いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで9、「ハーン」の「皇帝」化

2017年05月26日 08時28分57秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
一方、中原の大帝国を維持するためには、騎馬民族の欠点である後継者争いによる政治機能麻痺は避けねばならない。
儒教思想に凝り固まった科挙上がりの士大夫らが、野蛮だ野蛮だとこれまたうるさく罵るのも、うっとうしい話だ。

そのすべての要素を丸く収めた案が、「太子密建」だった。

中原王朝のように早々と太子を立てて失敗した経験を生かし、今上皇帝の生前に後継者を公開することはやめたのである。
さりとて、兄弟が血みどろの骨肉の争いを繰り広げて政治が機能しなくなることは避けねばならない。

そこで現皇帝が死ねば、指名された皇子以外は誰にも権利がないことにする。
雍正帝が自らの苦い経験を踏まえて編み出した実にうまい案といえよう。


ともかくも雍正帝が血みどろの後継者争いの末に即位した話をしている。

中原モデルと草原モデルの板挟みになり、
多くの兄弟を幽閉したり殺したりせざるを得ず、自らも大きく心に傷を負った雍正帝。

そんなワーカホリックな猛烈熱血オトコが57歳で亡くなり、
その後を継いだのが乾隆帝である。


曽祖父、祖父、父の不安定な即位と比べると、乾隆帝の即位には何の障害もなかった。

まず雍正帝の十人の皇子のうち、雍正末年まで生きていたのは三人しかいない。
弘歴(乾隆帝の名前)は第五皇子ながら、上は3人の兄が夭折、
残るは兄が一人いるだけだったが、あまり優秀とはいえず、父帝からは尊重されていなかった。

これに対して、弘歴は幼い頃から優秀で祖父の康熙帝にも特にかわいがられた。
ライバルらしきライバルがいないまま、小さい頃から後継者となることを約束され、二十五歳という理想的な年齢で即位したのである。

父が制定した「太子密建の法」により初めて即位した皇帝でもある。



最も時代が下るに従い、清朝でも次第に中原型の長子相続の傾向が強くなる。
それは満州族の中原化が進んでいくバロメーターでもある。

清末の咸豊帝(西太后の夫)と恭親王の兄弟など典型的な例だろう。
二人は道光帝の息子として、本来なら平等に後継資格があったはずだが、長子であり「心根がやさしい」咸豊帝の方が後継者に選ばれた。

これはすでに中原入りして二百年を越していた清朝の皇帝にとって
「決断力」や「カリスマ性」はすでに必要でなくなっていたことの現れだろう。

それよりも「慈悲深さ」や「周囲を慮る心」、
つまり官僚群の上に「象徴的に君臨する」、立憲君主制に近い体制での皇帝の役割が求められるようになっていたのだ。

ところが、時代はすでにアヘン戦争以後の列強諸国との乱世に突入していた。
「心根のやさしい」咸豊帝では、まったく物の役にも立たず、
列強諸国に北京に攻め込まれ、熱河の避暑山荘に逃げ込んだ挙句、荒淫で自棄死にしてしまったのは、周知のとおりである。

結局、皇帝に選ばれなかった「騎馬民族的」な機動力を持つ弟の恭親王が北京に残って兄の尻拭いをすべて引き受けた。
やっと中原型支配体制に移行したと思ったら、また乱世が来てしまい、対応できなかった悲劇と言えるだろう。


************************************


以上、満州族という異民族が統治した清朝という王朝の皇帝の位置づけについての雑感でした。

これにてこのシリーズは終了です。




古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで8、雍正帝の「太子密建の法」

2017年05月23日 16時07分15秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
元々康熙帝の後宮には、親族関係を結びたい有力者の娘を入内させている。
その結果、皇子らの母方の実家はそれぞれ満州族の有力な勢力の利益を代表していた。

例えば、太子・胤礽の生母の実家は、建国初期の功臣・索尼(ソニン)、赫舍里(シェヘリ)氏、
長子・胤褆の生母の兄・明珠(ミンジュ)も飛ぶ鳥を落とす勢いの有力者である。

