いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

いよいよ『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』が出版されました。

2018年01月16日 16時11分11秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
 

初の翻訳作品『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』が、いよいよ出版されることとなりました。

 

あらすじとしては、康熙帝の帝師・陳廷敬を主人公とした歴史小説です。

私利私欲の亡者となり、蓄財に血眼になる他の官僚らをよそに、ひたすら清廉、率直をつらぬき、

その正直さ、率直さが、時には皇帝のご機嫌を損ねることがあっても、最後には皇帝の厚い信頼を勝ち取った人のお話です。

 

歴史小説ですが、軽快な会話に泣きあり、笑いあり。

気軽に読んでもらいたいなああ、と思っています。

 

「『紫禁城の月』と陳廷敬」の連載も合わせてお読みください。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
 本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!

    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる 
    3、陳家興隆の歴史的背景
    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
    5、わずか19歳で進士に
     6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
    7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院 
    8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
    9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院
    10、陳廷敬以後の『皇城相府』
    11、王岐山と陳廷敬
    12、王岐山と張英
    13、「号」に込められた意味
    14、隠居返上
    15、康熙帝、『湯座り』を勧める
    16、李光地にも『湯座り』を勧める
    17、李光地の病が湯治で完治
    18、陳廷敬、病に伏す
           19、陳廷敬の見送りには
           20、『紫芸[阝千]』
           21、高士奇の生い立ち
    22、高士奇、南書房に入る
    23、軍機処の前に南書房あり
    24、高士奇、起居注官に任命される
    25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺
    26、康熙帝が高士奇を寵愛した理由
    27、高士奇と金の豆粒
    28、高士奇の蓄財が悪評に
           29、康熙帝、西渓山荘に滞在す
   

 

『紫禁城の月』雑感とメディア動向

  2016.9.11.  『紫禁城の月』雑感、G20でも同じことが……
  2016.9.26.  『現代ビジネス』のコラム下に『紫禁城の月』を紹介

  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、日本語訳版を日本語勉強中のご子息にプレゼント
  2016.11.2.  『芸術新潮』2016年11月号に『紫禁城の月』の書評が載りました
  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、偽物に閉口

     2017.6.20.        『紫禁城の月』がフジテレビ ホウドウキョク鴨ちゃんねるで取り上げられました

過去記事も早見表を作っています。

   カテゴリー別 記事の早アクセス表

   各カテゴリーの内容紹介、見出しをまとめました。

 

*なお、本記事は、毎日、先頭に来るように更新しています。

 他の記事も2番目の記事として、更新を続けています。後ろを見てくださーい。

 


『紫禁城の月』がフジテレビ ホウドウキョク鴨ちゃんねるで取り上げられました

2017年06月20日 23時35分54秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
2017年6月17日にフジテレビ「ホウドウキョク」で
『紫禁城の月」が取り上げられました。


中国ベストセラー小説に学ぶ処世術…翻訳家・東紫苑さん





自分の二重あごにばかり目が行き、なかなか番組鑑賞に集中できませんでしたが、
それはともかく(笑)、

作品の世界観、現代とのつながりを詳細かつ細やかな映像で再現してくださり、
圧巻です。

『紫禁城の月』と陳廷敬29、康熙帝、西渓山荘に滞在す

2016年11月20日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
その後、康熙帝は再び高士奇に不利な評判を耳にする。

すると今度は、高士奇にもう少し用心するように注意を促すと同時に、身辺の者たちにこういって牽制したという。
「諸臣らが秀才(科挙の中間段階の資格)として上京して来た時は皆、徒歩で綿の服を着てやってきた。

 それが一夜にして進士に及第して官位を得れば、豪華な布地で囲んだ馬車に四頭立ての馬を用意し、
 御者八人に守らせて行進するのだから、その財力はどこから来るというのか? 
 
 詳しく追究せねばなるまいの」


康熙帝のこのような「法は衆を責めず」
(たとえ法律に違反していても、民衆が広く行っていれば認めるしかないこと。
 日本風に言えば、赤信号、皆で渡れば怖くない?? ちょっと違うか……)
の詭弁は明らかに道理が通っていない。

高士奇のことをいうおまえたちも、俸禄のほかにびた一文も受け取っていないと堂々と言えるのか? 
同じ穴の貉が何をいう……と。

皇帝がそれを言い出したら終わりやないか、と思ってしまうが(汗)。
どうやら高士奇の違法犯罪の事実を庇うことが目的のようだから、
高士奇の蓄財を責めなかったのは当然と言えよう。



そんな狂おしい蓄財意欲により貯め込んだ富を注ぎ込んで作られたのが、
故郷の銭塘(杭州)「西渓山荘」であり、三度目の南巡の際にここに康熙帝を迎える。


「西渓山荘」は、杭州の西郊外に広がる西渓湿地の中にある。
水路が網の目のように張り巡らされ、古来より多くの文人墨客が庵を結んだり、別荘地を建てたりしてきた場所である。

俗に「大隠は市に隠れ、小隠は野に隠れる」というらしい。

--つまり隠者でも大物は人里離れた山の中などには住まず、
他の文人らが訪ねてくることのできる都会からちょうどいいくらいの距離にある郊外に住む、という意味だ。

その意味で「西渓山荘」は銭塘(杭州)の城内から遠すぎず、距離感も憎い限りだ。


現在「西渓山荘」が史料を元に復元されている。

このシリーズの最期に紹介する写真のとおりである。


高士奇がその後、平湖に完全移住してしまったこともあり、
どうやら山荘は早々に朽ち果ててしまったようで、跡形も残っていなかったらしい。

ほぼ完全にゼロから復元したもののようである。


新築ながら、江南の庭園スタイルが存分に反映されており、往年の華やかさが充分に伝わってくるではないか。


この時の康熙帝の山荘滞在の様子は『紫禁城の月』の中でも詳しく描かれており、ここでは述べないこととする。

皇帝を我が家に迎える――。
それは高士奇の人生で最も輝かしい瞬間だっただろう。


*********************************************

以上、高士奇のシリーズはここで一旦、終了とします。

実は高士奇のこの後の人生についても文章は用意してあるのですが、
『紫禁城の月』の発売からまだ三ヶ月も経っていない時点でネタバレになる内容は、よろしくないのであります(笑)。

