てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

旧北国街道をゆく

2024年02月12日 16時34分06秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
--------旧北国街道をゆく--------
                   ~石川県内限定版~



その昔、
源平の頃では木曽義仲が京都に向けて進撃し、


江戸時代では、参勤交代で加賀の大名行列が金沢江戸を往復し、
--

奥の細道では松尾芭蕉が南下して通った道であります。
-----

金沢で生を受けたオイラ、地元の旧街道に興味を持ったのはいつの頃だろうか。
かねがね旧北国街道を歩いてみたいと思っていました。
富山との県境から福井との県境までの石川県限定版ではありますが、だからこそ、細かく丁寧に紹介したいと思います。

味方の本を片手に、いざ旧北国街道へ





【加賀国編】
①倶利伽羅編
②津幡編
③金澤森本編
④金澤鳴和編
⑤金澤東山編
⑥金澤尾張町編
⑦金澤南町編
⑧金澤有松編
⑨野々市編

⑩松任中町編
⑪松任荒屋柏野編
⑫手取川編
⑬寺井編
⑭小松梯川編
⑮小松京町編
⑯小松串茶屋編
⑰加賀七曲り編
⑱加賀動橋編
⑲加賀大聖寺編
⑳越前国境編








【県外編】
①越中倶利伽羅編
②越後親不知編
③越前細呂木編
④越中埴生編
⑤越前今庄編
⑥越中愛本橋編
⑦越前二つの峠編
⑧越前汐越の松編
⑨美濃結びの地編

旧街道を何と呼ぶべきか


◎味方の本(書籍紹介)
大変面白く参考になる本です。


コメント (9)
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旧北国街道をゆく《県外》美濃 大垣結びの地編

2024年02月12日 16時13分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
ご存じのとおり、奥の細道のゴールは美濃国大垣です。
奥の細道の場合は、ゴールというより結びの地と言いますね。

その大垣へ行って参りました。
正確に言えば大垣は中山道になりますが、そこは御愛嬌。

それにしても奥の細道の最後、敦賀から大垣まで結構距離があると思うけど、一気に飛ぶんですね。
余呉や木之本、関ケ原なんかは戦場の地でいろいろ見て回れたと思うけど、芭蕉も最後は疲れてたのかもしれませんね。曽良もいなかったし。


はい、大垣の、


船町川湊に到着です。


いい雰囲気の場所。


川べりに降りてきました。


住吉燈台です。


ここに来たかったんです。

奥の細道むすびの地記念館です。

館内撮影はNGでしたが、わかりやすいDVDを1時間以上視聴していました。(約20分×4バージョン)

お茶を飲んで、


もうしばらく、周辺をぶらついて、


右京みち、左江戸道


アオサギがいました。


いいところでした。


はい今回はここまで。

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旧北国街道をゆく《県外》越前 汐越の松編

2022年01月08日 19時09分48秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
旧北国街道を歩いた松尾芭蕉。

その松尾芭蕉の向こうに平安から鎌倉時代の歌人「西行(法師)」が透けて見えてくる。
そもそも芭蕉が奥の細道を決意したのも西行という存在があったからである。


その芭蕉が越前芦原で、通常なら一句詠むべきところ詠まなかった場所がある。
それが「汐越の松」。

なぜ松尾芭蕉はこの歌枕の地で詠まなかったのか?

それは西行が500年も前に有名な歌を詠んでいるから。
「終宵(よもすがら) 嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越しの松」
(意味:ひと晩中嵐に波を打ち寄せさせて、枝からしたたり落ちる水に月の光を美しく輝かせている汐越の松よ)

芭蕉は、「この一首にて数景尽きたり、もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし」と、
(意味:この一首で、汐越の松の情景は言い尽くされている。もしこの歌にひと言でも加える者がいたら、それはすでに指があるのにさらに余分な指を加えるようなものである。)
ということなのだ。

芭蕉は宮城の松島でも、あまりの美しさから作句しなかったとあるが、
いろいろ調べるてみと出来た句がイマイチだったので採用しなかったというのが本当らしい。
しかしこの汐越の松は、西行法師の歌に尽きるということでとても作句できなかった場所ということです。

そんな素晴らしい場所があるなら、芭蕉ファンならずとも訪れてみたい。

イメージ画を描いてみよう。


てへへ


出来た

西行も芭蕉も舟を出して海から見ている、だから”汐越し”なのだ。
波が打ちよせる岸壁の上に松林が並んでいて、月夜に舟から眺めるその風景はなんとも美しかったのだろう。

松からしたたる水に月光が映る。

おそらく、こんな感じだったのではないでないだろうか。

こんなに興味があるのに、
なぜオイラは今まで行っていないのか・・・?

それはゴルフ場の敷地内にあって入れなかったからです。スコーン

それでもオイラはあきらめが悪い男でありまして、
ネット情報やグーグルマップなどから付近の海岸線の道からアクセスできると見込んでいた。
ニヤリ

では行こう!


そういえば、行く途中に西行にまつわる場所があったな、

加賀市の旧街道沿いにその場所はある。


ここだ。


都もどり地蔵


フムフム


さらに進んで、
石川県から福井県吉崎に入る。

鹿島の森が見える。


あちらは吉崎御坊跡のあった高台


ゴルフ場に来ましたが、当然通過します。


風力発電の設備が多くあります。


海岸へ向かおう。


海岸沿いの道に出る。


海が綺麗です。


少し走ると、駐車できるスペースがあった。


高台を見る。

あのあたりの風景は、まさにあのイメージ画の通りだ。

では登っていこう。


足元はこんな感じ、いける


いいぞ


よいしょ


だいぶ登ってきたじょ。


もう少しだ。


登りきったぞー


下を見る。

ずいぶん高い。

さてと、


あれか・・・、


「奥の細道 汐越の松 遺跡」とある。


ちなみに松尾芭蕉が見た松は、


この松ではない。


ここに倒れているこっちなのだ

なんせ300年も前だから、もう朽ちてしまっているのだ。
倒木ながらもよくぞ保存していると褒めてあげたい。

近くで撮りたいところだが、柵内はゴルフ場敷地だからね。


でも、ようやく会えた。


850年前の西行法師も330年前の松尾芭蕉も感動した「汐越の松」

オイラも遠くから拝見できて感動です。


はい今回はここまで。


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西行という人・・・

2021年11月17日 19時09分26秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
最近、オイラ的には何度目かの松尾芭蕉ブームとともに、
さらに昔の歌人、西行について興味が沸いているのです。

