今日はここからですよ。
味方の本、いでよカモ~ン щ(゚ー゚щ)
はいよ~
赤矢印からスタートです
スタートしてすぐさま有名な神社が現れた。
多太神社です。
多太神社といえばこれ。
兜、甲、かぶとですよね。
斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)、斎藤実盛です。
そして松尾芭蕉ですね。
芭蕉がここで詠んだ句が
「むざんやな かぶとのしたの きりぎりす」です。
「きりぎりす」は、コオロギのこと。
この句は決定稿で、元の案は「あなむざんや 甲の下の きりぎりす 」だった。
斎藤実盛の遺品の兜、いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。
このコオロギは実盛の霊かもしれない。
おいたわしい鎮魂の感情です。
オイラが松尾芭蕉の俳句で2番目に好きな句です。
ちなみに1番好きなのは、
「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」です。
キリギリスにセミです
見たい・・・・
そのかぶとを見たい・・・。
旧国宝(国指定重要文化財)の斎藤実盛の兜。
なんとしても見たいのだ
だが!
無情にも宝物殿は閉まっていた。
社務所も人がいない・・・
「むざんやな しゃむしょまえの ひげおやじ」です。
しかたがないので、神社をじっくり見学します。
いいね、
松尾神社もありました。
芭蕉一行がここに訪れたのは1689年だから今から330年前。
先ほどから斎藤実盛だとか松尾芭蕉とか言ってますが、
ここで多太神社との関係を説明します。
<まるごと・こまつ・旅ナビから>
芭蕉も感激した「実盛の兜」
遥か昔、503年の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社。ここには、とある伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財で、旧国宝でもあった、斎藤実盛の兜である。
時代は平安末期、源平合戦のまっ最中。兜の持ち主だった斎藤実盛は、平家の武将として戦っていた。倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原で再び陣を取り戦ったが、木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。
後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。
この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている。
それからずっと後の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れた。兜を見た芭蕉は実盛を偲び「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだ。境内には句碑が建っている。
1183年に奉納されたとすると、この兜、830年以上も前からここにあるのか・・・。
境内でウロウロ見学していると、
奇跡が起きた!
神社の責任者の方がふいに現れ、
「見学してきますか?」と声をかけてくれたのです。
<ヤッター!!!
この宝物殿には多くの宝物がありました。
写真OK!
なんとこの書は松尾芭蕉直筆なのである。
(左の箱に入っているぼろぼろの短冊ね、薄くてほとんど読めません)
いろいろ解説していただけました。
おぉ、
そして実盛の兜です。
(近くで撮るのはご遠慮とのことから遠くから)
良かった・・・・
これは貴重な見学でした。
あの兜は国宝級です、いえ実際に国宝でした。
ただあまりにも古くて相当傷んでたので、国の要請で明治の時代に修復しているんです。
その後の国宝基準としては修復した物を認められなかったので国指定重要文化財となったのです。
さて街道の続きだ。
多太神社前の道を左に進む。
燈明寺。
鮮やかな緑と赤の色合いです。
しばらく行くと不思議な神社がありました。
ほう~、
なんだこの像は!
こわっ!
悪魔祓いだって!?
鎮火記念?
裏に刻んである文字を読んでみると、
大正四年五月三十日正午時出火
同午後三時鎮火全焼七十二戸
このあたりで大火があったのです。
進もう
しばらく歩くと、
また神社があった。
いいね。
巨大絵馬(宮司作)
お上手
おっ!
これはなんだろう。
こういうの興味ある!
ふむふむ
青竜、朱雀、白虎、玄武と四神で結界を張っていた。
みなぎる力をオイラに!
ではまた進もう。
前川です。
今江。
今江といえばこのあたりに大きな湖がありました。
再度、味方の本カモーン
今江潟という大きな湖があったのです。
木場潟、柴山潟とあわせて加賀三湖と呼ばれていました。
ではその名残りを見てみましょう。
ここに拡がっていたんだ。
碑文には、「いま、眼前に拡がる美田は誉て満々と水を湛える湖であった・・・・・・・、」
三叉路が出てきた。
いよいよ串茶屋だ。
大聖寺藩の公認茶屋街だった場所です。
ここには全国でも珍しい遊女の墓がある。
手作り感の強い案内標柱があります。
当然行ってみる。
ここだ。
どーん!