また時機を見計らい、順次記事を投入していきたいと思います。





杭州の西渓山荘

自分でもぜひ行きたいのですが、まだ行けていないのでネット上から写真を拝借しました。

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『紫禁城の月』と陳廷敬28、高士奇の蓄財が悪評に

2016年11月19日 09時28分10秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
朝廷の大臣らが、自尊心をかなぐり捨ててまで高士奇に頭を下げて教えを請いに来るのは、
皇帝のそば近くにいる人物と脈を通じようと言った単純な理由ではなく、
高士奇しか知らない内幕情報があったからである。

あるいは高士奇の手を通して康熙帝に何かを手渡すこともできると考えたのだろう。

専制政治の時代、物事の禍福は情報量で決まることが多かった。
その面では、確かに高士奇の独壇場だった。


このようにして高士奇の屋敷は、朝廷の第二の情報集約所、第二の政府機関というほどの存在にまでなった。
訪ねて来る人が手ぶらで来ることはもちろんなく、手中に銀票を数枚握りしめていたことは言うまでもない。

それだけでも高士奇の手元には、唸るような富が転がり込んできたのである。

 
かかる人目に付く方法で蓄財のシステムを作り上げた高士奇を快く思わない人々が出て来るのは当然であり、
その事実を康熙帝に耳打ちする者もいた。

「高士奇は、自分の寝るふとんを背負って京城に一旗揚げに来た一文無しだったではないか。
 今やどれだけの不動産を持っているか聞いてみれば、受け取った賄賂の規模もわかるというもの」
と。


康熙帝は高士奇に事実を確認した。
すると高士奇は悪びれることなく、こう答えたそうな。

「総督・巡撫や諸臣の皆さんは私が陛下の寵愛をお受けしているので、何かと贈り物をされます。
 陛下の恩恵が私のような者にまで降り注がれなければ、私も関わることはできないでしょう。

 私を悪く言われる重臣の方々にとってはその程度の発言力、何とも思われないのでしょうが、
 私には糸の一本、米粒の一つに至るまですべて陛下のご恩から来ているものでございます」(『郎潜紀聞二筆』巻十一)


つまり自分には権勢を広げようという野心などはない、そこは他のキャリア組の大臣らと違うところだ、
と無辜の子羊の体を見せたのである。


これはある意味、事実だったかもしれない。
皇帝への気配りは神がかり的なほどにできたが、高士奇には国の政治を動かしていくような甲斐性も権限も職位もなかった。

つまり皇帝にとって脅威となり得ない存在だ、と自らもいい皇帝もそれに深く同意したということだ。

ともかくも高士奇の甘い言葉に康熙帝はすっかり煙に巻かれてしまったらしい。
そのままこの件は沙汰やみとなるのである。

当時、巷では
「九天(世の中すべての)供賦(税金)は東海(徐乾学)に帰し、
 万国の金珠(純金と宝石)は、淡(澹)人(澹人は高士奇の字)に献じられる」
という言葉が広く流布していたという。

しかし康熙帝は高士奇の巧妙な言葉を聞くと、言われて見ればそうかと納得。
ただ笑ってそれ以上は追究しなかったのである。





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『紫禁城の月』と陳廷敬27、高士奇と金の豆粒

2016年11月18日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
以上のような細やかな心遣いが、康熙帝の心にいたく響いたことは確かである。
しかし高士奇がした努力はこれだけではなかった。

出仕している間、康熙帝から一歩も離れないことはもちろんだが、
自分が退勤した後に何をしたか、誰に会ったか、何と言ったかをどうにか知ろうとした。

特に自分のいない時間に康熙帝がどんな書物を読んだかについて、強い関心を持った。
このため家から袋にいっぱいに黄金の豆粒を詰め込んで用意し、
出仕すると康熙帝に仕える少年宦官から、生活起居に関する情報を始めとするさまざまな情報を詳しく聞き出した。


価値のある情報を提供するたびに、高士奇は金の豆粒を一粒贈り、
話せば話すほどたくさんその場で渡したので、夜退勤する頃には一粒も残っていないことも多かった。


このようにして康熙帝の喜怒哀楽、一挙一動のすべてを把握、康熙帝が読んだ書籍を事前に熱心に予習した。
したがって康熙帝が何を質問しようとも、
--たとえ世間ではまったく一般的ではないような書物の内容であっても、
高士奇はすらすらと答えることができ、深く御意を得ることができたのである。

このため康熙帝はその学問の深さに一目置くとともに、共通の話題が尽きぬと意気投合するに至る。

『郎潜紀聞二筆』巻十一には、
「廷臣の中で博雅なこと、士奇のほかに右に出る者なし」とある。


高士奇は金の豆粒で康熙帝のおつき宦官を買収し、康熙帝の生活起居と作業情報を手に入れた……。

その後はまるで頭の中を見透かしたように御意を把握し仕事に役立てたが、
そのほかにも情報通としての自らの重要性を向上させること、独自の情報源を持つ存在としての価値を確立するために思う存分活用した。

時には情報を公然と売り渡すこともあり、その大胆さはやや慎重さに欠けるものでもあった。
--それが『紫禁城の月』にもあるような結末を生むことにもなる……。


情報通だったことは、当時は広く知られていたらしい。
同時代やそれからやや時代が下った時期の随筆などに多くの記述が残っている。



例えば、『簷曝雑記』巻二には、次のように書かれている。

「高士奇の退勤時間になると、朝廷各部門の大臣らがその自宅前に列を成して帰宅を待ち構えた。
 大学士の明珠さえも時にはその中にいたほどである。

 退勤後、高士奇の姿がようやく現れたかと思うと、まるでその群衆が目に入らないかのように、
 一切を無視して家の門に向って直進し、中に消えていった。

 高士奇と直接話をすることがかなわないので、人々は仕方なく使用人から邸宅内の情報を収集し、
 高士奇がいつ顔を洗ったか、食事をしたかまですべて聞きあさった。

 それでもかつての『恩人』であり、当世の『宰相』的な立場にあった明珠に対しては、まだ丁寧に扱った。
 というのは、帰宅してしばらくすると外に呼び声をかけ、明珠を中に招き入れるよう指示がされるからだ。