満州全体が、それぞれの皇子を応援し、当の康熙帝も浮き上がらんばかりの熾烈な謀略合戦を繰り広げた。


その熾烈な謀略戦争「九子奪嫡」の争いを最終的に勝ち残り、多くの謎を残して即位したのが、第四皇子だった雍正帝だ。
即位したはいいものの、ほかの皇子らからは激烈な抵抗が起こり、兄弟らを幽閉したり殺したりせざるを得なくなる。

北アジアのステップやツンドラの民の間では、ごく日常的に当たり前に行われていたことだが、
農耕文化圏内の中原でやらかしたから非難轟々である。

雍正帝は自分が如何に皇帝にふさわしい人物であるかを死ぬまで証明し続けなければならない羽目になった。
そのために昼夜分けぬ猪突猛進ぶりで政務に勤しみ、燃え尽きて在位わずか十三年で崩御する。

いわば過労死のようなものだ。


自らの悲痛な経験を再び繰り返さないため、雍正帝が決めた家法が「太子密建の法」である。

即ち、太子は立てず皇帝が次の後継者の名前を書き箱に入れて乾清宮の「正大光明」の扁額の後ろに隠し、
皇帝が崩御すればこれを開けて次の皇帝を公開するという方法である。


いわば中原モデルと草原モデルの折衷案である。
双方の短所を補い合い、譲れない部分を盛り込んだ苦心の案であっぱれと言わねばならない。

まず塞外の民として、
中原国家のように如何なる阿呆でもとりあえず長子を太子に選び据えるというのでは、どうしても具合が悪いのである。

前述のとおり、清朝の皇帝にはいくつもの顔があり、
中原王朝の皇帝であると同時に、満州族の大エジェン(皇帝)でもあり、モンゴル族をまとめる大ハーンでもある。

それは創始期に皇帝ホンタイジがチンギス・ハーンの直系の子孫に当たるモンゴル・チャハル部のリンダン・ハーンの正式な後継者となり、
その未亡人四人を自らの妻とした時から始まる。

清朝の軍事力の中心は、満州族とモンゴル族を中心とする八旗で維持するべきであり、
この馬上の民にいうことを聞かせ、命を張って戦ってもらうには、
どうしてもぼんくらエジェンではだめなのである。

満州族とモンゴル族の勇猛果敢なる塞外の民としての武力を維持するためには、有能な皇帝が必要となる。



  


古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで7、康熙帝の太子廃嫡

2017年05月20日 09時08分18秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
イスラム世界の権力交替を見てもわかるように、
騎馬民族社会では、人生最高の頭脳の働きを結集した凝縮度・集中度の高い数年しか、リーダーでいることが難しい。

カリスマ性・判断力が衰えてくると、途端に下から見放されて取り替えられてしまうのである。


そんな騎馬民族の体質を先天的に抱えたまま、康熙帝の在位は60年を超えることになる。
中原王朝であれば、皇帝がいくら長生きしようが、息子である太子は父親が死ぬまで、特にあせりも慌てもしない。

ところが、騎馬民族の社会ではどうもそうではないらしい。

一つは康熙帝の在位年数が長くなるに従い、リーダーシップ・凝集力が弱まったことがあった。

次に太子である方の息子にも「花の盛り」がある。
つまり自分が皇帝を譲られたときによぼよぼの爺さんになってからでは、周りがついてこない恐れがあるということだ。


騎馬民族出身の王朝では、よくある例といっていい。
例えばインドのムガル帝国は、モンゴルの継承者を自覚するトルコ系王朝として、
皇子らが兄弟同士で殺し合い、最後に残った一人が皇帝を継ぐという伝統を持っていた。

また息子が父親を退位に追い込み、帝位を奪うことも行われた。
皇帝アウランゼーブは、父帝ジャハーン・ギールを幽閉して帝位についている。


康熙帝が選んだ太子も不穏な動きを起こした。
父親が長生きしすぎて自分がいつになったら皇帝になれるのかわからない、といってみるかと思えば、
悪い面は中原の文化を率先して学び、江南の美女を買いあさって世間の顰蹙を買ったりする。