あの松尾芭蕉も西行を強く意識して、奥の細道を歩いています。
旧北国街道でも微かに西行の足跡が残っています。

西行は平安時代の歌人、はるか千年も前の人です。
そんな大昔の和歌がいまだに感動するのは凄いと思います。

Amazonでこれを注文しました。

ちょっと難しいと思うけど、少し読んでみようと思います。
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旧北国街道をゆく《県外》越前二つの峠編

2021年05月29日 22時23分19秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
越前は今庄宿の先にある板取。


日野川の支流である孫谷川。


おっ説明板がある。



読めん・・・

ならば、
щ(゚V゚щ) くるっとキャモ~ン!

味方の本登場です。

越前国もそろそろ終わり、これより近江国へ向けて峠に登っていく途中にある集落です。

ここは板取でも下板取という場所。

少し進んで、




上板取に入ります。


石畳。


芽葺きの古民家が数軒ありました。


「越の国へようこそ」

国境から最初の集落ですからね。

それにしてもよく保存されています。

人もお住いのようです。

さらに進むと、板取関所跡。


ここ。


さて旧北国街道は通常このまま栃ノ木峠と向かうのですが、
ふもとの今庄宿で二つに分かれた木ノ芽峠経由で敦賀へ向かう方の旧街道に向かいます。


そこに行くには、この今庄365スキー場を越えていかねばなりません。


これを登るのです。

といっても車が通れる道がありますよ。(ほっ

かなり急こう配の坂道を登り上がると、駐車場がありました。


周辺ウォークマップを見ます。

なるほど少し歩けば旧北国街道(旧北陸道)があります。

ここから歩きます。

脇に木の棒が何本か置いてあったので、一本取ります。




旧街道に出ました。


言奈地蔵堂があります。


この道も旧北国街道です。

味方の本によると、
奈良時代、今庄から敦賀までのルートは、標高389メートルの山中峠を経由するもの、
次いで平安時代に開設された標高628メートルの木ノ芽峠経由となったが、いずれも北陸と京を結ぶ北陸道の原形である。
柴田勝家によって、敦賀を経由せずに直接今庄から木之本へ繋ぐ標高593メートルの栃ノ木峠経由の北陸道が開設されると、以後メインルートとなったが、
江戸時代においても山中峠、木ノ芽峠経由も盛んに利用され、栃ノ木峠経由が東近江路、木ノ芽峠経由が西近江路とも呼ばれるようになった。

では木ノ芽を目指して進もう





昔のままの姿でしょうね。


視界が開けた。

向こうに峠がある。

見えてきたぞ。


木ノ芽峠。


峠の茶屋です。


ふむふむ。


中に人が居られるようでした。


石標があります。


明治天皇木ノ芽峠御小休所附御膳水。

明治天皇巡幸ではここで御休憩され、

このお水でお茶を飲まれたようです。


この峠、多くの方が行き来したんでしょうね。


松尾芭蕉も、


新保か、幕末に水戸の武田耕雲斎率いる天狗党もここを通ったわけですね。


さて木ノ芽峠をあとにして、もう一つの峠を目指します。



栃ノ木峠です。近江国に入りました。

橋の向こうが越前国です。

考えてみれば、古代ならばこれより向こうが越の国(越前、越中、越後)となります。
※ちなみに加賀・能登は越前に含まれていました。

なぜ北陸道と呼ばれたのか?
とある書籍に書いてありましたが、本来なら東海道と同じように北海道と呼ばれるべきだった、
古代の畿内人が国境よりあちらを見ても山深くのイメージが強く、海道というイメージができなかったとか・・・、


この峠の由来、樹齢500年の巨大なトチノキがあったから。

残念ながら令和元年に朽ちて切られたようです。

あれか!


たしかに大きい、直径2mくらいかな。


旧街道は、この急な傾斜を上り下りしていたようです。



はい今回はここまで。





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旧北国街道をゆく《県外》越中愛本橋編

2020年12月12日 13時15分06秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
越中は黒部川の中流、愛本橋へ行ってきました。

その少し手前にある黒部市歴史民俗資料館へ


入り口前にはこういうものも、

明治以降に架けられた鉄骨製の一部ですね。

ではいよいよ入ります。


江戸時代の愛本橋は、大変珍しい橋で、


日本三大奇矯と呼ばれていました。


ふむふむ

<ウィキより>
旧橋(刎橋)かつては全長61.42メートル 、幅3.62 mにも及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の1つといわれていた。
河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた旧北国街道の上街道に架かる橋で、加賀藩5代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる。参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を避けるために山沿いに新道を開いて黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようとしたが、家臣たちは領地防衛の要害地に橋を架けることに反対、綱紀ただひとりは「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれてる。
洪水時には大量の土石と水が集中し橋脚は流されてしまうために川の両岸から大木を突き出す構造の刎橋であった。

味方の本、щ(゚V゚щ) きゃきゃキャモ~ン!
三日市から泊まで間の二つのルートはこういう感じ。
一つは黒部川四十八瀬を渡る下往来(下街道)、もう一つは上流の愛本橋を通る上往来(上街道)です。


愛本橋は、

現在の橋より少し上流にありました。



なんじゃこりゃ


対岸に渡り謎の施設付近で、


洪水があったんだ。


愛本刎橋の痕跡を見つけたかったがわからなかった。


現在の愛本橋も美しいですね。


河原にやってきて黒部川を見ます。

黒部川は急流で有名ですよね。

はい今回はここまで。

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旧北国街道をゆく《県外》越前今庄編

2020年12月12日 12時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
越前は今庄宿。

旧北国街道の重要な宿場町です。

さて、こ~う~れ~いの味方の本、
щ(゚V゚щ) くるくるキャモ~ン!