 二人はかなり長い時間話し込んだ後、明珠がようやく外に出てくるのだった。

 残りの尚書(大臣に相当)、侍郎(副大臣)クラスについては、 
 全員に会う時間などまったく取ろうとせず、その中から一人二人のみを選んで、中に呼び入れるのだった。

 その後、家奴(かど)が出て来て『もう時間も遅くなりましたから、今日はもう誰ともお会いになりません。また日を改めて』という。
 残りの人々はそれぞれが馬に乗り、轎に乗って退散するしかなかった。

 そして翌日再び列を成すのである。ほぼ毎日このような調子である。」





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『紫禁城の月』と陳廷敬26、康熙帝が高士奇を寵愛した理由

2016年11月17日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
次に金山での話がある。

金山は鎮江市内長江の岸辺にあり、山肌険しい。
その頂上からは長江と天を一望にすることができる。

「江南諸勝之最」と言われる名勝だ。


ある時の南巡の道中、康熙帝は金山寺に物見遊山にやってきた。
山に登り遠くを眺めると、長江が滔々と東へ流れ水と空がつながるような絶景に大いにご機嫌麗しくなった。

康熙帝が筆を振るうのを嫌いではなくあちこちにその筆跡を残していることを、
寺の僧侶たちはとうに聞き知っており、霊陰寺のように一筆書いて「墨宝」を残してほしいとおねだりした。

しかしこの一筆は想定外の求めだったためお付きの者たちとも打ち合わせをしておらず、書くべき字が思いつかない。
康熙帝の困った様子を見て、高士奇が直ちに紙切れを渡した。

康熙帝が広げてみると「江天一色」の四文字が書かれていた。
その言葉に康熙帝は、はたと膝を打ちこの四文字を宣紙に書いたという。

康熙帝は高士奇からの助け舟を大いに喜び、「江天一色」の四文字に気持ちが高ぶった。
そのため他の題詞と比べても、この四文字は「特に力強く書けている」という。
(『嘯亭雑録』巻八では、康熙帝の題詞は「江天一覧」の四文字になっている)



さらにもう一話。

ある時の巡幸で泰山に登った時、康熙帝は大学士の明珠(ミンジュ)と高士奇とともにある偏殿の真ん中に立った。
康熙帝はふと興が乗り、笑ってそばにいるこの近臣二人に聞いた。

「今の朕らは、何に似ているかの」


明珠は、
「三官菩薩」
と答えた。

高士奇は直ちに康熙帝の前に跪いて高らかに
「高明配天」
と答えた。

それを聞いた明珠は、はっとその意味を理解すると驚きもし気恥ずかしくも感じた。
その額からは汗が一気に噴き出た。


「高明配天」は四書の一つ『中庸』の出典を踏まえたものだと思い至ったからである。
「博厚配地」と「悠久無疆」という対になった句がある。

二つを組み合わせた意味は、
「博大かつ深厚、万物を乗せた大地と合わせることができる。
 高大かつ光明、万物を覆う天空と合わせることができる。

 悠長かつ久遠、万物を作る天地のように際限なく果てしない」


高士奇と明珠の名前にちょうどそれぞれ「高」と「明」の二文字があり、
皇帝のことを俗に「天子」という。

つまり「高明配天」とは、
「高士奇と明珠に天子を合わせる」という意味と「聡明さを天に合わせる」の二つの意味を一言で表現し、
意味深遠となるのだ。

明珠は無知無識な上、分際もわきまえず皇帝と自分たちを対等に論じただけでなく、
自分のことも菩薩と称してしまった。

高士奇のかかる当意即妙な答えを聞けば、自然と心臓が縮み上がったのである。






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『紫禁城の月』と陳廷敬25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺

2016年11月16日 06時33分32秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

高士奇の学問が如何ほどのレベルだったかは定かではないが、博識だったことは間違いないだろう。
世紀の雑学家と言ってもいい。

康熙帝はさまざまなことに広く興味を持ち、知識欲の旺盛な人だった。
数十年も一日の如く読書を続け、その興味は世の中の森羅万象に渡り、
天文、地理、経学、詩文、歴史、数学、さらには西洋の近代自然科学に関する知識に至るまで、何もかも学びたがった。

それぞれの分野で相当の労力もかけた。

最終的には「貧多嚼不爛」(何もかもに手を出しすぎ、どれも中途半端)になったが、
学んでいく過程でともに話のできる相手がいなければ、寂しく、孤独にも感じたことだろう。


康熙帝が高士奇から離れられなかったのは、なぜか。
そこには他人では真似できない何かがあったにちがいない。

高士奇の南巡同行における逸話からいくらかその一端を感じることができるかもしれない。


康熙帝はその生涯に六度の南巡に出かけているが、高士奇はその中で四度に渡り同行しているのである。

ある年の南巡の道中、康熙帝は杭州の霊陰寺にやってきた。
寺の住持(住職)は皇帝がご機嫌麗しいのを見て諸僧らを率いて康熙帝の前で跪き、
霊陰寺のために扁額の文字を書いてほしいと所望した。

康熙帝も生来、筆を振るうのは嫌いではない性質(たち)だ。
僧たちのこのようなおねだりに応えることもやぶさかではない。


しかしこの日はやや興奮気味だったのか、
「靈」の字の上部の「雨」の字をあまりにも大きく書きすぎ、
真ん中の「口」三つと下の「巫」の字を書く場所がなくなってしまった。

このためどうにも次の一筆を降ろせずに往生していた。


高士奇はその様子を見て事情を悟ると、直ちに手の掌に「雲林」という二文字を書いた。
墨を擦りに行くような振りをして康熙帝のそばに寄り、わざと手の掌を広げて康熙帝に見せたのである。