康熙帝にも中原の思考回路になりきれないところがあり、
一番優秀な息子ではなく、嫡子だというだけで本人の資質を考えずに無条件に選んだ太子なのに、
優秀なリーダーとしての資質を求めようとした。

不祥事が露見すると、怒って太子を廃止してしまう。

こうなると、もう中原モードもへったくれもない。
元の木阿弥、素のままの騎馬民族の本性そのままに戻ってしまった。

康熙帝は清朝で一番の子沢山、三十五男二十女を抱えたこともあり、
この数十人いる皇子らが一斉に色めき立った。

その取り巻きらの動きも激しくなった。






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北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

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このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで6、遊牧政権と内紛

2017年05月17日 21時26分13秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
万暦帝の大臣たちは、
「太子を一日も早く決めないことは国家動乱の元、そんな国に生まれたわが王朝の民は不幸でございます」
とでも言っただろう。

誰だって人の上に立てば、下の者から慕われたいという名誉欲が湧くものである。
まずはそこのツボで脅しをかける。

……と一事が万事このような具合なので、
明代の皇帝などは、おいそれと自分の思い通りに政治を進めることができなかったのである。

「とにかく存在しているだけでいい。
 好きなご婦人とでもお戯れ遊ばせ」

というのが、明代の皇帝に求められていた役割であった。
政権を狙う反逆者が現れないために、そこに「いる」ことだけが求められたわけである。


ところが清朝の皇帝はそういうわけにはいかない。

つまるところ、満州族という異民族の政権が270年あまりも存続できた、その存在意義というのは、
中原の王朝にとってそれまであまりにもコストのかかりすぎた防衛問題を解決してくれたからである。

モンゴル族を中心とする北方遊牧民から身を守るために、
明朝は膨大な予算と国民の犠牲を払い、ついにそれが維持できなくなって崩壊した。

そのモンゴル族を丸め込み、有力者たちと婚姻関係を結び、モンゴル語も学び、
モンゴル人が深く信じるラマ教に皇帝自ら改宗までもし、
モンゴルの庶民を兵士として雇用して給料を払って、
侵入される代わりに衣食住を保障することで安全問題を解決したわけである。


……そんなわけで清朝の皇帝は、草原の民に向かっては「ハーン」でいる必要があった。

つまり遊牧民のリーダーとして上に立つ者は、ただの「象徴」では許されないのである。
名実共に命を預けるに足る実力者でないと、皆が納得しない。

遊牧政権の頭の痛い問題である。
常に「名実ともに命を預けるに足る実力者」をリーダーに掲げるため、
やたらと内紛が起きて、政権が自滅していく。

たとえば初期のイスラム集団のカリフの交代が、圧倒的に暗殺による本人の死でなされたことを思い浮かべてほしい。


康熙帝の治世後期に起きた十数人の皇子らによるガチンコの後継者争いは、
まさにそんな遊牧政権の典型的な内紛といえるのではないか。



  


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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで5、長子相続と「皇帝」というシステム

2017年05月14日 18時08分30秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
例えば、明代末期の皇帝・万暦帝は、
一番の寵姫である鄭妃の生んだ皇子・朱常洵(のちの福王)を太子にしようとして、
大臣や官僚らのすさまじい反対を喰らっている。

長子・朱常洛は身分の低い宮女・王氏が産んだが、まったく愛していない女性の子に愛着が湧かぬ。
愛する女性の産んだ息子をどうしても太子に立てたいがために、いつまでたってもぐずぐずと太子を立てなかった。

絶対権力を持つ皇帝なのだから、好きなようにすればいいではないか、
と思うかもしれないが、そうは問屋が卸さない。

官僚集団には各種の手練手管があり、
おいそれと皇帝の思い通りにならないようなシステムが出来上がっていたのである。

だからこそ万暦帝本人だって優秀かぼんくらか見分けもつかない幼年時に
さっさと太子に立てられそのまま皇帝になることができたのではないか、
優秀だから皇帝になれたとでも思っているのか、
国家の一挙一動を一人で決められるくらいの器と能力があるから皇帝になれたとでも思っているのか、