味方の本によると、

今庄は、京方面への玄関口として繁栄していた宿場町で本陣や脇本陣も置かれていたとあります。

今日はここから、


地図ではここですね。


おっクランクだね。


当然、防衛上の目的があります。


古い町並みが残っていますなぁ~。


いいね。


このあたり左右になにやらありますぞ


まずは右側ですが、


明治天皇がご宿泊された場所ですね。

行在所(あんざいしょ)となると御小休所と違って一時的な宮殿という意味合いになるそうです。

そしてこの場所は加賀本陣跡でもありました。


反対の左側は、


脇本陣跡です。

加賀藩は大藩だったので、本陣だけでは賄いきれませんので、予備的な脇本陣が存在しました。

しばらく進むと右手に、新羅神社


朝鮮関係ですね。


そろそろ食事をと、


旧街道沿いにあった蕎麦屋さんに入りました。

越前おろしそばです。

ここには大変興味深い本置いてあって、


なんと「北国街道をゆく」というではありませんか


蕎麦をすすりながら、短時間集中して読み込みました。


昼食後しばらく歩くと、


おっ


昭和の看板、懐かしや~。

蕎麦食べたばかりだけど、ボンカレー食べたくなったよ。




いいねぇ


登ってみようかな、


えっほ、えっほ


歩いてきた旧街道を見下ろす。


しばらくすると、左右の分かれ道が、


文政の道しるべ、とな


右は山中峠を越えて敦賀へ、左は旧北国街道で栃ノ木峠に行きます。


ここですね。

はい今回はここまで。

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旧北国街道をゆく《県外》越中埴生編

2020年05月02日 20時07分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
旧北国街道をゆくの県外編です。
以前に越中倶利伽羅編でいい感じの旧街道を歩きましたが、今回はその先を行ってみました。

こ~う~れ~いの味方の本、
щ(゚V゚щ) くるくるっとキャモ~ン!


そして~、
お~じ~い~け~ん~、キャモーン

よろ・・よろ・・・


まぁ・・いい、おじい犬の散歩も兼ねて一緒に行こう。



たしか前回はここまで来たんだよね。


このベンチで、


小矢部のご婦人の方に旨いおにぎりを頂いたんだ。(前回の様子)


この先の道は、がけ崩れで進めなかったんです。(前回の様子)


道路はしっかりと直っています。


では旧北国街道の越中国の続きスタート

赤矢印から、埴生護国八幡宮に向けて進みます。

ここから旧北国街道に入ります。


矢立と呼ばれる場所です。

源平倶利伽羅合戦の際、ここは義仲軍の最前線の地で、平家軍の放った多くの矢がここに突き刺さったことに由来します。

おじい犬 GO!

よろよろ・・・

今日は気持ちいいね。


出ました!


ここには何度か来てるんだ。


そうそうこれこれ、このノート。


さてと、

ヒゲ親父 2020 5・2。

かってここに峠茶屋があったといいます。

記録では相当賑わっていたとあります。

松尾芭蕉と曽良もここでお茶を飲んだのかな。





一応、熊除けの鈴を持ってきてました。


気持ちいいですね。


ときおり涼しい風が吹き、

サワサワ~と木々の葉が鳴ります。

ふむ。


ほんと誰もいないね。


昔ながらの風景なんだろうなぁ。


さらに進むと、

巴塚、葵塚の看板。

当然行ってみよう。


それぞれ木曽義仲の妾です。
巴は知っていたが、葵は知らない。

調べてみると、
巴御前は、義仲が亡くなった後、晩年になり尼になってこの越中の地で没した。


葵御前はこの倶利伽羅合戦で討死にする。そしてこの場所に葬られた。


女性にも関わらず、巴も葵も義仲軍の武将として戦っているというから逞しいものです。

砺波山より石坂という里に下りてきた。


遠くに散居村が見えます。


埴生の集落。


左手に見えてきたのが医王院。


立派な仁王像と十王像があります。


この裏山の若宮古墳があります。


お墓の向こうに前方後円墳が見えます。


医王院の前をさらに進むと橋が見えてきました。


毘沙門川とは立派な名前ですな。


そして・・・、

目的地に着きました。
まっ、GWとはいえコロナ禍で誰もいません。シーン・・・

埴生護国八幡宮です。


味方の本でも重要な場所として記載されています。

ここには松尾芭蕉と曽良も参拝しています。

そして木曽義仲が倶利伽羅合戦前にこの地で戦勝を祈願しています。

でかい・・・立派な像です。

この参道石段、雰囲気あってとてもいいです。


拝殿。


ウィキより
養老2年(718年)創建。「源平盛衰記」には寿永2年(1183年)5月、木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いの戦勝を当社に祈願したことが見える。以来、武将の崇敬を受け、前田利長や佐々成政から社領を寄進された。義仲戦勝祈願書、武田信玄書状などを社宝とし、境内入口には、義仲の騎馬像と源氏軍が鳩の案内で得たという名水「鳩清水」がある。また、蓮沼城主遊佐慶親の寄進による石段がある。 社殿は、国の重要文化財に指定されている。

いいね。


ここには興味深い場所があります。


この木枠内で、なんと埋蔵金が発掘されたのです。


ほらね。

平成14年って、意外と最近じゃないですか。

ちょうど正午、この時間になると結構暑いです。

はい今日はここまで。


これだけ進みました。





グーグルマップではこう




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◎味方の本(書籍紹介)


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旧北国街道をゆく《県外》越前細呂木編

2020年02月08日 23時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
旧街道をゆくでは、県内にこだわり、丁寧に紹介してきました。
⑳越前国堺編をもって一応終了しておりますが、その先も気になるところでした。

で、本日行って来たのです。

相棒は、味方の本、
щ(゚ー゚щ) くるくるっとキャモ~ン!