この絶妙な機転に助けられ、康熙帝も気の動転が鎮まった。
字を書き間違えたのなら、いっそのこと開き直り「雲林」の二文字を書くことにしたのである。

--霊陰寺の別名「雲林寺」には、このような由来があるのだ。


杭州の民衆はこの寺名を認めたがらず、影では昔のまま「霊陰寺」と呼び続けたが、
康熙帝の題写した扁額は、未だに霊陰寺の大門の上にかかっている。

--民衆が康熙帝のつけた寺名を認めたがらなかったのは、
以前にも何度か書いたが、江南は最後まで満州族への心理的抵抗感が強かった地域のためかと思われる。


ここではそれが主題ではないので、これ以上は論じないこととする。





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『紫禁城の月』と陳廷敬24、高士奇、起居注官に任命される

2016年11月15日 07時54分15秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

康熙二十二(一六八三)年、高士奇は「日講」に任命される。

これは二つの職「日講官」と「起居注官」を一つに兼任する官職である。

「日講官」は、皇帝のおそばにつき日常の学問的な疑問に答える。
「起居注官」は、皇帝の行動を二十四時間にわたり記録する係である。

どちらにしても常におそばについており、あまり忙しい仕事でもなかったためなのか、
この二つの仕事を一人の人間が兼任することが慣例化していた。


そのようなわけで高士奇は、日頃から康熙帝に古典の解説などをすることがよくあった。

ある時、『周易』の講義を行うことになった。
高士奇は深夜に家に戻ってからも翌日講義すべき内容の復習に余念なく、遅くまで準備を怠らなかったという。


また「起居注官」というのは、皇帝の日常を記録することが仕事のため二十四時間皇帝のおそば近くにいる。
したがって外巡にも必ず同行した。


康熙帝はほとんど紫禁城に居ついていた時間がないのではないかというくらいあちこち動き回った皇帝だが、
高士奇はその康熙帝に付き従い、松亭(内モンゴルへ抜ける要所)、塞北(承徳やモンゴル)、盛京(現在の瀋陽)、
烏拉(ウラ、現在の吉林、満州族の故地)、浙江(いわゆる康熙帝の六度に渡る南巡ですな。高士奇本人の故郷でもある)等にも同行した。

中でも康熙二十一(一六八二)年に満洲に同行した際の記録『扈従東巡日録』は、
現在でも当時の満洲の風土を知ることのできる貴重な歴史的資料となっている。


康熙二十五(一六八六)年、高士奇は統制総裁、政治典訓副総裁に就任する。
この頃が最も多忙を極めた時期のようである。次のような詩を詠んでいる。


  塞北松亭載筆頻  塞北、松亭でも頻繁に筆を持ち、
  江南山左扈時巡  江南、山左(山東)に付き従って回る。

  旨甘不欠慈幃奉  御意に沿うよう細心の注意でお仕えするが、
  内顧無憂頼爾身  家庭を顧みなくてよいのはありがたいが、申し訳なくもある。


出張続きで家を空けることが多かった日々が綴られている。



高士奇は一流の書道家とまでは言えないまでもその字は美しく、
康熙帝がその清書した文書典籍をお気に召していたことは、疑いようのない事実だろう。

印刷術がなお未発達だった清初において、朝廷や官府の出す文書は現在のように印刷やコピーできるわけではなく、
人の手で若干部数を書き写し、配布された。

高士奇は入宮以後こういった書き写しの仕事に携わっていた時間が長い。
字が美しく仕事に勤勉だったため、皇帝の覚えがめでたく出世のきっかけとなった。



また高士奇には絵心もあり、特に山水画は「筆墨が隽雅」(味わい深く優雅)、逸品と呼ぶにふさわしかったという。

高士奇は学問の探求にも熱心で広く書物を読み、考証への造詣が深く著述をまめにした。
『四庫全書』に収録されているその著作だけでも、『左伝紀事本末』、『春秋地名考略』、『三体唐詩補注』等の八部がある。

『四在庫目』への収録は、『天禄識余』、『塞北小鈔』等の五部。
その他にも『読書筆記』、『苑西集』、『経進文稿』等の十数種類の著作がある。

高士奇のこのような著作は、大きく三つに分けることができる。
一つは詩文集、二つ目は康熙帝の活動の記述、三つ目は学術著作である。

中でも学術著作では、春秋左伝の解釈、唐詩の解釈を得意とした。
『四庫提要』では、高士奇の学術著作を高く評価する。

社会主義国になってから中華書局が『左伝紀事本末』点校本を出版している。
--現代でもその学術価値が、高く評価されていることがわかる。


高士奇は、一流の書画鑑賞家・収藏家でもあった。
俗に清初の収蔵大家のことを「三家村」と呼びならわすが、それは号の中に「村」の字のある三人の収蔵家を指す。

 1、梁清標。字(あざな)・棠村。
 2、安岐。号・麓村。
 3、高士奇。号・江村。


梁棠村と安麓村はコレクションの幅が広く、豊かで逸品が多いことで有名だが、
高江村(=高士奇)は、特に鑑定レベルが高いことでその名が知られていた。

その法眼で鑑定された作品は、評価も値段も一気に十倍上がると言われた。







杭州の西渓山荘

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『紫禁城の月』と陳廷敬23、軍機処の前に南書房あり

2016年11月14日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
「内閣」という枠では、皇帝自身があまり気に入らない勢力を排除できなかった。
南書房は「皇帝に書画を献上し、詩句のやり取りをする」という名目で発足されたものの、
それはあくまでも借りの姿。

実質は国政の中枢に仕立てられていく。


そして日頃から皇帝と密に接することにより、南書房に出入りするメンバーらの権勢が日益しに強くなったのである。

この時、かの有名な軍機処はまだなかった。

軍機処は康熙帝の子である雍正帝が設立し、その後も清末まで継承されたために名前がよく知られているが、
実際には軍機処と同様の役割を持った機関がすでに父親の康熙帝時代からあったということになる。