……というのが官僚集団の言い分だろう。


万暦帝が六歳で早くも太子に立てられ、十歳で即位していることを思えば、
資格に該当する皇子が五、六歳になった頃にさっさと太子に決めてしまうことが、
国家体制の安定につながるのである。

いつまでたってもぐずぐずと太子を決めなければ、
立候補者の周りに取り巻きができて陰謀を企て、内乱の元となる。

そこで官僚たちは、まずひっきりなしに上奏文を書き、国家の安定のため早く太子をお決めください、と催促をする。


それでも皇帝を無視を決め込むと、「世間」と「歴史」を使って脅しをかける。





古北口鎮。
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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで4、二つの身分を同時に

2017年05月11日 15時02分41秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
順治帝が20代前半であっけなく亡くなると、
残された数人の皇子の中から選ばれて即位したのが、康熙帝である。

即位の年は父親と同じ八歳、両親共に亡い孤児だ。

中原に入り、紫禁城の主となった満州族はこの頃から漢人を意識した意思決定を行うが、
康熙帝が後継者に選ばれたのは、まさにその生母が漢人だったからである。


元来、漢民族の伝統である長子相続や嫡子相続には、体制安定の目的があることは前述のとおりである。
皇帝は特別優秀である必要はなく、優秀な官僚らがこれを支える。

だからこそ国内が「三藩の乱」で乱れたとき、康熙帝は狩猟民族の伝統を捨て、
中原の伝統に従い、まだ幼かった嫡子を太子を立てた。

「三藩の乱」は、元々満州人に協力して天下を取ってきた漢人王らの反乱である。
その大義名分は異民族である満州人から中国を漢人の手に取り戻すというものだった。

そのタイミングで、本来は「塞外」(つまりは万里の長城の外、中原文化の薫陶を受けていない夷荻ということ)
の習慣にはない「立太子」宣言により自らの「中原化」をアピールし、中原の民たる自覚のあることを示したわけである。

この政治パフォーマンスは、「三藩の乱」平定、漢人の心を満州側に引き付けるために大いに効果があったと言われている。


ところが満州人自身の中では、これと別問題を抱えていた。

つまりは中原の漢族を支配すると同時に、自身の民族内の団結を維持することも同様に重要なのである。
さらに清朝の皇帝は、チンギスハーン直系の最後のハーンと言われるリンダン・ハーンの正式な後継者でもある。

ホンタイジがリンダン・ハーンを攻め滅ぼし、その四人の「ハトン」(妃)を
自らの正式な妃以下、第三夫人とまでした時から、その位置づけにある。

清朝の皇帝は、中原王朝の「皇帝」であると同時に、モンゴル族を中心とするユーラシアの草原世界の「ハーン」でもあるという
二重の身分と役割を担うようになった。


このように満州人のスタンダードは未だに「塞外」モード、狩猟民族モードのままであり、
つまりはリーダーとして上に立つ者は、名実共に命を預けるに足る実力者でないと、皆が納得しない。

康熙帝はその意味で満州人を率いるに十分な堂々たるリーダーであった。
「三藩の乱」を平定し、国内の情勢を安定させ、兵士らを叱咤激励するために毎年熱河で大規模な巻き狩りを組織、
自ら獰猛な虎にとどめを刺し、リーダーたる資質を兵士らに示した。

そんな典型的な狩猟民族の「実力派」リーダーの次の代から
いきなり中原型「ぼんくら秩序安定第一」モデルに切り替えるのは、やはり無理がある。


中国の皇帝制度は「絶対権力」、皇帝は思うがままに好き勝手なことができるような印象があるが、実はそうではない。

朝廷に経済的な余裕があれば、好きなだけ酒色にふけり、奢侈を楽しめたことは間違いないが、
政治体制や政治そのものに関わる問題となると、おいそれと思い通りにならないものだったらしい。

典型的な漢人王朝とされる明朝でも、皇帝がすべてを思い通り決めていたかと言えば、肝心なことはあまり思い通りにできていない。





古北口鎮。
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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで3、ヌルハチ以後も後継者決定は実力主義

2017年05月08日 15時02分41秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
清朝が征服王朝として独自の後継者選びシステムを完成させるまでの軌跡を追ってみよう。

