1月上旬、初めて古書の均一祭(初日は1冊200円均一、2日目は100円均一)に、「本が育てる街・高円寺」(略称:本街)からの助っ人ボランティアとして参加しました。
そこで思ったことと、あとで古本屋さんから教えてもらったことです。
こういう古書の均一祭には、私たち学術書出版社が日頃やっている学会販売の10倍くらいお客さんが来るということにまず驚きました。
決して今回が特別に多かったわけではないようなのですが、10時の営業開始と同時に、厳寒のなかを外で待っていたお客さんたち100人くらいがドドドッ!と一斉に中に突入してきたのには面くらいました。
学会販売もこれくらいの勢いでお客さんが来てくれるといいのに、と羨ましくなりました。その後も、「ヒマだったら読もう」と思って持っていった文庫本を開く時間は全くなく、私が担当していたレジはひっきりなしにお客さんがやってくる状態。
「学会販売の10倍は忙しい」というのが私の印象でした。現状の学会販売は昼休みに忙しくなる程度で、あとの時間は殆ど閑古鳥が啼いている状態。「研究者の人も本を買わなくなったねえ」と版元同士で愚痴り合う時間がありましたが、古書市はそんなヒマは全くなく、怒濤のように時間が過ぎました。
それから、200円均一なのにスマホでアマゾンの古書値段を確認している人がいたのにも驚き。古本屋さんの話によると、アマゾンの古書売買や新古書店によって、古本マニアを含む一般人の「にわか古本屋」が膨大にわき出て、古書市のような安く仕入れることが出来る場所に集まってきているみたい。つまり、本に全く愛情などなく、単に安く商品を仕入れられればよいという、「にわかセドリ屋」(セドリ屋とは「競取り屋」で、古本を色々な場所で安く仕入れ、高い値段で売って利ザヤを得ることを商売にしている人の事)ばかりが増えて古書業界は「荒れている」そうです。
そういう過剰化したセドリによって、去年の秋に行った高円寺フェスでの「本の交換市」でも嫌な出来事がおきました。
交換市の棚には、商店街や出版社の皆さんが無料で提供してくれた、結構、良い内容の本が集まったのですが、ある一人のお客さんが150冊もの見るからに安価な本ばかりを持ち込んできて、それと交換して、高く売れそうな本を150冊ごっそり持って行ってしまったそうです。
性善説に立って、交換の冊数は規制していなかったのでこういう事が起こったのですが、何とも悲しいことです(次回からは交換冊数に制限を掛けざるを得ません)。
こういう人は、にわか「セドリ屋」だった可能性があります(分かりませんが)。
同じようなことは全国の「ひと箱 古本市」でも起こっていて、結局、にわかセドリ屋・にわか古本屋の仕入れ場所になってしまい、本来の「本を通して地域のコミュニケーションを」「本が好きな人が安く買える場所を」という思いが踏みにじられている。
私が参加している「本街」では、「本の交換」方法のリニューアルによって、こういう事へのアンチテーゼを打ち出すつもりですが、具体的にはもう少しお待ち下さい。
本を愛する心を捨ててしまって、ただの金儲けの道具にしている事に何の痛痒も感じなくなった商売人は終わりだと思います。
私のような出版を業としている人間も、「知」を商売のネタにしているという後ろめたさをどこかで背負いながら生きる、それでこそかろうじて存立し得る商売だと思うのです。
餓鬼道には堕ちたくはありません。
そこで思ったことと、あとで古本屋さんから教えてもらったことです。
こういう古書の均一祭には、私たち学術書出版社が日頃やっている学会販売の10倍くらいお客さんが来るということにまず驚きました。
決して今回が特別に多かったわけではないようなのですが、10時の営業開始と同時に、厳寒のなかを外で待っていたお客さんたち100人くらいがドドドッ!と一斉に中に突入してきたのには面くらいました。
学会販売もこれくらいの勢いでお客さんが来てくれるといいのに、と羨ましくなりました。その後も、「ヒマだったら読もう」と思って持っていった文庫本を開く時間は全くなく、私が担当していたレジはひっきりなしにお客さんがやってくる状態。
「学会販売の10倍は忙しい」というのが私の印象でした。現状の学会販売は昼休みに忙しくなる程度で、あとの時間は殆ど閑古鳥が啼いている状態。「研究者の人も本を買わなくなったねえ」と版元同士で愚痴り合う時間がありましたが、古書市はそんなヒマは全くなく、怒濤のように時間が過ぎました。
それから、200円均一なのにスマホでアマゾンの古書値段を確認している人がいたのにも驚き。古本屋さんの話によると、アマゾンの古書売買や新古書店によって、古本マニアを含む一般人の「にわか古本屋」が膨大にわき出て、古書市のような安く仕入れることが出来る場所に集まってきているみたい。つまり、本に全く愛情などなく、単に安く商品を仕入れられればよいという、「にわかセドリ屋」(セドリ屋とは「競取り屋」で、古本を色々な場所で安く仕入れ、高い値段で売って利ザヤを得ることを商売にしている人の事)ばかりが増えて古書業界は「荒れている」そうです。
そういう過剰化したセドリによって、去年の秋に行った高円寺フェスでの「本の交換市」でも嫌な出来事がおきました。
交換市の棚には、商店街や出版社の皆さんが無料で提供してくれた、結構、良い内容の本が集まったのですが、ある一人のお客さんが150冊もの見るからに安価な本ばかりを持ち込んできて、それと交換して、高く売れそうな本を150冊ごっそり持って行ってしまったそうです。
性善説に立って、交換の冊数は規制していなかったのでこういう事が起こったのですが、何とも悲しいことです(次回からは交換冊数に制限を掛けざるを得ません)。
こういう人は、にわか「セドリ屋」だった可能性があります(分かりませんが)。
同じようなことは全国の「ひと箱 古本市」でも起こっていて、結局、にわかセドリ屋・にわか古本屋の仕入れ場所になってしまい、本来の「本を通して地域のコミュニケーションを」「本が好きな人が安く買える場所を」という思いが踏みにじられている。
私が参加している「本街」では、「本の交換」方法のリニューアルによって、こういう事へのアンチテーゼを打ち出すつもりですが、具体的にはもう少しお待ち下さい。
本を愛する心を捨ててしまって、ただの金儲けの道具にしている事に何の痛痒も感じなくなった商売人は終わりだと思います。
私のような出版を業としている人間も、「知」を商売のネタにしているという後ろめたさをどこかで背負いながら生きる、それでこそかろうじて存立し得る商売だと思うのです。
餓鬼道には堕ちたくはありません。