南書房も軍機処も名前が違うだけで実質的な目的は同じと言える。

 
康熙と南書房の官僚の関係は、極めて親しいものだった。

政務について緊密な議論を交わすほかにも、
康熙帝はよく「諸文士らと花を愛でて魚を釣り、同堂の師友と何ら変わりがなかった」(『嘯亭続録』巻一)
と言われる。


ある時、五台山から宮中に「天花」という名のキノコを献上された。
康熙帝は「香りの高いこと、世にも珍しく佳味と称すべし」と賞賛した。

そこで南書房にもわざわざ「名山の風土也」と知らせて一部を下賜したという(『池北偶談』巻二)。

南書房の官僚らに御用瓜果(皇帝用のお茶受けに供される味付け種、茶菓子、果物)、茶酒やその他の物品を下賜することは、
すでに日常的な習慣となっていた。


高士奇は康熙十六(一六七七)年、三十二歳の時に南書房に入った。

この年、大内「苑西」(暢春園)の中にも住まいを賜っている。
康熙帝が紫禁城ではなく暢春園で過ごす時間が長かったため、近くに住まいを賜ったということだろう。

また録事(記録係)として康熙帝の南巡にも同行、冬には内閣中書にも抜擢された。


高士奇は前後して二回、南書房の任務についた。

一回目は康熙十六年から二十七年まで、二回目は康熙三十三年から三十六年まで、
二回合わせると実に十四、五年の長きにも渡る。

この間は高士奇が最も忙しかった、激務をこなした時期だったと言える。
同時に最も充実した最も栄光に溢れた時期でもあった。

各種の文献資料を見ると、高士奇は南書房での当直で毎日朝早く家を出て夜遅くまで仕事をしていたようである。
勤務時間を過ぎても康熙帝に残るように言われれば、何かの相談を受けたり議論を交わしたりした後、
深夜になってようやく帰宅することもしばしばだった。

退勤があまりにも遅くなり城門が閉まっていたため、康熙帝が警護の者をつけて家まで送ったこともある。


康熙十九(一六八〇)年、三十五歳の時に「翰林院侍講」に就任。

これは「翰林」官とは別であり、「翰林」でなくてもなることができた。

「翰林」には進士出身者でなければ、なる資格さえなかった。

しかも進士の中でも最も成績のよい「第一甲(上位三名)」か、「第二甲(四位以下の若干名)」でなければ、確率は低かった。
「第三甲(その他大勢)」で順位が低ければ、翰林には選ばれなかったのである。

通常、一度の進士合格者は二百人から四百人と言われたが、
その中でもエリート中のエリート、国家中枢のブレインともいうべき存在だ。

--進士どころか、挙人の資格さえ持っていない高士奇には、もちろん「翰林」になる資格はなかった。


これに対して「翰林院侍講」は奏文の管理、公文書の照合などの事務仕事、いわば裏方を担当する。
名前はまぎらわしいが、まったく別の資格である。










杭州の西渓山荘

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『紫禁城の月』と陳廷敬22、高士奇、南書房に入る

2016年11月13日 00時01分15秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

高士奇は康熙八(一六六九)年、二十四歳の時に国学に入学する。

この入学は有力官僚の推薦によるものである。
どのような知遇があったかについては『紫禁城の月』でドラマチックに描かれている故、ここでは繰り返さない。

この年、高士奇は初めて康熙帝にも謁見が叶い、書の美しさを評価されて翰林院に勤めることとなった。
康熙帝に仕えること一年足らずで高士奇は飛ぶ鳥を落とすほどの勢いとなる。

後述するように、皇帝の痒いところに手が届くようなきめ細やかな気配りが気に入られるのだが、
直接のきっかけは、南書房への出入りだったらしい。


南書房は康熙帝が設立させた特別な機関だが、そのスタートメンバーに選ばれたのである。

高士奇は当初「中書舎人」なる官職の康熙帝の個人的な秘書でしかなかった。

康熙十六(一六七七)年十月、康熙帝は大学士の明珠(ミンジュ)等にこう言った。
「朕がいつでも書籍を読み文章が書けるようにしたいが、身辺に博学で書に長けた者がおらぬ。
 何か議論したいことがあっても、相談する相手すらおらぬ。

 現有の翰林の中から学問の優れた者を一人から二人選び、左右に常侍させて文義を考察・研究させるがよかろう。
 仕事を滞りなく進めるため、大内に常駐場所を手配しよう。

 また高士奇のような書が美しい者も一人から二人ほど選んで入らせよ」

まもなく康熙帝は張英、高士奇らに南書房での勤務に就くよう命じた。


康熙の上記の言葉を見ると、高士奇が康熙帝の覚えめでたく、皇帝自ら特に南書房に入るよう指名した、
それは書が美しかったからと知れる。




康熙帝が南書房を増設し専門の官僚を置いたのは、
名義上は経史の解説の講義をし、詩の唱和、文書や典籍等の書き写しのためだった--。

皇帝の文学的な侍従のように見せかけたわけが、実際の情況を見るとまったくそれだけというわけではない。


実は政務も処理していたのである。
勅令の起草、諭旨の撰述、奏文の閲読をしていた。

--これは本来なら、内閣で担うべき任務である。


しかし南書房ができてからは、諭旨の撰述のほとんどを南書房の諸臣が行った。
南書房に集められた諸臣らは、内閣のように有力な建国の功臣一族ではなく、皇帝が心から信頼を寄せる近臣たちだった。


南書房を作った康熙帝の最大の目的は、満洲族の有力貴族らを政権の中枢からつまはじきにすることにあったのだ。


アイシンギョロ家というのは皇帝の地位に収まってはいたものの、
建国の功臣一族が、それを完全に納得していたわけではないらしい。

「たまたま誰かを皇帝に推戴しただけで、この天下はわしらも含めた満族全体で取ったもの。
 アイシンギョロ家だけが私物化することは許さん」

という気分が満ち満ちていた。


それが鰲拝(オボイ)の専横であったり、康熙帝の諸皇子らのガチンコの後継者争いなどの形で表れてきた。

諸皇子らは、それぞれに生母の実家である功臣一族や各旗の勢力を代表する存在であり、
各勢力が自らの支持する皇子を盛り立てて死闘を繰り広げたわけである。

そのような功臣一族から権力を徐々に取り上げ、内閣を形骸化させるために作ったのが南書房だった。
康熙帝の狙いは、皇帝の権力の強化、満州族の建国の功臣一族たちの権力の弱体化にあった。