時代を清朝の創始者ヌルハチの子供たちまで遡って見る。

ヌルハチは満州族をまとめた創始者であるから、
実力による台頭であることはいうまでもないこととして、
その息子たちは、複雑な要素が多く絡み合うさまざまな背景を持っていた。

ヌルハチが勢力を広げていく過程で軍事同盟、征服による服従の証などさまざまな形で
各部族から有力者の娘がヌルハチに嫁ぎ、それぞれに子供を産んだ。

その中で後継者候補に名前が挙がったのは、兄弟の中でも能力が優れているか、
あるいは生母の実家の軍事力が強力でその力が部族の発展に不可欠な者だ。

最終的にヌルハチの後継者になったホンタイジは第八皇子、まったく長子でもなんでもない。
この人の場合は、生母の勢力背景のためではなく、自身の緻密な謀略によりその地位を手に入れた。


次にホンタイジの息子、順治帝も長男ではない。


順治帝が八歳の幼少にも関わらず選ばれたのは、
生母の孝庄皇太后ボルジギット氏の背後にあるモンゴルホルチン部との提携を期待されたことが大きい。

ボルジギット姓はチンギスハーンの直系の末裔のみに与えられる姓である。
モンゴルではチンギス・ハーンの直系でなければ、民衆がリーダーとして認めない心理があったらしい。

またホルチン部は最初期の頃にヌルハチと同盟関係になり、その軍事力に大いに依存するところがあったため、
ホルチンの血を引く皇帝を立てることは、大きな意味を持っていた。

が、順治帝は何分幼く非力すぎる。
皇帝の叔父として当時皇室で最も実力のあったドルゴンは母子にとっての脅威だった。


夫の弟であるドルゴンに嫁ぐのは、騎馬民族の中では広く行われてきた習慣でもある。
父親が死ねば後継者となる息子は自分の生母以外のすべての父の女たちを娶る。

兄が死に、弟が位を引き継ぐ場合も同じである。
よって騎馬民族的要素が色濃く残る満州族の中で、孝庄皇太后ボルジギット氏の再婚はあながち不自然な選択でもなかった。

この結婚は我が子の安全を確保するための策だったが、
少年時代継父であるドルゴンにいびられた順治帝は、情緒的に不安定な青年に成長する。

ドルゴンが死に、親政できるようになっても、弟の嫁さんを横取り挙句にその弟を殺したり、母親が決めた皇后を何度も廃したり、
かんしゃくを起こしては出家すると寺に駆け込んでみたり、奇行が目立つ。


結局若くして天然痘で亡くなった。





古北口鎮。
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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで2、草原の民の後継者争い

2017年05月05日 23時11分36秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
農耕民にも敵に襲われる要素がまったくないかといえばそうでもないが、
それぞれのの所有する土地の収穫が
生死に関わるほど落差が激しいということが日常的に存在するということは有り得ない。

人間というものは、遊牧民であれ農耕民であれ、生きるか死ぬかというところまで追い詰められなければ、
誰も自分から戦争を仕掛けて生死の危険を冒したいとは思わないだろう。

実際、中国世界でも遊牧民が万里の長城を突破して農耕地帯を襲うのは、
冷害で家畜が大量に死に、餓死の危機に追い詰められるなどの切迫した事情がある場合が多い。

農耕民であれば土地の条件が悪いと、それを改善するオプション的ノウハウがいくらか存在する。
水の条件が悪ければ、米ではなく小麦、
それより悪い場合はヒエ・アワ・コウリャン・とうもろこしなどの雑穀を植える、
と作物の品種を変えたり、灌漑施設を整えて水条件を改善することができる。


そんな農耕民の欠点は安穏たる生活に満たされ、危機管理が甘くなり騎馬民族に襲われたら、
ひとたまりもないことだろう。

中原の覇者を見ても、常に遊牧民の勇士を軍隊に取り入れ、優遇し活用できた者が天下を取って来た。
農耕民と遊牧民の二重構造が中華世界の歴史を突き動かす、なくてはならない二つの要素である。