そして、おじい犬です。
щ(゚v゚щ) わんわんキャモ~ン!



今日はここからです。

赤矢印からのスタートです

左に広がる広大な梨園。


さて行くか!


おじい犬も元気です。(今のところは・・・)


ん!

こういうの見逃さなくなりました。

一〇四と刻まれています。

どういう意味だろうか、

そして、


加賀と越前の国境の目印、お国境名号塔です。

県内版では、ここが終点の場所でしたが、

今回は越えていきます。

ワン!

足場はぬかるんでいるけど、なんとか進めます。

車のタイヤ跡はありますが、1時間ばかりの間では1台も通りませんでした。

右手にはゴルフ場。


このあたりの道は昔のままのなんでしょうね。


少し向こうが開けてきました。


おや、


往来安全の名号塔

このあたりに茶屋があったとかいてあります。

出た!

クマか、イノシシか、




林道を抜けたようです。


案内板がありました。

今歩いてきた場所、旧北陸道(旧北国街道)において唯一面影を残しているとあります。
貴重な場所なんだ。

そして、これより「のこぎり坂」です。


下り坂がはじまります。

右手には北潟湖が見えます。

左手にはソーラーパネル。


えっほ、えっほ

おじい犬も少し疲れてきたかな、
水溜りの度に、水を飲んでます。

のこぎり坂を下りきると、三叉路と右に地蔵堂が見えてきました。


ここは、分かれ道のようです。


福井側から見てこの分かれ道、
右へ行くと、今通ってきた旧北国街道。


左へ行くと、蓮如道(吉崎道)。


蓮如道を少し行ってみます。


なかなかの切り通しです。


毎年4月17日~23日までの「御下向」(真宗本廟~吉崎別院)と5月2日~9日までの「御上洛」(吉崎別院~真宗本廟)が蓮如上人御影道中と呼ばれ
なんと一行は京都から吉崎まで肖像画「御影」を輿車にのせて歩き続けるのです。もう346年続いているそうです。



しばらくいくと、吉崎御坊です。


北陸にとって蓮如上人は絶大の影響力がありましたからね。

この地が北陸での布教の拠点になりました。

旧街道に戻ります。

集落が見えてきました。


越前国最初のお宅登場です。

きっと先祖は忍者(こればっか




橋です。


観音寺川の細呂木橋。

おじい犬、字読めるの?

橋を渡ると右手に、


細呂木関所跡です。


味方の本によりますと、

外様大名の加賀藩を意識した福井藩にとっても重要な関所であったという。

ご苦労様、帰ろうかね。


今日はここまで、




これだけ進みました。




グーグルマップではこう



なかなか難しいけど、
この旧北国街道をゆくは、さらに先を目指します。



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旧北国街道をゆく《県外》越後親不知編

2020年02月04日 21時42分46秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
行って来ました新潟県最西端の町、糸魚川市です。

2016年に糸井川の大火と大変なことがあった町です。

かねてよりここには来たかったのです。
なんせ、旧北国街道最強難関の親不知がある場所ですから。

越後国(新潟県)に突入!


県堺の町、市振(いちぶり)の街道の町です。


ここには幕府が管理した市振の関所がありました。


しばらく進むと

奥の細道市振の宿桔梗屋跡とあります。


松尾芭蕉と曽良が泊まった「桔梗屋」で、隣り部屋に伊勢参りの遊女の二人ずれが泊まり、道中の同行を乞われたが断ったとされている。

弘法の井戸。


そして町の端にある海道の松です。


これより先に旧北国街道最大の難所である親不知(おやしらず)が控えているのです。


さてと、


いよいよ向こうに見える最難関、親不知へ向かいます。


到着!


ここに来たかった。


街道一の最難関というその理由、ここは道を歩くのではなく
なんと海を歩いて通らなければならないのです。

オイラも昔はここの道は片側が断崖絶壁の細い道かと思っていました。
三国志の蜀の国にある桟道のようなイメージ。

そんなレベルではなく、ここでは海を歩くのだ。(まじかいや・・・

それがわかる場所があります。

行ってみよう


海岸に下りていく。

急な下り坂

途中に面白いモノがあった。


かっての鉄道用のトンネルだ。

鉄道省時代です。

恐っ!


さらに下りる。

松尾芭蕉も歩いた海岸とある、もうワクワクです

あそこだ。


到着


まずは、ちゃぷちゃぷ


そして、ここが旧北国街道なのです。


当然、昔は今降りてきた階段なんかありません。
この海岸沿いを歩いていたことになるのです。

加賀方向はこちら!
ここを行くのです

そう、その岩の右手の海に入り通って向うへ行くということなのです。

こんな感じで・・・


昔はもう少し浜があったようですが、それでも波が押し寄せる超危険な場所だったのです。

江戸方向はこちら。

こりゃなんとも大変だわ。

大名行列など重要な一行が通る場合は(当然偉い人は駕籠に乗っていますが)、
この辺りの住民男性を駆り出して、ふんどし一張になった男達を海側に並ばせて、波消しブロックならぬ波消し集団の内側を一行が通過したという。
いやぁ凄いものです。

それにしてもなぜ崖上に道を作らなかったのだろうか?
加賀藩なら街道整備も可能であったはずなんだけど、
事実、越中黒部川の難関場所も上流に愛本橋という日本三大奇橋を架けて改善しています。