杭州の西渓山荘

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『紫禁城の月』と陳廷敬21、高士奇の生い立ち

2016年11月12日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

えええー。
陳廷敬さん周辺の事情については、大方のことは書き終わりましたかねー。
また思いつき次第補充するとして、一旦は陳廷敬さんから離れようと思います。

次に『紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬』のほかの登場人物について、
興味の赴くままに書いていきますー。

一発目、今日からしばらくは高士奇に関してです。


**************************************************


『紫禁城の月』に登場する人物の中でも、高士奇の存在はひときわ異彩を放つ。

陳廷敬のようなキャリア組とは違い、科挙に合格するという手順なしにひょんなことから満洲貴族経由で推薦を受け、
あれよあれよと言う間に出世の糸口をつかんだ人物である。

官位は高くなく、国政への影響力はないものの、終始天子からのご寵愛篤き存在。

――日本的に言えば、「茶坊主」。
外来語でいえば「コンパニオン」のプロ中のプロとでもいうべきか。


高士奇のどこがそんなに康熙帝にとって覚えめでたかったのか……。
 
本書の中でもさまざまなエピソードが紹介されているが、もう少し詳しく見ていきたいと思う。


まずは生い立ちから。

高士奇。字(あざな)は澹人、号は江村、原籍は浙江余姚。
順治二(1645)年に浙江余姚樟樹郷高家村(現在の慈溪匡堰鎮高家村)に生まれた。

--生まれ故郷の村は今でも「高家村」ですか。
まさに村中皆「高さん」という村。

これだけ一族が集まり住む村だと、祖先の軌跡も比較的はっきりと伝わっているらしい。
高家村の子孫は北宋『靖康の変』の時、汴京(河南開封)から浙江慈溪に南遷してきたと言われる。

『靖康の変』といえば、北宋の首都汴京に金の大軍が押し寄せて徽宗を拉致し、そのまま満洲へ連れ去ってしまった事件。
これ以後、宋は長江以南のみを領土とし、首都を臨安=杭州に移した。

この時に首都の人々が金の支配下に入ることを潔しとせず、大挙して長江を渡り、南方に移住した。
つまりは都で元々、支配階級に近い、よい暮らしをしていた一族ではないかと思われる。


地図で位置関係を確認しておこう。







高士奇の出自に関する記録を見ると、とにかく「出自が貧しい」ことが強調されている。

しかしそもそも科挙の受験などというものは、本物の水飲み百姓なら到底準備できるものではない。

私塾に通わせるだけでも費用は馬鹿にならないし、
生産活動もせずに働き盛りの大のオトコが何年も無駄飯を喰らうのを養うだけでも、労働者階級では到底無理な話だ。

高士奇の家が本当の「貧乏」ではなかったことを裏付けるこんな事実もある。
後に高士奇が豪華絢爛な別荘を建てたと言われる杭州郊外の「西渓山荘」のことである。
『紫禁城の月』クライマックスあたりにも登場する。

この「西渓山荘」、高士奇が都で大出世を遂げてから購入した土地なのかと思いきや、
実は高士奇が成人する以前からすでに高家が所有していたものなのだ。

--ささやかな別荘地を所有するくらいの小金は親の代からある家庭だったことがわかる。


しかし康熙三(一六六四)年、高士奇が十九歳の時に父親が亡くなったため、その後の生活が困難となった。
その頃の困窮ぶりのために「出自が貧しい」と言われるようになったらしいが、
成人するまでは、ぼちぼちの中産階級だったようなのだ。




高士奇と伝わる肖像画


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『紫禁城の月』と陳廷敬20、『紫芸[阝千]』

2016年11月11日 07時51分00秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬







陳家の墓地・紫雲[阝千]は、皇城相府の北1㎞の静坪山にある。




入り口の牌楼を過ぎて最初に正面に現れる碑亭には、
陳廷敬の病没を知った康熙帝が贈った詩(御賜挽詩)が石碑に刻まれている。




   





  世伝詩賦重 あなたの詩は皆に崇拝され、
  名在独遺栄 名は栄光とともに人々の心に刻まれていましたね。
  去歳傷元輔 去年、首輔大臣の張玉書をなくし、すでに悲しみに暮れているのに、
  連年痛大羹 今年はさらにあなたまで失って、心が張り裂かれんばかりだ。

  朝恩葵忠励 あなたの政務の処理は厳格ながら平衡感覚があった。
  国典玉衡平 法の執行は正確で過ちがなく、公平かつ適切だった。
  儒雅空階嘆 御殿の階段前の教養高い優雅な人を失い、まったく溜息が止まらない。
  長嗟光潤生 今でも眼前にあなたの輝かしい姿が現れることよ。



石碑の裏面の詩は康熙四十四(一七〇五)年、康熙帝が陳廷敬に贈ったとされる詩である。
皇帝が『皇清文穎』という書物に収められている陳廷敬の詩に答える形で送ったものだ。


  横経召視草  学識豊かなあなたをよく御前に召して諭旨の起草をしてもらっていますね。
  記事翼鴻毛  古今の知識の造詣が深く、事実の裏付けを集め、修史の総裁を務める。
  礼義伝家訓  家風の継承も重厚、礼節と道義を重んじている。
  清新授紫毫   文筆に優れ、詩も文章も韻が涼やか、新たな創意に満ちている。

  房姚比就韵  あなたの宰相としての力量は唐の房玄齢と姚崇に匹敵する。
  李杜并詩豪  文才はまさに李白、杜甫に並ぶ。
  何似昇平相  あなたのような太平の世の輔弼の名相が
   開懐宮錦袍  同時に風流な士大夫になぜなれるのか。




















