子化したりオープンソースでという考えには与しません。

今の議論は、「需要のない人文学などは大学で教える価値はない」と言っているのと同じで、「需要のない専門書は安価な電子書籍で頒布するか、オープンソースにして無料で配れば済むでしょう」ってわけですな。
「知」の価値も随分下がったものです。
私は逆で、高価な専門書であっても買って読みたい、勉強したいと考える市民を生み出すことが、社会としても日本経済としても必要なことだと考えます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。