おそらく江戸幕府が許さなかったのでしょう。
江戸に通じる道が困難であればそのまま改善させないのが江戸防衛上の対応だ。
有名なのは東海道の大井川ですね、決して橋を架けさせなかったからね。
この親不知も加賀藩に対する防衛戦略かもしれませんね。


はいこの場所に来れてよかった。
この状況をナマで見たかったんです。

戻ります。


国名勝 奥の細道風景地 を歩きます。


おっ


親不知の街道の模型があります。


これはいいね。


ここは、こういう状況なのです。


タッタッタッと走って、

なんとも凄い・・・。

⑩の場所は絶壁に南無遍照金剛と刻まれており、ここからはもう大丈夫というところだそうです。


まさにこの下にそういう場所があるということなのです。



あ~来れてよかった。


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旧北国街道をゆく《県外》越中倶利伽羅編

2020年02月03日 20時12分40秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
オイラの「街道をゆく」シリーズは、
石川県内の旧北国街道を歩き、現在の街道沿いから当時の名残りを求めて
富山県境の倶利伽羅峠から福井県に向けて旧街道を南下しているわけです。
----------------------------------------

今回は県外編として、最初の倶利伽羅から逆に富山県側へ行ってみました。

倶利伽羅峠は石川富山両県の県境でこの峠は旧街道の風情を色濃く残している場所なのでぜひ行ってみたかったんだ。



で、早朝に行って来たわい



まずは味方の本カマ~ン

青印が県境。

ここです。


そしてまさにここが、加賀国と越中国の境界線なのだ。


では越中国に行きましょう


ここからの100メートルほどの道は、


完全に昔の旧街道の姿そのものです。

大変貴重な100メートル。

そこを抜けると猿ケ馬場(さるがばば)でした。


見晴台から、地獄谷方向を見る。


見晴台から降り、先に進もうとした時に・・・

一瞬だけ、風が吹き、
八重桜の花びらが信じられないほど舞い上がったのです。
おぉ!


まるで死者の魂を浄化するかのように
そうここは悲しき場所なのです。

倶利伽羅峠といえば、旧街道もそうですが、
何と言っても源氏と平氏の戦いがあった地で、倶利伽羅合戦地なのです。
源義仲率いる源氏軍平維盛率いる平氏軍、
両軍合わせてなんと15万!(源氏軍5万、平氏軍10万 諸説あり)
あの関ヶ原の戦いの匹敵(東軍8万、西軍8万 諸説あり)する人数です。

見晴台にはこういう案内板もあります。


興味あるんだよねぇ~。


この付近には多くの戦いの跡があるのです。

源平供養塔。

この猿ケ馬場には


火牛の像があります。

牛の頭に松明を点けて平氏軍を崖から追い落としたとあるが、
実際こういう戦術が取られたとは考えにくいですが・・・。

松尾芭蕉も奥の細道で通った倶利伽羅峠

一句読んでますな。「義仲の寝覚の山か月かなし」
芭蕉が朝日将軍とうたわれた木曽義仲の末路を涙して詠んだとあります。

おっ!


平氏軍の本陣です。


まさにここで軍議を開いたんだね。


平氏軍は圧倒的な戦力だったのに・・・・。

油断したのか、おごりがあったのか・・・、


とにかくこの倶利伽羅峠は、
旧北国街道に倶利伽羅合戦に後で紹介する倶利伽羅不動寺にと歴史好きにはたまらない場所です。


さて進もう!



が!







通行止め


う~ん・・

あれ?

車はダメだけど、徒歩ではもう少し行けそうです。


親父行きま~す♪


おっと、


ここは見晴らしのいいビュースポット


小矢部の町が見えますね。

遠くに立山連邦の山影が見えます。

倶利伽羅峠にはこういう案内板があちこち立っており。


合戦の情報を教えてくれます。


この下から義仲本隊が駆け上がってきたのか。


旧街道の案内


これより旧街道に入ります。


お~け~!(恐くないよ


熊よけの音だし棒

お~け~(こっちは怖い

よし!

木とか叩いて音を出しながら進みます。




ここは砺波山


雰囲気あるね


このような小休止スポットもあります。


誰もいません・・・


だからこそ、熊が怖い・・


おっあったあった!


ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!

必要以上に叩くオイラ

弘法の水。

弘法大師が水を出したという伝説はどこにでもありますね

カコン!


ずいぶん下ってるね。


えっほえっほ


おっ


道路に合流です。


「源平合戦の時、平軍の将、平行盛この地に陣を布き源氏方と対峙した」とある。


しばらく行くと、70歳前くらいの老夫婦がベンチで休憩していた。


挨拶すると、「どうぞどうぞ」ともてなしてくれた。


タケノコご飯のおにぎりとか山菜のおかずまで頂戴しました。

旨い

いろいろ会話していると、
この方々は小矢部市の在住の方で、
なんとこの倶利伽羅峠のいろいろな管理や世話をしている団体に所属しているということです。

今日も旦那さんは草刈り機を持ちこんで、沿道の除草されているのだ。
先程からかわいらしい白い立て看板があったけど、それも設置されたし、
あの熊よけのガンガンや棒なんかも設置されたのだ。

そういえば、あの旧街道なんかも雑草も無く普通に歩けるのは、まさにこの方々のお陰である。

それからいろいろ話しました。

オイラ「もっと県や市が整備すれば多くの人が来ると思うんやけどね」
老婦「いえ、昔日本人同士がここで戦い、多くの方が亡くなったこの地をそっとしておく方がいいんやろね」
そうか地元の方はそういう考えをするのか・・・。

オイラ「NHK大河ドラマ、義仲・巴来るといいですね」なんか言っちゃって。
老婦「そうやね~、世話しとるだけあって来たら嬉しいねぇ」
小矢部市はNHK大河ドラマで木曽義仲と妻の巴御前の物語を誘致しているのだ。