さらに先を進むと、通路の左側に「通路碑」十本がずらりと並ぶ。

何が書かれているかといえば。

一本目と二本目: 
康熙帝の御制祭文。
 陳廷敬の詩後、康熙帝がその生前の功績を踏まえて謚号(しごう、おくりな)『文貞』を賜った。
また『陳子』という尊称を贈った。

「子」とは、孔子、荘子の呼び名でもわかるように、偉大な思想的功績を成し遂げた人のみに贈られる尊称。
康熙帝が如何に陳廷敬の功績を高く評価していたのかが知れる。

 康熙帝が陳廷敬のために行った二回の祭事の際に書いたものである。
陳廷敬が亡くなったという知らせを受けると、康熙帝は、内閣と礼部(儀式を司る機関)に通達し、
通常の祭事に加え、もう一度祭事を増やすように命じたという。

--康熙年間、二回の祭奠という特殊な待遇を受けたのは、陳廷敬と張玉書の二人のみである。


三本目から七本目:
  陳廷敬の第三子壮履が書いた文章である。亡き父の臨終に際した康熙帝の恩典を説明する。

 ・[門必]器の恩賜: 
   棺桶の下賜。山西では[木沙]板(ヘゴ板)が手に入りにくいと知り、
   康熙帝は直ちに暢春苑総管に命じて特級品の紫[木沙]板を送り届けさせたことは前述のとおり。

   
 ・帑金(国庫の金)を特別に下賜される
   康熙帝が通常の葬式代のほかにも、さらに国庫から白銀千両を賜ったこと。


八本目から十本目:
 康熙六(一六六七)年から康熙四十九(一七一〇)年まで、皇帝が陳廷敬を昇進させた聖旨10本を羅列している。




道を進み、右に曲がった先に陳廷敬の墓がある。

その東北の土台の上に祖父の陳経済、曾祖父の陳三楽の墓碑がある。
父の陳昌期の墓は、紫雲[阝千]から数キロ離れた樊山嶺の百鶴軒にある。

一族の中で陳廷敬とともにここに眠るのは、陳廷敬の三男陳壮履とその子陳師倹しかいない。












   



   


   




京師(北京)で五十年近くを過ごしながらも、望郷の思い激しかった陳廷敬。
こうして生まれ故郷で安らかに眠ることができ、ほっと胸を撫で下ろしていることだろう……。



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『紫禁城の月』と陳廷敬19、陳廷敬の見送りには

2016年11月10日 09時19分39秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

まもなく陳廷敬がついに旅立ったという知らせが届いた。
皇帝はその死を悼んで自ら挽詩を詠んだ。

--それが後述する山西の墓前の石碑に刻まれた詩だ。

康熙帝は、三皇子の誠親王允[ネ止]に弔いの茶と酒と届けさせ、南書房からは励廷儀と張廷玉を派遣した。

誠親王は『紫禁城の月』にも登場する。

皇子が小さい頃、陳廷敬が定期的に碁を教えたという間柄であり、
父帝の名代として派遣するには、最もふさわしい相手という判断だったのだろう。

誠親王は内侍大臣(満洲族の近臣のみが務める、皇帝の身内的な存在)、乾清門侍衛(満州族の近衛兵)、
ならびに満漢大小の官僚たちを率い、陳家に駆けつけて祭奠(供養)を行い三叩の礼を尽くした。

重臣の死に際しては、皇帝から祭文一篇を出すことが通例となっていたが、
陳廷敬の場合は、御賜挽詩一篇のほか祭祠碑文が二篇、さらに祭文一篇が贈られたのである。

康熙帝は陳廷敬の葬儀についても、細々と心を配った。

臨終の翌日、息子の陳壮履に対し、
「山西では[木沙]板(ヘゴ板)は手に入るか」
と聞いた。

壮履が、あまり聞いたことがない、通常は柏の木が多い、今ヘゴが手に入らないかあちこちを探している、と答えた。

ヘゴは香りが強く七里先まで匂うとして、
家具、蔵書楼建材(書物の虫除けにもなるため)の最高級として中国では珍重された木材である。


康熙帝は直ちに暢春園総管に命じて特級品の紫[木沙]板を送り届けさせた。
その木は「色は紫で紋は緻密、堅く質潤」、「切り込みを入れた途端に香りが百歩先まで漂った」と伝わる。

棺桶の材料に使うようふんだんに下賜さけたというのである。


康熙帝は陳廷敬が普段から清廉の人だったこと、故郷の中道庄(現在の皇城相府の所在地)で大々的に屋敷の増築を行ったことを考慮し、
恐らく陳家には陳廷敬のために壮大な葬式を出してやれるほどの財力はもはや残っていないのではないか、と憂慮した。

現在の皇城相府の外城の豪華絢爛なこと、これまでに写真でじゃんじゃんと紹介してきた通りだが、
あり余る財力で建てたわけでもないことが知れる。


しかし朝廷の頂点を極めた高官にあまりにもみじめな葬式を出させるわけに行かない。
そこで康熙帝は官位ごとに下賜が規定されていた通常の葬式代のほかにも、さらに国庫から白銀千両を賜った。

康熙年間、大臣がなくなった時の撫恤金は通常、白銀五百両だったという。
さらに千両上乗せしたというのだから、その破格ぶりがわかる。


葬儀が終了すると、霊柩を山西陽城の故郷へ護送するため、
康熙帝は刑部員外郎などを歴任した瀋一揆を特使に任命し、護送隊までつけて派遣した。

道中、丸々二ヵ月はかかる道のりだ。

かかる厚遇、清代全体で見渡しても稀有と言える。

道中は官駅に一駅一駅、宿泊し、「黄童から白叟に至るまで」(子供から老人まで)道を取り囲み、
天子の寵愛を受けた老臣を一目見ようと詰めかけた(紫雲[阝千]通路牌三)。







