下の写真は、王宮の北の角あたりにある並木道の風景。道の両側は塀に囲まれていて、その外側の光景は見えない。しかしそのことが、所々で木漏れ日が光る、緑のトーン豊かなこの並木道の美しさを際立たせていた。
Googleの衛星写真で見ると、この王宮は川川と山に囲まれた要害の地にあることがわかる。さらに王宮自身も、一辺が600mほどの四角い形の敷地で、その四方を堀と城壁が取り囲んでいる。巨大かつ堅固な造りだ。
先のアメリカとの戦争で手ひどく破壊されたとのことで、今見物できるのは南側の半分の区域である。北半分では復元工事が進められていた。
このような見事な「文化遺産」を破壊するとは、アメリカもずいぶん酷いことをしたものと先ず思わざるを得ない。しかしそれが「戦争というもの」でるとするなら、この王宮も「戦争の愚かさ」を示す事例の一つとなるのだろう。
もっともこの王宮も、その昔グエン王朝創始者が戦争を繰り返した末に権力を握った結果として築き上げたものであろう・・と考えると、詰まるところは、その「愚かな戦争」と縁を切れない「人の業」を思わざるを得ない。
写真は、王宮入口を左右対称の形で取り囲む「楼」のうちの右側の部分である。
先のアメリカとの戦争で手ひどく破壊されたとのことで、今見物できるのは南側の半分の区域である。北半分では復元工事が進められていた。
このような見事な「文化遺産」を破壊するとは、アメリカもずいぶん酷いことをしたものと先ず思わざるを得ない。しかしそれが「戦争というもの」でるとするなら、この王宮も「戦争の愚かさ」を示す事例の一つとなるのだろう。
もっともこの王宮も、その昔グエン王朝創始者が戦争を繰り返した末に権力を握った結果として築き上げたものであろう・・と考えると、詰まるところは、その「愚かな戦争」と縁を切れない「人の業」を思わざるを得ない。
写真は、王宮入口を左右対称の形で取り囲む「楼」のうちの右側の部分である。
台風が東の海上を通り去った後の快晴であった。久しぶりに総武線を浅草橋で降り、浅草まで、極力裏道を選びつつブラブラ歩いた。
携えたカメラはDP2。犬も歩けば棒に当るのごとく、途中ちょっと目を惹かれた光景が下の写真である。
携えたカメラはDP2。犬も歩けば棒に当るのごとく、途中ちょっと目を惹かれた光景が下の写真である。
ミンマン帝はグエン王朝二代目の皇帝。この廟は1840年から3年間をかけて造られたそうだ。
中国風の庭園を見るような造り。建物は色鮮やかで優美。
この廟が造られたのは、日本で言えば江戸時代の終末期。この時期、日本はうまいこと欧・米・露の支配を免れたが、ベトナムはミンマン帝の没後フランスによる植民地化が始まった。両国の間のそのような「歴史の岐路」がどのような経緯・理由で生ずることとなったのだろうか・・?
中国風の庭園を見るような造り。建物は色鮮やかで優美。
この廟が造られたのは、日本で言えば江戸時代の終末期。この時期、日本はうまいこと欧・米・露の支配を免れたが、ベトナムはミンマン帝の没後フランスによる植民地化が始まった。両国の間のそのような「歴史の岐路」がどのような経緯・理由で生ずることとなったのだろうか・・?