ごちそうさまでした
お礼を言って離れました。

そして、しばらく進むと・・・

ここか・・・


なんと!
ひどいがけ崩れです。


こりゃ行けんわ

よって石川県側、富山県側から通行止めにしてるんですね。

しかたないので、このまま引き返します。





倶利伽羅不動寺に向います。

おや、


へぇ~、しかし字が・・・

この不動明王像は埴生大池の水源とされる「不動の滝」の御守護としてここより北方向約百米下所に祀られていまた
さっきの老婦のおばさんに言おうかななんちって


かわいらしい不動尊さんですね


この下にあったんだ・・


おっ不動寺が見えてきた。


ふぅ~着いたぞ

まだ早いのか車はほとんど停まってませんでした。

お参りしなきゃね。


あっいい感じ。


色鮮やかだと写真が映えるから。


倶利伽羅不動寺は開山1300年です。


いいね。


さてそろそろ帰ろう。


今日はこれだけ進みました。



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旧街道の名は・・・

2019年12月04日 21時30分16秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
この旧街道を何と呼ぶべきか・・・、

これが分かりにくいのである。
オイラの記事では「旧北国街道」で統一したが、
相当悩んだ挙句にそれに至った。当初は北陸街道としていたのだ。

味方の本のはじめににもこう書いてある。
北陸街道は、越後では加賀街道、近江では北国街道などと地域によってそれぞれの名称で呼ばれていた。なお、出雲崎(新潟県)から高田を経て、中山道追分宿(長野県)に至る街道も北国街道と呼ばれていた。
北陸道、北陸街道、北国街道、加賀街道
どれが正解なんだろう

実際歩いてみてわかったのだが地域によって分かれていた。

津幡では旧北陸道。

(倶利伽羅編より)

金沢では旧北国街道。

(金澤鳴和編より)

(金澤尾張町編より)

野々市も旧北国街道。

(野々市編より)

松任では北陸街道。

(松任柏野編より)

能美市では旧北国街道。

(寺井編より)

小松市は旧北国街道。

(小松梯川編より)

加賀市では旧北国街道

(加賀越前国堺編より)

多いのは旧北国街道だった。

よって、旧北国街道で良しとします。


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旧北国街道をゆく⑳越前国境編

2019年11月10日 20時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
加賀國(石川県)の旧北国街道をゆく!

その昔、
源平の頃では木曽義仲が京都に向い進撃し、


江戸時代では、参勤交代で加賀の大名行列が金沢と江戸を往復し、
--

奥の細道では松尾芭蕉が南下して通った道であります。
-----

金沢で生を受けたオイラ、地元の旧街道に興味を持ったのはいつの頃だろうか。
かねがね旧北国街道を歩いてみたいと思っていました。
旧北国街道はどのルートだったのか?
当時の面影は残っているのか?
富山との県境から福井との県境までの石川県限定版ではあるけれど、だからこそ丁寧に紹介していきたいと思っていた。

そしてオイラには強い味方がある。
まつお出版「北陸街道紀行」だ。

通称、味方の本さ

こうやってはじまったこのシリーズ。

いよいよ今回がです。
じゃじゃじゃ~ん!!!



さて今回はここから、




そして味方の本
щ(゚ー゚щ)ラストカモーン!
どどどどど・・・

赤矢印からのスタートです

では行こう。


今日は気持ちいい日です。


おや、


さて旧街道は・・・、

はい、左ではなく右なのです

えっ道ないんですけど・・・


もしかして、ここ行くんかい・・・

こりゃ最後にして、最大の難関ルートになる予感がする

でもオイラは行くぞ!
今までだってかなり無理してきたんだ!
最後もきっちりと踏破するんだ


倒木が道を塞ごうとも、


土砂崩れが行く手を阻もうとも、


変な虫が顔にまとわりついたって、


オイラは!旧街道を前進するのみ


おっ!フェンスとアスファルトだ!


案内の木も立っていた。

誰にも見られないだろうけど・・・。

北陸自動車道に出ました。   

向こうに道路に架かる橋が見えます。

この橋を渡ります。


現代の北陸自動車道の上に、昔の旧北国街道が渡るとは、新旧の公道ここに交わるですね。


味方の本にもあったけど、
越前まで、おおむねこんな丘陵地帯を通って行くことになる。

現代の高速道路はその丘陵地帯をザックリと削りとっているわけです。

反対側の丘陵地帯に渡って、また山道に入って行く。


しばらくいくと右側に何かありました、


1773年宝暦十二年三月末 加賀千代女吉崎参詣往還

そうか松任千代女も吉崎参詣でここを通っているんだ。
「かさとりの山や笑ひのもどかしき」




道が合流します。


歩きやすい道はうれしいねぇ


旧街道はここを左手に進みます。


うむ。


ここに入っていくのか、





村だ。


三木という集落です。


道路を


横切る。


へ~いわかってま~す。


うーむ

これまた・・・

やっとアスファルト道路


なんかあるよ。


案内石標だ。

ふむふむ
えっ何か恐い事書いてあるぞ、獄門場、人切場
今まで通ってきた場所にあったのかな

これまでもいろんな街道を紹介する案内標を見てきたね。
各町によっていろいろ種類はあったよね・・・。

しばらく北陸自動車道沿いに旧街道が進む。


向こうにまた村が見えてきた。


右に曲がります。

ここは橘町。

また案内石標だ。

この橘には宿場駅で使う駅馬が17頭飼育されていたんだって。
ちなみに大聖寺は11頭、動橋は14頭、月津は22頭置かれていたと。

橘の集落に入る。


ここが県境の町になるから、当時も加賀国最後の村だった。

越前側からすると加賀国最初の村となる。

こういう街道沿いで国境のお宅って、忍(しのび)だった可能性もあるんではなかろうか

藩の密命により、家前を通る者を監視してたりさ・・・。

さて旧街道はというと、また丘陵地帯に入っていく。


神社か、

いろいろ想像するんだけど、
街道沿いの加賀国最初の神社なら昔は相当多くの人が立ち寄ったはず。
道中の安全祈願、加賀国に入った感謝
今ではあまり立ち寄らない神社なんだろうけど・・・(しんみり)

林道は涼しくていいね。


おや、


可愛らしい三人のお地蔵さん。


そして、


味方の本にもあるが、


橘の宿址。

ここに宿場や茶屋があったとあるので驚くね。

そしてここで道が二手に別れるが、


右は吉崎(蓮如道)で 左は細呂木(旧北国街道)

当然、旧北国街道へ向かいます。




おや左に、


携帯電話の基地局がありました。


ん!