なぜこの墓地が名所となるというと、
遊女が一括供養されるわけでもなく個々に手厚く葬られている全国でも例がない場所だからです。
あの有名な江戸の吉原にもありません。
源氏名で「きぬ」「品川」「しの」「若藤」など、
どういう遊女達だったのか興味が出てきます。
街道に戻って歩きます。
一里塚跡だ。
江戸から128里(中山道回り)ですか。
おっ!
映画のワンシーンに出てくるようなバス停だね。
民俗資料館と御小休所があります。
やった!開館中だ
おじゃましま~す。
すっごーい!
実際に遊女たちが使っていた品が残っています。
係のおじさんが親切に教えてくれました。
遊女達が書いた手紙。
遊女とはいえ当時としては文字が書ける知識人だったのです。
そして遊女たちが作った物もありました。
たくさん貴重な物がありました。
そしてここは、
先ほど看板に御小休所とあったように、大変畏れ多い場所なのです。
なんとこの部屋、あの明治天皇がご休憩されたお部屋なのです。
今から140年前の明治11年10月6日のこと、
明治天皇の北陸巡幸の際にここにお立ち寄りになったのです。
そのまま、部屋が残っているなんてまったくもって驚きです
ここで明治天皇はお茶をお飲みになったのでしょう。
明治天皇と昭憲皇后の御真影が掲げられていました。
当日門前に立てられた「御小休」の立札。
パンフをもらいました。
おっこれはいいね。
当時の街道沿道地図です。
明治天皇がお休みになったこの場所は、能登屋という酒屋さんでした。
そして係の方が教えてくれたのですが、唯一残っている建屋があります。
それがこちら、
へぇ、
山屋さんですね。
空き家になってから長年たち、傷みも激しく近く取り壊されるとのことです。
もったいないなぁ、このような貴重な建物は少し整備して残すべきだと思いますが・・・。
そしてこの地図によると、さきほどの三叉路のこのあたりは、
ちょうど加賀藩と大聖寺藩の境で番所も置かれていたんですね。
ちなみに大聖寺藩は加賀藩の支藩になります。
この神社も遊女に関係してまして、
この本殿の
横にあるのが、これまた全国的にも珍しい
おいらん燈籠なるものがあります。
文久三年(1863年)に東木屋の遊女が寄進したと書いてあります。
このお店ですね。
串茶屋で働いていた遊女達は、普通の人同様に堂々と生きていたんですね。
さて、今日はここまでにします。
今回はこれだけ進みました。
グーグルマップではこう
次回は、加賀七曲編です。
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スタートしてすぐさま有名な神社が現れた。
多太神社です。
多太神社といえばこれ。
兜、甲、かぶとですよね。
斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)、斎藤実盛です。
そして松尾芭蕉ですね。
芭蕉がここで詠んだ句が
「むざんやな かぶとのしたの きりぎりす」です。
「きりぎりす」は、コオロギのこと。
この句は決定稿で、元の案は「あなむざんや 甲の下の きりぎりす 」だった。
斎藤実盛の遺品の兜、いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。
このコオロギは実盛の霊かもしれない。
おいたわしい鎮魂の感情です。
オイラが松尾芭蕉の俳句で2番目に好きな句です。
ちなみに1番好きなのは、
「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」です。
キリギリスにセミです
見たい・・・・
そのかぶとを見たい・・・。
旧国宝(国指定重要文化財)の斎藤実盛の兜。
なんとしても見たいのだ
だが!
無情にも宝物殿は閉まっていた。
社務所も人がいない・・・
「むざんやな しゃむしょまえの ひげおやじ」です。
しかたがないので、神社をじっくり見学します。
いいね、
松尾神社もありました。
芭蕉一行がここに訪れたのは1689年だから今から330年前。
先ほどから斎藤実盛だとか松尾芭蕉とか言ってますが、
ここで多太神社との関係を説明します。
<まるごと・こまつ・旅ナビから>
芭蕉も感激した「実盛の兜」
遥か昔、503年の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社。ここには、とある伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財で、旧国宝でもあった、斎藤実盛の兜である。
時代は平安末期、源平合戦のまっ最中。兜の持ち主だった斎藤実盛は、平家の武将として戦っていた。倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原で再び陣を取り戦ったが、木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。
後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。
この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている。
それからずっと後の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れた。兜を見た芭蕉は実盛を偲び「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだ。境内には句碑が建っている。
1183年に奉納されたとすると、この兜、830年以上も前からここにあるのか・・・。
境内でウロウロ見学していると、
奇跡が起きた!
神社の責任者の方がふいに現れ、
「見学してきますか?」と声をかけてくれたのです。
<ヤッター!!!
この宝物殿には多くの宝物がありました。
写真OK!