フエは、1802~1945年まで続いたベトナムの王朝、グエン朝の時代に首都であった街である。
朝6時に出る飛行機でホーチミンを発った。そのため、起床が4:00。流石にこれはちょっとしんどかったがしかたがない、次の便では着が午後になってしまい日程上効率が悪いということだった。
フエ着は7:20であった。ここから専用のガイドと車の着いたツアーでフエ、ホイアンを回る旅をスタートした。
最初に立寄ったのが1920年に亡くなったカンディン帝の廟所。フランスが統治した時代でありフランスの技術も取り入れ、世界各所から建築材料を運んで造られたということだ。
日本人の目から見ると、「異様」な感じも受けるデザインではあるがなかなかの「威容」で、しっかりした造り。見る者に、何かベトナムの底流にある歴史・伝統・文化を感じさせるものだった。
朝6時に出る飛行機でホーチミンを発った。そのため、起床が4:00。流石にこれはちょっとしんどかったがしかたがない、次の便では着が午後になってしまい日程上効率が悪いということだった。
フエ着は7:20であった。ここから専用のガイドと車の着いたツアーでフエ、ホイアンを回る旅をスタートした。
最初に立寄ったのが1920年に亡くなったカンディン帝の廟所。フランスが統治した時代でありフランスの技術も取り入れ、世界各所から建築材料を運んで造られたということだ。
日本人の目から見ると、「異様」な感じも受けるデザインではあるがなかなかの「威容」で、しっかりした造り。見る者に、何かベトナムの底流にある歴史・伝統・文化を感じさせるものだった。
最初の写真は統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)である。1975年4月30日、北ベトナム軍の戦車がここの鉄柵を突破し、官邸を無血占拠したのを以ってこの戦争は北ベトナムの勝利のうちに終った。「無敵アメリカ」の完敗であった。
それ依頼、歴史の流れは何か変わったように思われる。アメリカはイラクでも結局もたついた如く、もはや「世界に覇たるアメリカ」ではなくなったわけだ。
もっとも、当時既に歴史の流れが変わりつつあったがゆえに、アメリカは負けるべくして負けたのかもしれないが・・
いずれにせよ、アメリカに勝ったベトナム人には、やはり何らかの尊敬の念を禁じえない。
下の写真は、北ベトナム、即ち現在のベトナム建国の父、ホーチミンの銅像を前庭に置いたホーチミン市人民委員会の建物。
それ依頼、歴史の流れは何か変わったように思われる。アメリカはイラクでも結局もたついた如く、もはや「世界に覇たるアメリカ」ではなくなったわけだ。
もっとも、当時既に歴史の流れが変わりつつあったがゆえに、アメリカは負けるべくして負けたのかもしれないが・・
いずれにせよ、アメリカに勝ったベトナム人には、やはり何らかの尊敬の念を禁じえない。
下の写真は、北ベトナム、即ち現在のベトナム建国の父、ホーチミンの銅像を前庭に置いたホーチミン市人民委員会の建物。
写真は、市中央部、ベンタイン市場に隣接する一角である。
道に沿って立場並ぶ商店の様子は、「やはりアジア」である。しかし、明るい緑の街路樹が街の風景に潤いを与えている。
この緑は別にしても、ホーチミン市のこのあたりの雰囲気には、意外にしっとりしたものがあると感じた。かつて滞在したコタキナバル(東マレーシア)や、旅行で行ったことがある他の東南アジアの都市に比べての話だが・・・
気候のせいか、「文化」のせいか・・・良く分らぬが。
道に沿って立場並ぶ商店の様子は、「やはりアジア」である。しかし、明るい緑の街路樹が街の風景に潤いを与えている。
この緑は別にしても、ホーチミン市のこのあたりの雰囲気には、意外にしっとりしたものがあると感じた。かつて滞在したコタキナバル(東マレーシア)や、旅行で行ったことがある他の東南アジアの都市に比べての話だが・・・
気候のせいか、「文化」のせいか・・・良く分らぬが。
サイゴン大聖堂がある広場に沿った一角に中央郵便局がある。
中央郵便局は、まるで駅舎のようだ。
共に、19世紀末、フランス統治の時代に建てられたという。
こうして写真を見る限りでは、ここがフランスかどこか、ヨーロッパの古い町であるとしてもおかしくは思えないような光景だ。
中央郵便局内部
サイゴン大聖堂
中央郵便局は、まるで駅舎のようだ。
共に、19世紀末、フランス統治の時代に建てられたという。
こうして写真を見る限りでは、ここがフランスかどこか、ヨーロッパの古い町であるとしてもおかしくは思えないような光景だ。
中央郵便局内部
サイゴン大聖堂