左にゴルフ場が出てきたぞ。

でもオイラはゴルフ興味ありません。

旧街道はゴルフクラブハウスに向う道路につながって、


しばらくはこの道を行きます。


はい

片山津ゴルフ倶楽部。

なんと!


見にくいが、石畳みらしきものがある。


ゴルフ場を抜けると、


左に広大な畑!

梨園です。

ほら


しばらく進むと右に、


国堺の一里塚跡。


さらに番所跡もあったと、


いよいよ国境が近づいているようです。


そして・・・・


味方の本の加賀国編も、

さらに中世以来、宿駅が置かれていた橘の茶屋跡、かつて一向一揆の一大拠点であった吉崎御坊へ至る道との分岐点を過ぎ、
ゴルフ場と果汁園の間の細い道をしばらく進み、国境の一里塚の碑を過ぎると越前(福井県)との国境に着く。

味方の本、これまでありがとう!
大いに役に立ったよ









!!!


ついに到着。


加賀国と越前国の国境のしるし。

お国境名号搭である。

です。


こちらが加賀国で向こうが越前国です。


記念にパシャ、イエ~イ

実は、今回はカミさんも同行していたので写してもらいました。
大変な道ばかりで驚き、呆れてましたけど・・・




今日はこれだけ進みました。




グーグルマップではこう




旧北国街道・・・。
旧東海道や旧中山道に比べれば、そりゃマイナーなんだと思う。
でも、その地に住んでいる者からすれば、この道は大事な歴史の古道なのです。

多くの事を知り、いろいろ発見もできて大変勉強になりました。


よっしゃー!
石川県の旧北国街道を踏破したぞ~!!!




            


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旧北国街道をゆく⑲加賀大聖寺編

2019年11月02日 13時53分42秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここからです。



では恒例の味方の本、
щ(゚ー゚щ)くるくるっとキャモ~ン!

赤矢印からのスタートです

大聖寺川。


ほんじゃ行くかい!


いい天気です。


ここは右折します。


弓?


大聖寺にはこういう案内板が各所に立っていました。


大聖寺は加賀支藩の大聖寺藩の城下町。
武士も多く、弓町のような武士に由来する町名もあるのだ。

右手の道に進みます。


旧街道沿いによくある特徴的は建物も残っています。


荒町。


立派なお寺の願成寺。


その前を通り、右折、


山田鍛冶町


いい感じです。

北国街道大手門通りとあります。

ここを左折、


ちょっと進んで、


ここを左折します。


このあたりは金沢でもあった鍵形で街道が進みます。

城下町の特徴ですね。




曲がり角に出てきたのは、このあたり本町のシンボル的存在、
時鐘堂です。

時鐘は人々に時刻を知らせると共に、木戸や町会所の開閉の時刻を知らせるものであった。
ご~ん!

旧街道はこの時鐘堂を左折するのですが、
ここでしばらく街道より外れて行ってみたい場所があります。

大聖寺といえば、

流し舟ですよね。
その船乗り場へ行ってみよう。


あった、あった。

今日はお客さんはいないようです。
暑すぎるわな・・・

そしてこれ

長流亭です。

江沼神社から入ります。


前に来たね。

(まぼろしのブラオイラ1回目なんちって

懐かしい・・・


はい長流亭です。


大聖寺藩三代藩主前田利直の休息所として、1709(宝永6)年に、藩邸の庭園の一隅に大聖寺川を臨むように建築された亭舎です。
当初は「川端御亭」と呼ばれていましたが、後に利直の雅名からとって「長流亭」と称されました。
1950(昭和25)年文化財保護法の施行により重要文化財に改称されました。

対岸より

特徴的な造りです。

あと大聖寺城跡に、


登ります。


なんだこれ?


ニセ金造りとはまた・・・


本丸へ


ここか、


眺めもいいです。

大聖寺の町を見下ろします。


さて寄り道から時鐘堂に戻りまして、街道を進みます。


直線的な街並み。


右手に、


あっここか、

山の文学者の深田久弥さん。
※ウィキより
深田久弥(ふかだ きゅうや)1903年3月11日-1971年3月21日は、石川県大聖寺町(現在の加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家である。
1978年(昭和53年)に「日本三百名山」を選定する。白山をこよなく愛した。

大通りを、


右折します。


関町と、

こういう地名が出てくるということは、

そうですね、関所があったということです。


出ました。


ふむふむ


関所(木戸)の模造、いいね


石碑「大聖寺藩関所由来記」によると、
大聖寺関は前田氏が加賀藩を治める以前から置かれていたものであるが、寛永十六年に大聖寺藩が創建すると同時に藩が管理するところとなった。
その支配権は加賀藩が持ち、越中の境関と相対し、加賀藩二大関門として重要な役割を担った。
平素は大聖寺藩の経卒を関番として配置したが有事に際しては金沢より士卒を派遣することとしていた。
なお有事とは、藩侯が死去した時、或いは金沢城が炎上した時や金沢城下に大火があった時などを指す。
関所は主に越前方面より大聖寺城下に入ろうとする行旅の人及び携行の荷物を検閲した。
門扉の開閉は、日の出と共に開き、日没と共に閉じるを慣例とし、夜間は絶対的に通行を禁止した。
関番はその数約十数人、非番と当番に分かれ、昼夜を問わず詰めていた。
幕末には加賀から越前方面に抜けようとして、清水次郎長一行もこの関を通ったが、銃器を所持していたことで、咎められたという。

へぇ~清水次郎長一行も通ったのか

さすが大聖寺だ、
いろいろ歴史的構築物があったんですねぇ。


関所を通過した旧街道は町はずれに延び、

いよいよ加賀の国の終わりが近づいてくるのだ。


このあたりで


味方の本によると、山道になるらしい。


ええと、

さらに進み県道141号を外れなだららかな丘陵を登る。この先、越前まではおおむね丘陵地帯で細い道が多いが、幾つかの石碑も見られ当時の風情を楽しむことができる。

きたー





そろそろこれがあるはず、


あった


大坂一里塚。

明治の頃までこのあたりに名物の団子屋が三軒あったという。

さて行こうかい!