なんとこの書は松尾芭蕉直筆なのである。
(左の箱に入っているぼろぼろの短冊ね、薄くてほとんど読めません)
いろいろ解説していただけました。
おぉ、
そして実盛の兜です。
(近くで撮るのはご遠慮とのことから遠くから)
良かった・・・・
これは貴重な見学でした。
あの兜は国宝級です、いえ実際に国宝でした。
ただあまりにも古くて相当傷んでたので、国の要請で明治の時代に修復しているんです。
その後の国宝基準としては修復した物を認められなかったので国指定重要文化財となったのです。
さて街道の続きだ。
多太神社前の道を左に進む。
燈明寺。
鮮やかな緑と赤の色合いです。
しばらく行くと不思議な神社がありました。
ほう~、
なんだこの像は!
こわっ!
悪魔祓いだって!?
鎮火記念?
裏に刻んである文字を読んでみると、
大正四年五月三十日正午時出火
同午後三時鎮火全焼七十二戸
このあたりで大火があったのです。
進もう
しばらく歩くと、
また神社があった。
いいね。
巨大絵馬(宮司作)
お上手
おっ!
これはなんだろう。
こういうの興味ある!
ふむふむ
青竜、朱雀、白虎、玄武と四神で結界を張っていた。
みなぎる力をオイラに!
ではまた進もう。
前川です。
今江。
今江といえばこのあたりに大きな湖がありました。
再度、味方の本カモーン
今江潟という大きな湖があったのです。
木場潟、柴山潟とあわせて加賀三湖と呼ばれていました。
ではその名残りを見てみましょう。
ここに拡がっていたんだ。
碑文には、「いま、眼前に拡がる美田は誉て満々と水を湛える湖であった・・・・・・・、」
三叉路が出てきた。
いよいよ串茶屋だ。
大聖寺藩の公認茶屋街だった場所です。
ここには全国でも珍しい遊女の墓がある。
手作り感の強い案内標柱があります。
当然行ってみる。
ここだ。
どーん!
なぜこの墓地が名所となるというと、
遊女が一括供養されるわけでもなく個々に手厚く葬られている全国でも例がない場所だからです。
あの有名な江戸の吉原にもありません。
源氏名で「きぬ」「品川」「しの」「若藤」など、
どういう遊女達だったのか興味が出てきます。
街道に戻って歩きます。
一里塚跡だ。
江戸から128里(中山道回り)ですか。
おっ!
映画のワンシーンに出てくるようなバス停だね。
民俗資料館と御小休所があります。
やった!開館中だ
おじゃましま~す。
すっごーい!
実際に遊女たちが使っていた品が残っています。
係のおじさんが親切に教えてくれました。
遊女達が書いた手紙。
遊女とはいえ当時としては文字が書ける知識人だったのです。
そして遊女たちが作った物もありました。
たくさん貴重な物がありました。
そしてここは、
先ほど看板に御小休所とあったように、大変畏れ多い場所なのです。
なんとこの部屋、あの明治天皇がご休憩されたお部屋なのです。
今から140年前の明治11年10月6日のこと、
明治天皇の北陸巡幸の際にここにお立ち寄りになったのです。
そのまま、部屋が残っているなんてまったくもって驚きです
ここで明治天皇はお茶をお飲みになったのでしょう。
明治天皇と昭憲皇后の御真影が掲げられていました。
当日門前に立てられた「御小休」の立札。
パンフをもらいました。
おっこれはいいね。
当時の街道沿道地図です。
明治天皇がお休みになったこの場所は、能登屋という酒屋さんでした。
そして係の方が教えてくれたのですが、唯一残っている建屋があります。
それがこちら、
へぇ、
山屋さんですね。
空き家になってから長年たち、傷みも激しく近く取り壊されるとのことです。
もったいないなぁ、このような貴重な建物は少し整備して残すべきだと思いますが・・・。
そしてこの地図によると、さきほどの三叉路のこのあたりは、
ちょうど加賀藩と大聖寺藩の境で番所も置かれていたんですね。
ちなみに大聖寺藩は加賀藩の支藩になります。
この神社も遊女に関係してまして、
この本殿の
横にあるのが、これまた全国的にも珍しい
おいらん燈籠なるものがあります。
文久三年(1863年)に東木屋の遊女が寄進したと書いてあります。
このお店ですね。
串茶屋で働いていた遊女達は、普通の人同様に堂々と生きていたんですね。
さて、今日はここまでにします。
今回はこれだけ進みました。
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次回は、加賀七曲編です。
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