皇城相府


『紫禁城の月』と陳廷敬18、陳廷敬、病に伏す

2016年11月09日 10時37分14秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

話は同僚の李光地に飛んだが、陳廷敬にも康熙帝は『湯座り』を大いに勧めたのである。

--ひどく体が衰弱した状態で陳廷敬が本当に『湯座り』を実施したかどうかは、謎ながら……。
少なくとも康熙帝の熱い思いだけは、充分に伝わる逸話だ。


さらには宮内から太医院の御医、劉声芳を派遣して良薬を調合させ病状を毎日報告するように指示した。

その後も朝廷から大臣を派遣しての慰問が続いた。
スイカ糖、ハミ瓜、関東密餞(砂糖煮)、瀛台紅稲米など宮中の山海の珍味、各種滋養強壮の食品が次々に送り届けられた。


次に陳廷敬の左頬が腫れ、中気(消化能力)が弱いと知ると、
直ちに劉声芳と外科医二人を派遣、様子を報告させた。

「三更(夜十一時から一時)を過ぎても、
 陛下はまだ淵鑑斎(暢春園における康熙帝の書斎)で蝋燭を灯し、座って待っておられた」(紫雲[阝千]通路牌六)
という。


康熙帝は報告を聞くと、直ちに薬を調合させて陳家に届けるように命じた。
時刻はすでに夜中をまわっており、紫禁城の城門は閉じられ出ることができなかった。

つまり皇帝は郊外の別荘である暢春園(現在の北京大学付近、北京城内から十五キロ離れている)にいるが、
医療機関である太医院は紫禁城の中にあるため、
暢春園から早馬を飛ばして紫禁城に知らせて薬を調合させたことになる。

康熙帝は内務府(皇帝一家の諸事を処理する機関。宮内庁に当たる?)総管から兵部(軍事を司る中央機関)に通達させ、
直ちに城門を開けるように手配した。

息子の陳壮履にも、父親に何か必要なものがあれば遠慮なく言うようにと声をかけた。

夜間に何か急があれば、たとえ城門が閉じていようとも陳家の人間だと声をかけさえすれば、
すべて通ることができるようにする、道中阻止する者がいれば必ず報告するように、厳罰に処す、と。




そしていよいよ陳廷敬の臨終が近づいた--。

康熙帝は鄭倫岱、励庭儀、趙熊詔を伝旨大臣として派遣した。
この三人は陳廷敬の総裁する『康熙字典』の編纂チームの若手だ。
翰林院侍読などの職を担い、三男陳壮履の同僚たちでもある。


三人は康熙帝の諭旨を伝えた。

「朕は大学士の病が早く回復し、もう数年ほど政務の処理をしてほしいと日々願っていた。
 万一の時のため大臣の中で学問、人品が大学士の如く優れ、内庭の事務を処理するに足る人材を推薦してほしい」

陳廷敬は「枕に臥して泣いた」(紫雲[阝千]通路牌五)という。

その後、推薦人の名を紙に書き、
蝋丸(漢方薬を粘土状に丸く練り上げ、それを蝋の丸い入れ物に入れて密封することで、
水分が飛ばないようにするための入れ物)に入れて封印すると、伝旨大臣らに託した。


この時に陳廷敬が誰の名を書いたのかは、もちろん永遠に謎のままである……。






皇城相府


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『紫禁城の月』と陳廷敬17、李光地の病が湯治で完治

2016年11月08日 00時03分25秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

康熙帝にしてみれば、
漢人官僚たちにわが民族の優れた伝統を誇りたいという気持ちも強くあったにちがいない。

李光地がその効果を認めてくれたことを内心、してやったり、とにんまりしていたのか、と想像する。


「三七」の治療が終わると、康熙帝は今度は李光地のために「旱忌」を指示した。
つまり湯治をやめてお湯に触らないことをいう。

「三九」、即ち二十七日連続で湯に入れば、「旱忌」も同じだけの長さ二十七日とする決まりだった。
その後、病情の良し悪しを見て湯治を続けるか決めていく。

「旱忌」期間中も特に風邪に注意しなければ、治療効果はない。


康熙帝は李光地に湯治治療を賜うと同時に、「海水泡洗」(海水入浴)とも併行させた。
康熙五十(一七一一)年九月、海水を巨大な甕二つ分賜ったのである。

さらに具体的な入浴方法を教えた。
海水を六等分し、毎日教えた方法通り二回入浴せよ、と。

内陸の北京までわざわざ海水を運んできて、家で温めてその中に体を浸せ、ということだ。
海水のミネラルと湯の温度が治療に効果的という原理だろうか。


その後、康熙帝はさらに巨大な甕二つ分の海水を送り届けさせ、引き続き教えた方法通りに入浴を続けるよう命じた。
このほか食事の指導もした。

入浴後は食事の量を増やし、肉も取るように、牛、羊、鶏、魚等も拘りなく摂りなさい、たくさん食べれば食べるほどよいと教えた。


--日常的に湯に浸かる習慣のない人が急に長時間湯に浸かると、
思いのほか体力を消耗するから、滋養をつけろという意味なのだろう。

康熙帝は追加でキジ、野鴨も各五羽ずつ下賜した。


『湯座り』を続け、さらに海水による入浴でも補い、食事と生活習慣にも気をつけた結果、
画期的な効果を発揮、李光地のすべての出来物が黄色くなってかさぶたとなり、数日後には次々に剥離していった。

大いに感心した李光地はこう奏上した。

「陛下から海水を賜って入浴を続け、『湯座り』と食事・生活習慣療法を続けた結果、
 おかげさまで無事に『三七』満期を迎えました。

 臣の病は約五、六分以上が去りました。
 これもすべて天のご加護、聖恩のおかげ、言葉で表すことのできないほど感謝しております。
 もう少し入浴を続ければ、完治するかと存じます」

康熙帝の至れり尽くせりの世話のおかげもあり、八ヶ月の治療を経て漢人大学士李光地の瘡毒はついに完治した。


康熙五十(一七一一)年十二月二日、康熙帝は暢春園で李光地を謁見し、自ら出来物の患部を観察した。
 
治療の成果を確かめると大いに喜び、さらに野鹿等の滋養強壮の品と海水をたっぷりと下賜、
今後も充分に精をつけるように、再発させず効果を固めるよう励ました。


李光地は感激、感動、感謝の嵐の中でひっきりなしに叩頭を続け、天子のご恩に感謝を続けた。

……という微笑ましい逸話がある。




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