旧街道らしくて、オイラはこういう雰囲気が好きです


と思いきや、頂上は大きく開けていて


材木会社の正面入口を横切る、


さらに構内?を進むようで


材木を横目に


会社の敷地を抜けると・・・

おぉ!


越前国はもうすぐだ・・・・。


今日はここまで、


これだけ進みました。




グーグルマップではこう




次回はいよいよ最終回、
越前国境編です。





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旧北国街道をゆく⑱加賀動橋編

2019年09月07日 23時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここからです。


では味方の本、
щ(゚ー゚щ)くるくるカモーン!

赤矢印からスタートです

動橋大橋を渡る。



動橋川。

動橋と書いて「いぶりばし」と呼びますが、漢字見ただけではわかりませんよね。

川を覗くと


コイかな?

三匹連なって泳いでいる。

下流側を見ると、サンダーバードが通りました。


橋を渡ると左手に石碑があった。

松尾芭蕉の句碑かなと思いきや、どうも違うので紹介しない
(冷たいオイラ・・・



特徴ある屋根の古民家は造り酒屋さんのようです。


旧街道はその前の道を右折する。



その交差点左に石標があった。

金澤市元標十一里十二町とある。

右折する前に、正面のお寺に寄ってみよう。

篠生寺。


ほう。


このあたりはやっぱり蓮如上人ですよね。


おや?

蓮如上人御旧蹟 ちまき笹の霊場 とある。

蓮如上人伝説がある。
ちまき笹伝説・・・蓮如上人が動橋を訪れたとき一夜の宿を求めたところ断られた。そのとき作っていたちまきを1本所望したところ意地悪な事に笹の葉に石を包んで差し出されました。蓮如上人が「この笹から青葉がでたら宿をたのみ申す。」と念じたところ根が出、青葉が茂ったそうです。

蓮如上人の伝説は北陸各地にありますからねぇ。


さて旧街道を進もう。





さてそろそろか、


味方の本、再度
щ(゚ー゚щ)カモン、カモーン!

ここは旧街道が線路により途切れてしまっているのだ。

こういう感じで街道はあったのだ。


地下横断歩道に入る。


壁に描かれた絵は、例のちまき笹伝説だ。


反対側に出た。

こんな感じでかっては道があったんだろう。


さて進もう。



左手に


出ましたね。


再度再度の味方の本щ(゚ー゚щ)カモン、カモン、カモーン!


一里塚はわかるけど、


都もどり地蔵って何だ?


調べてみた。

都もどり地蔵・・・
鎌倉時代初期の歌人西行が、西住と共に諸国行脚を行い、大聖寺川上流西住村に滞在しその渓谷の美を愛でたという。
やがて西行が都に帰るとき二人が別れたのがこの附近と伝えられている。終生の師弟、西行と西住が別れを惜しんだという場所にいつしか地蔵が祀られ、人々はこれを「都もどり地蔵」と呼んだ。

へぇ~西行ってあの西行法師か、たしかに諸国漫遊していたからね。

旧北国街道はここで


左に逸れる。


JR北陸本線の下をくぐると、


おっ!

また蓮如上人伝説の場所だね。

ここか、


「蓮如上人巡錫の地 白水の井戸」


薄い・・・


これかな、


はい、ちゃぷちゃぷ

いい水だね。

白水の井戸・・・
蓮如聖人が浄土真宗の布教のため巡業中この八日市を通りかかり喉の渇きを覚えた。米を洗っていた女に水を所望したところ女は洗い米の白濁した水を杓にすくって差し出した。聖人はその水を捨て、自ら大地に杖を突き刺すと、そこから水晶のような水が湧き出した。

あれ蓮如上人って意外とドライね・・・

すぐ横で新幹線工事が進んでいました。


おっ


お酒を造っているんだ。


ここですね。



旧街道に戻て、進むと右手に、


春日神社ですね。


ものすご~くシンプルな造りです。

こんなシンプルな神社、今まで一かも・・・

神社のすぐ横にいい感じの川があり、

川に降りれるところがいいね。

では、


また北陸本線の下をくぐる。


作見町に来ました。

出た!


わお!

加賀大観音73メートル。
特に歴史的価値は無いので寄りませぬ。

さて進もう。


三輪神社です。


入ってみる。


水準点がありました。


さらに進みます。


そろそろこれがあるはず。

味方の本。

あったけど、草がぼーぼーだ。


ちょっとどかしてみると、

敷地一里塚です。

さらに進むと、


何かある。


富樫の馬塚。

室町の時代か。

それにしても今回は江戸時代のみならず、鎌倉、室町といろいろの時代のものを見てきたね。

そしてこのあたりといえば・・・、

この神社ですよね。


菅生石部神社。

(すごおいそべ)神社と呼びます。

2月に行われる竹割まつりで有名です。


さすがです。


かっこよし。


そして・・・、


ようやく大聖寺川に到着です。


今日はここまでです。



ここですね。



これだけ進みました。





グーグルマップではこう



次回は、加賀大聖寺編です。





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