前述のように、遊牧の民にとって部族単位という少人数で生産基盤の不安定な草原や砂漠の生活を送っている間は、
リーダー推戴型の後継者選びシステムが有利である。

ところが運よくも多くの部族を統合して集団の規模が大きくなったり、
農耕地帯を征服できてしまった場合には、
後継者の交替のたびに兄弟同士が殺しあう、一族同士がさまざまな勢力に分かれて反目しあうことで、
政権基盤が弱まり社会不安を起こすという欠点が出てくる。

モンゴル人政権だった元朝はわずか百年で崩壊し、
その後もやや勢力が強くなったかと思うと、後継者争いで力をすり減らし衰退する、ということを繰り返す。

イスラム政権のカリフが往々にして暗殺で交代する現象、
モンゴルの後継者を自負するインドのムガル帝国のスルタンはすべての兄弟を殺さなければ即位できないという現象もその延長上で語れる。


長子相続による政情安定システムが高度に完成していた中原に
大興安嶺の原生林から出てきたばかりの満州族が征服者として入ってきた。

その満州族の採るべき道は、
征服王朝として同族内の結束力を失わないために満州族をリーダー推戴型でまとめる一方で、
これを農耕社会の中原文明と如何に融合させていくか、という難しい舵取りを必要とするシステムの移行・融合である。

満州モデルの後継者移行システムでスムースに即位した最初の皇帝は、乾隆帝である。


……しかしそこに至るまでには、痛みを伴う模索があった。






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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで1、農耕民と騎馬民族の後継者選び

2017年05月02日 11時00分01秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
楠木のお話は、一応前回までで終わります。

今日からは新しいシリーズ。
遊牧民族の満州族が統治した清朝の佇まいに思いを馳せた雑文です。

おつきあいくださいー。


**************************************************


遊牧民に長男相続の伝統はない。

優秀でない長男がリーダーになったがために、他部族に襲われ征服されてしまえば、
女は全員犯されて妾にされ、男は皆殺しにされるか奴隷に落とされる。

死活問題に関わるから、農耕民族のような長子相続は行われない。


これと好対照にあるのが、農耕民族の長子相続だろう。

農耕民にとって必要なのは安定であり、
どんな資質の人間でも長子に生まれたら後継者にすると決めておけば、
争いが起こらないからである。

長子が少々馬鹿でも、周囲にいる長老たちが補助しながらやっていく。

農耕民族である漢民族の王朝として、
長子相続をうまく機能させていた典型的な王朝が明朝といえる。

三代目の永楽帝以後の皇帝は揃いも揃ってろくな資質の皇帝を輩出していない。

こんなひどいリーダーを掲げてどうして政権がさっさとつぶれないのか、不思議に感じるくらいである。

それでも三百年近くも王朝が続いたのは、実は皇帝の役割はあまり大きくはなく、
熾烈な科挙を勝ち抜いた選りすぐりの官僚集団がブレインとしてしっかり政治をサポートしたからである。

皇帝が少々阿呆でも、少々酒色に耽ろうとも、一人でできる贅沢はたかがしれている。

数億人の人口を持つ中国が一人の皇帝の贅沢を養えないほどでもない。
それよりも後継者が変わるたびに争いが起き、数年に渡り政治機能が麻痺してしまったり、
内乱で田畑・都市が荒らされ農産物の収穫が減り、
商売が妨げられて経済がストップしてしまう方がはるかに損失が大きいのである。


明朝は、半ば立憲君主制に移行していたともいえる。
それが巨大な帝国を治めていくために自然にたどり着いたシステムだったのかもしれない。


さて、そこにわずかな人口の少数民族・満州族が乗り込んできた。

長子相続ではなく、最も優秀な子弟を周りが推戴してリーダーにするという方式は、
ほぼすべての遊牧生活を送る民族に見られる。

その理由は前述のとおり、
草原の治安は不安定で常に機敏な決断力を持つリーダーがいない限り、生存を保てないからである。

逆に常に部族同士で襲ったり襲われたりすることは、遊牧生活自体の構造の脆さにもある。

冷害などで家畜が大量に死ぬ、水や草の条件がいい場所に限りがあるためにこれを取り合う、
という部族同士の争いの種が常に存在している。





村の中にある長城のリアルなアップ。

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